シャインとシャドウ 1話9



 温かい拍手に何度もお辞儀を返した後、ジェームズ王子に手を引かれてシャドウは人けのないテラスへ退いた。
 それまで紳士、淑女らしい慎ましやかな笑みを浮かべていたジェームズとシャドウだが、二人きりになると一変、忌々しそうに互いを睨み合った。
「よくもやってくれたな。俺が人前で歌うのを嫌っていると、よもや忘れたわけではあるまい」
「まあ、とてもお上手でしたわよ。陛下も大変お喜びのご様子だったじゃありませんか」
「さてはやはり、怒っているんだな。そんなにルークが気に入らなかったか」
「いいえ、気に入りました。出会わなければ良かったと思うほどに……。彼はとても面白い方ですね」

「それなら、何もかもあの男に話してしまえばいいだろう」

「そういうわけにはいきません。……贖いの対価は支払わなければ」

 ジェームズ王子は急に真顔になってしばし沈黙すると、それまでの茶化すような口ぶりを潜めて、低い声で呟いた。
「理不尽な運命になど、逆らえばいい」

 シャドウはかぶりを振って、そんなジェームズ王子を怪訝に見返す。
「貴方だって、やがて王になる定めを受け入れたではありませんか」
「俺には拒む理由がないからな」
「私に見抜けないとでも思っているのですか? 王としてこの国を治めることを、本当は貴方がどれほど恐れ、負いきれないほどの責任を感じているのか。幼いころは、あんなに泣いていたでしょう」
「昔はな。けれど、俺も変わったのだ。助けてくれる者はいつも傍に居て、一人ではないということが分かったから。たとえば、コムストッグ公爵の力添えは知恵に富み、柔軟で、しかも信頼できる。それと同じように、ルークも頼れる男だ。俺は、あいつになら何でも話せる」
「そうですか」
「それに、弟たちや、お前や、オフィリアもいる。みんな家族だ。だから俺は父の心を継ぎ、この国を治める王になると決めた。もう、恐れはしないさ」

「ジェームズ殿下」
 シャドウは親愛をこめてそう呼びかけた。
「未来の王に相応しいお心を得られて、貴方さまはとても素敵になられましたね」
 犬猿の仲である幼馴染から素直に褒められたことで、言葉を失うジェームズ王子であったが、そんな王子の心向きとは裏腹にシャドウの心は重く沈んで行った。
 私もこの国にとどまり、家族や、ジェームズ王子や、ルーク様とともにこの国を守りたい。
 シャドウはそう思ったけれど、それを口にすることはなかった。


「それで? ルークとはどこまで進んだんだ。もうキスくらいしたんだろうな」
「ふざけないでください。そんなことを仰るのは、ルーク様に失礼ではありませんか」
「つまらん。実に退屈だな」

「ねえ、ジェームズ」
 シャドウが小さく咳払いをしてから、改まって何かを聞きたそうにするので、ジェームズ王子はおや、という顔を向けた。
「なんだよ」
「ルーク様は、何がお好きでしょうか」
 控えめな問いかけと、微かに上気した頬を認めて、へえ、可愛いところもあるじゃないか、とジェームズ王子がほくそ笑む。

「ルークは本が好きだよ。ああ見えて博識で、多言語に通じている。ブルックリンの外交はほとんどあいつが仕切ってるくらいだ」
「どのような本を?」
「そうだな、俺はよく美術や音楽に関する本であいつに頭を叩かれる。王子なのに物を知らなすぎると、偉っそうに……」
 ジェームズ王子は舌打ちすると、最後に「気になるなら、自分で聞けよ」、と言って、シャドウをテラスに残して行ってしまった。
 シャドウは、初めてラッフルズと出会ったのが、コムストッグ邸の書庫であったことを思い出し、なるほど、と頷いた。彼が本を好きというのは本当らしい。

