シャインとシャドウ 1話7



「それで、その頭につけてる草はなんだい」
 ジェームズ王子がニヤリとしてユイリアを見下ろして来た。
 昔は目線がいつもユイリアより少し下だったのに、本当に背が伸びたものだな、とユイリアは思う。リフトされる位置も昔よりずっと高くなっていたので驚いた。
「アロマティカです。匂いが好きでしょう? 忘れたのですか」
 昔、ジェームズ王子が暖炉の火かき棒で火傷をしたことがあって、その応急処置にユイリアが用いた薬草がアロマティカなのだ。手に巻かれた包帯に鼻をつけて、「いい匂いだな」と言った王子の言葉を、ユイリアは忘れていない。

「そんなことは知ってる。俺が聞きたいのは、なぜ俺の好きな香りのするものをわざわざ頭につけているのだ、ということだ。さては俺に惚れたのかな」
 ユイリアは小さく肩をすくめて、ジェームズ王子の深緑色の上衣に視線を向ける。

「そういう貴方様は、なぜこの上衣を? 私の瞳の色にそっくりですこと」
 ブルックリンでは、相手の好きなものや、相手を象徴する色を自分も身につけることで、その相手への好意を暗に示すのだ。
「この色、なかなかなくてな。だが、紳士がダンスの相手に敬意を払うのは当然のことだから、特別に繕わせた」
「まあ、貴方様の質問には、貴方様ご自身が答えてくださいましたわ。――ダンスの御相手に敬意を払うのは当然のこと。このアロマティカも、温室で侍女に特別に摘んでもらいましたの」
「相変わらず可愛げがないな」

「ところで、わざわざわたくしを呼び付けたのには、他に理由があるのでしょう?」
「察しがよくて助かるよ。実は、お前に紹介したい男がいる」
「御冗談を! 私が男性と知り合ってはいけないことを、貴方様もご存じのはずでしょう」
「だが、その男ならあるいは、魔女とも対等に渡り合えるかもしれない。俺の親友なんだ、――アレクサンドル・ダラハン・ルーク・オーギュスト伯爵」

 王子の視線の先をユイリアが振り返ると、黒い燕尾服をやけに上手く着こなした好青年がいつの間にか、すぐ傍に立っていた。歳は、ユイリアよりも少し上だろうか。人好きのしそうな黒くて優しい目をしているが、その瞳はよく見ると、狼のような鋭さを秘めている。まだ若いのに、人生経験は豊富ということか。もしかすると、ジェームズ王子が言った、「魔女とも対等に渡り合えるかもしれない」、とはそのことだろうか。
 黒い髪は清潔で、かすかにミントの香りがする。だが少し伸びている前髪が無造作に額にかかっていて、それが彼の男性的魅力を危険に引き立てているのが、ユイリアには気に入らなかった。彼は意図していないかもしれないが、いかにも女性にもてそうだ。

「こちらは、ユイリア・ロザリンド・ハイエネス・コムストッグ公女。シャドウだ」
 ジェームズ王子に紹介されたユイリアとオーギュスト伯爵は、互いに敬意あるお辞儀を送り合った。
 お辞儀のとき、ユイリアは伯爵の下半身にさり気なく視線を走らせた。黒いエナメルの靴も、体に合わせて仕立てられたズボンも上等で綺麗なものだ。
 だが、彼が纏う襟付きベストの金ボタンに目を留めたユイリアは、密かに息を呑む。
――数日前、コムストッグ邸の書庫で見た仮面の男ラッフルズが、これと同じ家紋入りの金ボタンをしていた。
 棘の多い白薔薇の家紋を、見間違うはずがない。

「御目にかかれて光栄です、公女」
 テノールが深く上品に揺れる声。
 声の種類は仮面の男とはやや異なるが、一つ一つのイントネーションは同じに思えた。自らも様々な楽器を奏でるユイリアは、耳には自信がある。

