シャインとシャドウ 1話10



 最後のスローワルツが終わって、招待客たちが王に挨拶をのべてまばらに帰途につきはじめる頃になっても、テラスのガラス戸は開かれることがなかった。
「誰か、ここを開けてくれ」
 ルークは最初、粘り強く窓を叩いて大広間の中にいる者たちに呼びかけていた。だが、ユイリアにあれやこれやと口出しをされているうちに、微かに苛立ちを見せ始めていた。

「かの名高いラッフルズ様なら、鍵をこじ開けるくらいお手の物でしょうに」
「何か粘性のあるもので固められているのです。匂いからするに、これは松脂じゃないかな……あのクソ婆」
「またそんな汚いお言葉を。火はありませんか? 松脂を解かせるでしょう」
「僕もそれを考えていたところですが、あいにく持ち合わせていません」
 ユイリアはしばし思案すると、やがて仕方ないというふうに頷いて、深緑色のおそろしく引力のある瞳をルークに向けてきた。
「では、あなたが先ほど降りてきた所の窓まで上って、助けを呼んでください」
 ルークはひっそりと笑みを受けべて、
「ところが、重力に従って落ちて来るのは簡単でも、それに逆らって上るのは大変なんですよ」
 と、言った。
 それでも、無茶なことを平気でお願いしてくるこの美しい乙女は、儚げな子どものように、困った顔でルークの腕を掴んできた。
「でも、いよいよ寒くなってきました。もう限界です」
 気丈な振る舞いの目立つユイリアだが、今はか弱く震えている。これは早々に何とかせずにはいられない、とルークの胸が締め付けられたのは、言うまでもない。
 鍵穴の前に屈みこんでいたルークは立ち上がり、姿勢を整えると呼吸を一つ、静かに吐いて……ガンッ!
 その忌々しいガラス戸を蹴りあげた。
 その衝撃で取っ手は完全に損壊したが、戸は力なく奥に開いて、風でふわりとカーテンが舞い上がりシャンデリアの光が外にこぼれ出てきた。

「よし、開いた」
 大広間に残っていた者たちが驚いた顔で振り返っている。だがルークはかまわずユイリアを手招きして、光の眩しい広間に先に入らせた。
「呆れた。なにも、蹴ることはないでしょう」

 ユイリアを見つけた従僕が、彼女のロングケープを持って駆け寄ってきた。コムストッグ公爵と夫人、それに妹のオフィリアが先にエントランスで待っているという。
「貴女が寒いと言うから、緊急手段に出たんでしょう」
 と、ルークがユイリアの耳もとで囁いた。
 ユイリアは従僕にロングケープを纏わせてもらいながら、ふわりと淑女の笑みを浮かべてルークに応じた。
「扉を壊すくらいなら、もう少し我慢できました。わたくしは、貴方様が壁上りをする御姿を、見たかったのに」
「まさか僕の曲芸が目当てで、あんな今にも死んでしまいそうな声を出されたのではないでしょうね」
「そうです」
 悪びれることもなく即答するユイリアに、ルークは一瞬、言葉を詰まらせるが、紳士らしく彼女の手を引いてエントランスへと歩み始めた。
「次は騙されませんよ」

 大広間の扉を抜けてエントランスに出ると、ユイリアの父コムストッグ公爵が王と妃に囲まれて話しをしているところだった。すぐ傍に、母シャーロットと、妹のオフィリア、それにジェームズ王子もいる。
 皆、ユイリアに気がつくとホッとしたような表情を浮かべたが、ジェームズ王子だけはニヤニヤしている。
 ユイリアはルークとともに一同に会釈をすると、姿を消して心配をかけたことを詫びた。
「テラスの扉が風で閉まってしまい、その拍子に中から鍵がかかってしまったようなのです。広間に戻れず困っていたところを、こちらのアレクサンドル・ダラハン・ルーク・オーギュスト伯爵様に助けていただきました」
 ルークが胸に手を当ててハイエネス・コムストッグ公爵にお辞儀をすると、
「かねてから、君の活躍は耳にしているよ。お会いできて光栄だ」
 と、コムストッグ公爵から握手を求められ、ルークは紳士らしくそれに応じた。

「さあ、もう夜も遅い。御者を待たせているから、私たちも帰ることにしよう。ユイリア、陛下にご挨拶を」
 父に言われて、ユイリアは国王の前に進み出て膝を折った。
「今宵は特別にお招きいただき、真に光栄でございました。心より陛下のお誕生を、お祝い申し上げます」
「久しぶりに可愛い姪の顔を見られて、わしも満足じゃ。そなたの踊りや、ハープをまた是非、楽しませてもらいたいものだな」
「陛下のためなら、いつでも喜んで」
 それからユイリアは体を少しずらして、オードリア王妃の前でも頭を下げた。
 妃は愛情に満ちた眼差しでユイリアをしばし見つめると、強く抱擁して、額に優しくキスをしてくれた。
「今日は来てくれてありがとう、ユイリア。とりわけ、貴女の奏でるハープの音色には、涙が出るほど感動しました。本当に、心も体も美しくなって……」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。小さなユイリアは大きくなっても、オードリア王女様が大好きですわ」
「可愛い私の姪っこさん。いつまでも、お元気で」