 シャドウも本が好きだ。だから、これからは読書をすれば彼を近くに感じられるような気がして、嬉しくなった。
 彼がまだ読んだことのない本、あるいは、彼がすでに読んだことのある本。読書をしながら、それらについて彼と会話することを想像するのは、とても楽しそうだ。
 そんなことを考えながら、心を膨らませてシャドウも大広間に戻ろうとした時、半開きになっていたテラスのガラス戸が、風でガシャリと閉じた。
 春に吹く季節風は、ブルックリンでは珍しくない。
 すぐに取っ手を引いたシャドウは、だが、ガラス戸が開かなくなっていることに気づいて、首を傾げた。
 戸が風で閉まった拍子に鍵がかかってしまったのだろうか。

 大広間にいる従僕に向かって、ガラス戸を開けてもらえるよう手を振ってみたのだが、どうしてなのか、今度は濃紺色の分厚いカーテンの留め金が外れて、ガラス戸を覆ってしまった。
 シャンデリアの光が届かなくなったテラスに宵闇が広がり、その暗がりの中でシャドウは急に心細い気持ちになった。
「誰か、ここを開けてください」
 コンコンとガラスを叩いて呼びかけてみても、大広間では管弦楽団の演奏が始まったところで、シャドウの声に気づく者はいないようだった。
「誰か!」
『シャドウ。月色の乙女よ』
 突然、背後からかけられた聞き覚えのないしわがれ声に、シャドウはハッとして振り返った。
 そこに、すっぽりと頭からローブをかぶって、背中を丸めた小さな老婆がいた。顔は見えなかったが、杖をつく手に刻まれた深い皺が、この暗がりの中でもはっきりと見えた。
 この老婦人は、どなたかの乳母か侍女だろうか、とシャドウは考えた。
 黒ずくめのドレスは、およそ舞踏会の招待客が纏うにしては不相応なものだったからだ。
 もちろん、舞踏会に乳母や侍女を伴って来るのは一般的なことではないが、主人が持病を抱えている場合などは、いつでも助けとなれるように例外的に付き添い役を伴うことがあるのだ。

「これは取り乱したところをお見せして、大変失礼いたしました。どなたかがいらっしゃるとは思いませんでしたので、驚きましたわ。風で戸が閉まって、開かなくなってしまったのです」
 シャドウは丁寧に老婆に非礼を詫びると、再びガラス戸に向きなおって取っ手を動かして見た。だが、やはり回らない。
「やっぱり、開きません。少し、冷えて参りましたね。寒くはありませんか?」
 春といっても、夜はまだ風が冷たい。
 ローブを纏っている老婆はおそらく、シャドウよりも先にテラスに出ていたことだろう。小さく痩せたご老体に寒さが悪さをしないか、今となっては自分が中に入れなくなったことよりも老婆のことが気がかりとなる。
 シャドウは老婆の傍にひざまづき、自らの手を老婆のしわがれた手に触れてみた。すっかり冷たくなっているかと思ったが、意外にも、その手は温かかった。
『とても、美しい女性になりましたね、シャドウ』
「わたくしのことをご存じなのですね。こちらは存じ上げず、恐縮です。もしよろしければ、貴女様のお名前をお聞かせ願えますか?」
 老婆を頭をもたげ、シャドウの顔を覗きこんできた。闇色の瞳がシャドウを捕え、皺だらけの顔にさらに深い皺が広がってゆくのを見ても、シャドウは少しも恐れなかった。 老婆は醜くはなかったし、笑みは穏やかなものだったからだ。
『魔女と、呼ばれています』
「まあ!」
 だがこの老婆の言葉には驚いて、シャドウは目を丸くしてマジマジと老婆を見つめ返した。
 しばしの沈黙があって後、シャドウは意を決し、真剣な眼差しで老婆に問い掛けた。
「わたくしを、迎えに来たのですか?」
『時はまだ満ちていません。しかし、私はそなたに警告を与えに来ました』
「ルーク様のことでしたら、わたくしは自らの心を治めるつもりです。お約束を違(たが)えることはありません」
『心を治めるのは一国を治めるほどに難しいことです。特に、人を愛する心は国を滅ぼすほど強いもの』
「愛などとは! まだ出会ったばかりなのです。互いに興味を抱いたというだけのこと」
『では、もう、あの男に会ってはいけません』