 伯爵が差しだして来た手をそっと掴みながら、
「今夜は、仮面舞踏会ではないのですね」
 と、ユイリアはにこやかにオーギュスト伯爵に微笑みかけた。だが、その目は全然笑っていない。
 もちろん、今夜が仮面舞踏会ではないことをユイリアは知っている。ただ、『仮面』という言葉に伯爵がどう反応するかを見たかったのだ。
 そしてその瞬間、オーギュスト伯爵とジェームズ王子が素早く視線を交わし合ったことにも、ユイリアは気がついた。
 なるほど、ジェームズ王子も仮面の男の正体を知っているのだ、と、ユイリアは確信した。

「一体、何のことを言っているんだ? そんな下品なものを、王宮で開くはずがないだろう。まあ、俺はやってみたいが」
 そもそも仮面舞踏会とは、身分を伏せて一夜限りの色欲の相手を探す秘密の夜会をさすのだ。
 とりあえずとぼけてみても、ユイリアに真っすぐに見つめられたジェームズ王子はすでに諦め顔だ。

「そちらこそ、一体、何をお考えですか? わたくしをこの方にお引き合わせになる理由をお話しください」
「僕が貴女に会いたいと、お願いしたのです」
 オーギュスト伯爵が割って入ると、ユイリアは今度は驚いたように鋭く伯爵を見つめた。
「まあ、一国の王や王子を動かすほどのお力が、伯爵様にはおありですか?」
「もちろん、ありません」
 オーギュスト伯爵は苦笑いした。
「ですが、言ったでしょう。僕は、――欲しいものを手に入れるのが、すごく得意なのです」
 クスリと笑った伯爵に投げかけられたウィンクに、ユイリアは一瞬、言葉を詰まらせた。
「恐れ入りましたわ」
「どういたしまして。こちらも、貴女の怒った顔には恐れ入りましたよ」
「ルーク、どうする? 心変わりしたなら、その恐い女はこっちで引き取るぞ」
 この失礼なジェームズ王子の発言には、さすがのユイリアも明らかな嫌悪を顔に出す。
「とんでもない。喜んで公女のお相手をつとめさせていただきます。もちろん、貴女さえよろしければですが、シャドウ様」

 一度(ひとたび)見つめられただけで、女性をのぼせあがらせてしまうほどの優しくて鋭い、熱のある瞳。
 この紳士のために、ユイリアは今宵の舞踏会に招かれた……? 何故。
 一目惚れ、などという感情の高まりに理性を委ねるつもりなど毛頭なかったが、目の前の紳士には不思議な魅力があった。
 彼と話して見るのは、面白いかもしれない。

「喜んで」
「本気かよ」
 ジェームズ王子がニヤニヤと二人を見つめている。
 そんな王子には目もくれず、ユイリアが膝を屈めて伯爵に手を差し伸べられるのを待つと、オーギュスト伯爵は意外にも、ユイリアが想像したよりはるかに嬉しそうに瞳を輝かせた。
「それでは、しばしお暇(いとま)を、ジェームズ殿下」
 オーギュスト伯爵が差し伸べるシルクのグローブをはめた手に、ユイリアはそっと自分の手を重ねた。
「御機嫌よう、ジェームズ殿下」
 と、ジェームズ王子に挨拶をして。

 それからオーギュスト伯爵はユイリアの手を引いて、大広間と続きの間になっているドリンクホールに向かって歩き出した。
「なるほど、二人で手を取り合うことにしたようだな。親友として嬉しくはあるが、お前の身を案じるぞ、ルーク」
 ジェームズ王子は他人の不幸を全然心配していないくせに、あえて心配だと口にしながらこの上ない笑顔で二人を見送った。
 賢こすぎる自制心の女と、王をも脅かす型破りな怪盗。なんとお似合いな二人であることか。面白い。