 最後にユイリアは、膝を折ってジェームズ王子にも会釈した。
「お前をリフトした肩が、今になって痛むんだ。少し、重くなったんじゃないか、ユイリア」
「っ……」
 ユイリアが表情を失っている前で、オードリア王妃が、燕のように鋭い動きでパシンとジェームズ王子の頭を叩いた。
 エリア王とコムストッグ公爵が視線を交わし、苦笑いを見せる横で、ルークもジェームズ王子が叩かれたのは当然だと思う。

「素晴らしい御歌の披露、とてもご立派でしたわ。是非ともまたお聞かせください。それでは、御機嫌ようジェームズ殿下」
 そう言って微笑みかけるユイリアの目が、「いつかまた人前で歌わせてやるからな」と言っているように、ジェームズ王子には見えた。
「これにて失礼いたします」

 ハイエネス・コムストッグ公爵のこの言葉で、公爵家一行は王の御前から立ち去った。


 国王夫妻が他の客の相手を始めたので、ジェームズ王子とルークは二人で歩き出した。
「それで?」
 エントランスから外に出て、春先の芳しい空気を胸一杯に吸い込みながら、白亜の階段を下る二人の青年の姿は、それだけで人目を引いた。ジェームズ王子もルークも、社交界では人気のある人物だ。今宵、彼らと踊れなかったことを悲しむ貴婦人は多いだろう。
 ジェームズ王子が手で合図すると、一人の従僕がルークのクロークを抱えてやってきた。
 それを着せかけてもらいながら、ルークが問い返す。
「それで、って、何が」
 ジェームズ王子は従僕が去ってしまうのを少しの間待ってから、楽しそうに目を細めた。
「テラスにしばらく二人きりでいたんだろう? キスくらい、したんだろうな」
「失礼なことを言うな。あのように純潔なコムストッグ公女が、出会ったばかりの俺に唇をゆるすはずがないだろう。ワルツを少し踊っただけだよ」
「それは退屈だったろうな」
「いや、あんなに胸が高鳴ったことはない」
「でも踊っただけだろう? 俺様がせっかく人払いをしてやったというのに、無駄にしたな」
「まさかガラス戸に鍵をかけたのは、お前じゃないだろうな、ジェームズ」
「俺を誰だと思ってる、王子様だぞ。鍵の掛け方など、知るわけがないだろう。もっとも、こじ開けるのはお前の専門なんだろうが」
 ジェームズ王子はいつになく饒舌に喋る。
 人の気も知らないで、殴ってやろうか、とルークは内心で思った。だが思いとどまって、テラスであったことをこの王子に打ち明けることにした。

「三賢者の一人が、テラスに現われたんだ。あまりにビックリして、ロマンスもへったくれもあったものじゃない」
「なんだって」
 三賢者と聞いて、ジェームズ王子の顔が急に険しくなる。
「もちろんすぐに追い払ったが、厄介なことを言っていた」
「話せ」
 窮のある事務的な口調。ラッフルズと話すときのジェームズ王子はいつもそうだった。
 この国を守る、王子たる責任と威厳。
「コムストッグ公女に関わる事柄には、三賢者の合意があるらしい。最も、その事柄の内容を俺はまだ知らない。だが、三賢者の合意はまずいだろ」
「そうだな。三賢者の合意を得た決断には、王にも覆すことができない絶対不可侵領域の力がある。それだけ国にとって重要な決定ということだ」
「腑に落ちない。三賢者は公女を一体どうしようというんだ」
「もう何年も前から、それこそ俺たちがまだ子どもだった頃から、この国には徐々に暗い影が迫り、それが国を脅かしているのは知っているよな」
「俺がラッフルズとなって、夜な夜な探しているスパイのことだな。上手く隠れてるよ、いまだに見つからないんだから」
「そう、この国には裏切り者がいる。しかも、それは王のすぐ近くに。お前の親父さんがそれで命を落としたようにな、ルーク」
「そのことと、三賢者が公女ユイリアを必要とすることに、どう関係がある?」
「それはまだ分からないが、三賢者合意ともなれば、この国の裏切り者に対する何らかの措置のためにユイリアを利用しようとしているとしか、考えられないだろう」

 ユイリアは、時がくれば自分はこの国を去らなければならない、とルークに言った。―― 一体、どこへ?
 三賢者がユイリアをどこかへ連れ去るつもりなら、誰にもそれを止められない、否、止めてはならないはずだった。
 けれど、そんなことはあまりに理不尽ではないか、とルークは思った。

「ルーク、この国であの恐い婆様たちと話ができるのは、お前だけだ。賢者と呼ばれる者たちが何をしようとしているのか、探ってみる価値はあるかもしれない」
「そのつもりだよ」
「頼んだぞ。時間は、あまりない」

 棘の多い白薔薇の家紋が施された、深紅の天蓋つき馬車。
 その馬車に、クロークの裾を翻してルークが軽々と乗り込んだ。
「用心しろよ、ルーク」
「お前もな、ジェームズ」

 今宵の舞踏会には光が溢れ、あまりに幸いが満ちていたからなのかもしれない。
 だから静けさの中、すっかり更けた真夜中の月はいつになく悲しげで、どこか不気味に見えた。王の庭に集まっていた民の灯篭は消え、辺りには闇が満ちている。その見通すことのできない闇の中に、邪悪な敵意が獲物を見据えながらただジッと息を潜めているような気さえして。
 この瞬間、ジェームズ王子とルークは奇遇にも同じ不穏を感じとっていた。
 だから互いの身を案じながら、その夜の別れを告げたのだった。



1話 (完)  2話へ続く