 悲しかった。
 私はシャドウなのだ、物心がついた頃からずっと、定めを受けてきた。
 この国を守るための、対価として。魔女の求めには応じなければならない。
 出会ったばかりの男性のことで、どうしてこれほどまでに心が痛むのだろうか。理解さえできない感情の出所に、まさかこんなに短時間で囚われてしまうとは。
 けれど、ジェームズ王子や、お父様や、ルーク様がこの国を支え、守っていかれるように、私も使命を全うしたい。

 そう思ったシャドウは、心の痛みをやり過ごして魔女に答えようとした。もう、オーギュスト伯爵には会わない、と。
 だがその時、白い仮面をつけた燕尾服の男が、勢いよくテラスに舞い降りてきた。
「これはこれは、東方の魔女さまではありませんか。遠路はるばる、そのようなご老体でよくぞここまで来られましたね」

 シャドウは唖然としてテラスの上を見上げた。
 彼は階上の窓から飛び降りて来たのだ。開け放たれた一つ上の窓から、カーテンが翻り出ている。かなり、高い……。
 シャドウは無意識のうちに、怪我はないのだろうか、とラッフルズの様子を伺った。今、ラッフルズは獲物を囲む豹のように音もなく歩き、高圧的に魔女を見下ろしている。

「あなたが何を考えているのかは知りませんが、ユイリア公女を脅(おびや)かし、僕から引き離すような真似は、承諾いたしかねます」
『若造が、何も知らずに生意気なことを』
「裏社会の決まりがあるはずだ。――表の人間を巻き込むべからず」
 そう言ったラッフルズの声は、牙のように鋭かった。シャドウがこれまでにおよそ感じたことのない、その場に居るだけで肌がピリピリ痛むほどの威圧感。もしかしてこれが、――殺意、というものなのだろうか。
「掟を破るなら、例えこの国を影で支えてきた三賢者の一人だとしても、僕はあなたを生かしてはおかないでしょう」

『これは我ら三賢者の合意による結果。お前の知るに及ばぬ領域の話しなのだ。我らを敵に回したところで、お前こそ生きておられると思うな』
「望むところです。ああ、もう、スローワルツの時間だ。どうぞ早々にお引き取り下さい、魔女さま」
 ラッフルズがテラスの外側を手で指し示すと、老婆はぴょんぴょんと跳ねるように小走りにテラスの端まで行き、そして――飛び降りた。

「なんてことを! ここは、かなり高いのですよ」
 シャドウが老婆を心配して駆けだして行くのを、ラッフルズが穏やかに引き止めた。
「大丈夫です。空を飛べますから」
「……、なんですって?」
「もちろん、魔術などではありませんよ。飛行力学的な研究に基づく仕掛けがあるのです。ちなみに、風を起こすことも容易い」
「……、そうですか」
 飛行力学の研究が各国で少しずつ進歩しているとは、シャドウも聞き及んだことがあった。ただ、あのような老婆が空を飛ぶとは信じ難くもあったが。しかし、ラッフルズの落ちつき払った様子からすると、あながち不可能なことではないのかもしれない。
「ですが、貴方は? お怪我はありませんか、あのような所から飛び降りてきたりして。どうかしていますよ」
 ラッフルズは白い仮面を取り去って、クスっと笑うと、シャドウを優しく引き寄せた。
 大広間では、舞踏会の最後を締めくくるスローワルツの音楽が序盤を終えて転回し始めたところだ。
「ご心配には及びません。それよりも、探しましたよ。後で僕とも踊ってくれると、約束したではありませんか。もう、これが最後の曲です」
 