「もしかして、踊りたかったですか?」
 管弦の音楽から離れてドリンクホールにやってきたとき、オーギュスト伯爵はふと思い立ったように聞いて来た。

「いいえ、少し休ませていただけるなら幸いです。あまりに激しく振りまわされて、息が上がってしまいましたから」
「貴女はとても綺麗でしたよ。ジェームズ殿下とあんなに上手に踊る姫君を、僕は今まで見たことがないな」
 その時、給仕が盆に乗せたシャンパンを運んで来たので、伯爵はユイリアをソファーに座らせてから、二つとった。
「物心がついた頃から、殿下の練習相手をしておりました。そのせいで、わたくしたちは全く気が合いませんのに、ダンスだけは阿吽の呼吸なのです」
「へえ、そうですか」
 オーギュスト伯爵はユイリアの膝もとにひざまづくと、シャンパングラスの1つを差し伸べて、抜け目なく微笑んだ。
「あとで僕とも、踊って下さい。阿吽の呼吸とは、いかないかもしれませんが」
「踊りがお好きでなのですか?」
「好きとか嫌いとか考える間もなく仕込まれたので、好きだと思ったことはありません。けれど、貴女とは踊りたい」

 正直な男だ、と、ユイリアは思った。それに、オーギュスト伯爵は物言いがすごく率直だ。社交界の男性は、みんな彼のようなのだろうか。
 だとすれば、妹のオフィリアが殿方との恋愛に夢中になっていることにも頷けるかもしれない。
 オーギュスト伯爵の視線にはまるで素肌に触れる体温があるかのようで、見つめられると、ドキドキする。
 ユイリアは差し伸べられた方のシャンパングラスを手に取ると、オーギュスト伯爵が持つグラスにそれを軽くコンと打ち合わせた。

「喜んでお受けいたします」
 するとまたしても、ユイリアが思った以上に、伯爵は心底ホッとした様子を見せた。――どうして? まさか断られるとでも思ったのだろうか。
 それからようやく立ち上がって、伯爵はユイリアの隣に浅く腰かけると、口を開いた。

「ところで、どうして僕の正体がわかったのですか? 出会って、たった一言、言葉を交わしただけなのに」
「バレないと思われていたことが間違いですわ。貴方さまだってあの時、私がシャインとは違うとすぐに気がついたでしょう」
「教えてください。お願いですから。どんなドジを踏みましたか、僕は」
「家紋入りの金の飾りボタンと、貴方様の声で、ピンときました。あの日も、王宮舞踏会に出席されていたのですね」

 確かに、あの日もオーギュスト伯爵は王宮舞踏会に出席していたから、金の飾りボタンは家紋入りのものをつけていた。だが――
「月明りしか届かないあの暗がりの中で、これが見えたのですか」
「見えました。もともと、初めてお目にかかる方のことは、よく観察するようにしておりますので。だって、貴方様は何者ですか? と、こちらからいろいろ聞き出そうとするよりも、静かに読みとる方がずっと失礼がなく、それに簡単ですから」
 ユイリアのこの発言に、オーギュスト伯爵はにわかに舌を巻いた。
――シャドウはシャインよりもずっと賢い。
 そう言ったジェームズ王子の言葉に嘘はなかったのだと知る。

「ですが、声は? 僕は仮面をつけているときは、声を変えています」
「確かに、声は違いました。けれど、言葉の端々に出る微かな響きの特徴は、同じでしたわ。貴方様の話し方には癖がなく、他に類を見ないほどとても綺麗です。きっと大変な訓練を重ねられたのですね。感心いたします」
 オーギュスト伯爵はこれにも言葉を失った。
 怪盗としての家業を継ぐため、癖のないアクセントで話すこと、そして、男から女まで様々な声を真似て出せるようにとは、生まれたときから訓練してきたこと。それらすべてを見抜かれてしまっているとは、なんて恐ろしい公女だろう。