 そこでシャドウは、ガラス戸が風で閉まって、その拍子に鍵がかかってしまった挙句に、カーテンまで下ろされてしまって中に入れなくなった窮状を訴えた。すると、ルークは心配もせずに肩をすくめた。
「好都合です。もう、誰にも邪魔されない。それに、戸は外からも開きませんでした。だから僕は上から来たのです。大方あの魔女が何か細工をしたんでしょう」
「まあ、それは大変ですね。なんとかしないと」
「ダンスが終わってから」
 この時初めて、ルークの声に拗ねたような子どもっぽさがこめられた。
 だからシャドウはきょとんとして、ひとまず差しのばされたオーギュスト伯爵の手をとって、お辞儀をした。
 そのまま体を引き寄せられて、シャドウの右半身と、オーギュスト伯爵の右半身がぴったりくっつくクローズドポジションとなると、伯爵はシャドウの方に足を踏み出して、音楽に合わせて二人はくるりとターンした。
 上手な相手と踊ると、互いの身体が一つになっているように感じるものだ。男性のリードがしっかりしていると、女性の体の軸は安定し、そのようなとき女性は感じるものなのだ。
「浮いているみたい」
 と。
 シャドウが思わず囁いた言葉に、オーギュスト伯爵は吹きだして、いきなりシャドウの身体を抱き上げてくるくると回りだした。
「目が回ってしまいますわ、オーギュスト伯爵様!」
 地面に下ろされると、オーギュスト伯爵はまたクローズドポジションを取り直して、シャドウに顔を近づけてきた。額と額が触れ合うほど近くに。
「ルーク、と。今度僕にそう言わせたら、次はキスしますよ、ユイリア」
「シャドウ、とお呼びください。それが私を守り、貴方様を守ることにもなるのですから」
「何から?」
「わたくしたちの間にある理性の壁を、おそらくいとも簡単に壊してしまうであろう、内なる情熱からです」
 ルークがまた吹きだした。
「コムストッグ邸にあったあの恋愛小説は、実は貴女の物ですね?」
「いいえ、違います。すでに申し上げた通り、あれは妹のシャインのものですけれど、帰ったらわたくしも早速読んでみるつもりですわ。恋について学ばなければ」
「そんなことしなくても、僕で実戦すればいい。ああいうのに書いてあるのは、嘘ばっかりですよ」
「貴方の命を危険にさらすわけにはまいりませんもの。もう会ってはいけないと。先ほどのご老人は、かなり怒っているようでしたから」
「深い知恵と見識を持っているために、魔女と揶揄されているだけで、あれはただの人間です」
 ルークがきっぱりと断言した。彼はシャドウのように魔女を恐れてはいないようだ。
「三賢者、と仰っていましたね。お知り合いなのですか?」
「はい」
 左右に、ゆっくりと重ねた体を揺り動かしながら、ルークは静かに囁いた。
「この国には、表に顔を出さずに国に仕える裏社会の人間というものがいて、御察しのように、僕もその一人です」
「そうですか」
「ちなみにさっきのは僕の曽祖母です。早く、死ねばいいのに」
「まあ……、驚きました」
「僕のことが嫌いになりましたか?」
「いいえ、まさか。でも、死んだら良いなどと言ってはなりませんわ。家族なのですから」

――家族。
 その言葉の温かさを、ルークはしばらく忘れていたように思った。
 この月色の乙女は、冷たい知恵者のようでいて、本当はすごく温かく人間味の溢れる女性なのかもしれない。
 彼女こそは、――ユイリア。
「ユイリア」
「どうか、シャドウとお呼びください」
「いいえ。貴女をシャドウと呼ぶことは、僕らの世界に貴女を巻き込むようで嫌なのです。シャドウという暗い名前は、裏社会のものです。貴女には表の世界が似合っている。光のあたる場所が」

 このときシャドウは、オーギュスト伯爵がなぜ、ルークという呼び名にこだわるのかを理解した。
 ルークには、先陣を切って国を守る『戦車』という意味がある。だがもう一つ、ブルックリンでは、ルークには『光を運ぶ者』という意味があるのだ。古の時代から言葉を重んじるブルックリンの国民は、言葉には強い力があると信じている。
 彼は裏社会の人間でありながら、表の世界にある光を愛しているのだ、とシャドウは思った。
――光を運ぶ者。
「素敵な名前ですね、ルーク」
――真の王の庭に咲く花
「貴女も。ユイリア」

 互いの体温を感じながら、心通わせる相手と音楽にのることは、この上なく心地の良いものだった。
 このような時間が、ずっと続けばいいのにと、ユイリアは思った。



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