「僕の正体は誰にも……」
 口止めしなければ、自分の身が危ないかもしれない、と思った時、ユイリアが彼の言葉を遮って言った。
「ジェームズ殿下が承知ということは、貴方さまの手の技が国に必要とされている、何か特別な事情があるのでしょう。もちろん、誰にも話しません」
 言わなくても、すべてを瞬時に察知してしまう。
 これほど知恵に溢れ、洞察力のある女性が、「誰にも話さない」と言うのなら、それは信頼に値するものだとオーギュスト伯爵は思った。

「けれど、秘密は秘密のままに、と約束したのに。一夜にして明らかになってしまいましたね」
「貴女の名前も、ユイリア」
 オーギュスト伯爵がグラスを掲げてから、一口飲んだ。
「オーギュスト伯爵様の正体も」
 ユイリアも同じようにグラスに口をつけると、それから二人は互いにクスリと笑い合った。
「僕のことは、ルークと呼んでください」
「私は、公にはシャドウと呼ばれています」
「その通り名は、あまりにも貴女に相応しくない」
「むしろ、わたくしにこそ、相応しい呼び名だと思うのですが」
 すると、少しの間を置いてから、オーギュスト伯爵が控えめにユイリアに訊ねた。
「貴女が影のようにこれまで身を潜めてこられた理由を、お聞かせ願えませんか」
「それを知ることが、ルーク様の得になるとはとても思えませんわ」
「それでも僕は、貴女のことが知りたい。今日まで貴女に出会えずに、時を無駄に過ごしてきたことが悔やまれてならない」
「もしかすると、わたくしに好意を抱いてくれていますか? ルーク様」
「もしかして貴女は、まだ僕に好意を抱いてくれていないのですか? ユイリア」
「シャドウ、と」
「それは貴女に相応しくないから、嫌です」
「わたくしが今日まで身を潜めてきた理由は、そして、明日からもまた身を潜めなければならない理由は、それでも申し上げたくありません。家族の名誉に関わることなのです」
「明日は、もう会えない?」
「明日も、明後日も。またと出会える機会はないと思います。いずれにしろ、18の誕生日を迎える日に、わたくしはこの国を去る定めにあります」
「嫁ぎ先が決まっているということですか? どこに?」
「そうではありません。わたくしにも分からないのです。誰にも」
 オーギュスト伯爵の目が鋭く光り、かすかに細められた。
「貴女を脅かしているのは、一体、何の力ですか」
「魔女の、……」

 ユイリアが口を開きかけた、その時、窓も開いていないのに強い風がホールに吹き抜けて、燭台の灯りが消え去った。

 すぐに従僕たちが駆けつけて来て、ホールの燭台を灯し直したが、皆一様に、一体この風はどこから来たのかと驚き怪しんだ。

 ユイリアは口を閉ざして、ただ、隣に居るオーギュスト伯爵を見つめた。
 伯爵も、ユイリアに負けず劣らず賢こく機知に富んだ男だ。ユイリアが「魔女の、」と言いかけた瞬間に、不気味な風が吹きぬけたことに、気づかぬはずがなかった。
「なるほど。貴女の抗えない力があることが、なんとなくわかりました」
 オーギュスト伯爵は空になったシャンパングラスを傍のテーブルに置くと、ユイリアの手をとって、ソファーから立ちあがらせた。
「大丈夫です。貴女は沈黙を守り、僕は知るべきことを自分で捜すとしましょう」

 いつも近くで、誰かに見られている予感はしていた。
 魔女はきっと、今夜もユイリアのすぐ傍で見ている。
 自分が軽薄に口を開きかけたことを、ユイリアは深く後悔した。けれど、このオーギュスト伯爵の振る舞いはどうだろう。語らずとも悟ってくれた。ユイリアの恐れも、語れぬ事情も。そしてユイリアを安心させるように、手を引いて光の中に連れて行ってくれる。

 なんと、頼もしい方であろうか。




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