シャインとシャドウ 1話6
王宮の周りには早くから民が集まっている。みな、王の誕生を祝って灯篭を上げ、あちらこちらで歌を歌っている。
この日、祝いのために訪れた者は誰でも、王の庭園に招かれて祝いの食事にあずかる。この日だけはすべての者が、王の庭に招かれているのだ。
だが、泉を越えた奥の庭に入ることが許されているのは、王に特別に招かれた貴族たちである。
光輝く王宮を映し出す宵の泉は、その上に架かる石橋をユイリアたちの馬車が通りぬけると、波紋を広げた。
美しくもあり、不安げでもあるその煌めきが、ユイリアの心そのものを象徴しているかのようだ。
「綺麗ね」
滑らかに進む馬車の中で、ユイリアが囁いた。
妹のオフィリアがその心中を察して、優しく語りかける。
「昔とまったく変わらないわ。王様も、王子たちも。ただ、王子たちは昔よりもかなり、背が伸びたけれどね」
ユイリアは窓の外を眺めたまま、「そう。もう彼らを見下ろせないのね」、と何と言うことはない様子で囁き返す。
オフィリアはそんな姉を見つめて、唇の端に天使の笑みを浮かべた。
「ユイリアなら今でもわけなく彼らを足げにできるわよ。昔はいつも王子たちをやりこめていたっけ」
姉妹がまだ、野原を駆け回って遊んでいた頃、ジェームズ王子が鴨狩りの最中に捕まえた蛇を、オフィリアのスカートの中に入れたことがある。
オフィリアは泣き叫んで、そのあとしばらくジェームズ王子に近寄ろうとしなかったが、ユイリアはいとも簡単に蛇を妹のスカートの中から取り出すと、それをその晩のジェームズ王子の食事にお返し差し上げた。
好物の鴨のピュレが出て来ると思った王子は、目の前でクロッシュが上げられると中から蛇が飛び出したので、椅子から転げ落ちるほど驚いたものだ。
国王や公爵家が一同に揃う厳かな晩餐で、ユイリアは少しも表情を崩さずにこう言った。
「まあ、見事な狩りの収穫ですこと。てっきり、ジェームズ様は鴨狩りにお出かけになったと思っておりましたけれど」
そしてユイリアは自分の前に運ばれてきた鴨のピュレを一口頬張ると、子どもながらにしとやかに王子に微笑みかけた。
「ジェームズ様、もしそれがお好きなら、次はわたくしが、もっともっと、たくさん獲って差し上げますわ。何と言っても、ジェームズ様のためですもの!
手加減はいたしませんわよ」
大人たちは、食卓の上を這いまわる蛇に閉口するばかりだったが、ユイリアはこのとき公然と王子に警告を与えたのだった。
次やったら、こんなものでは済ませませんよ、と。
ジェームズ王子も馬鹿ではなかったから、ユイリアの警告を重く受け止め、二度とイタズラを仕掛けて来ることはなかった。……少なくとも蛇では。
あの手この手をつかって、王子側から仕掛けられるイタズラを、ユイリアがやり返すという攻防が繰り返されていた幼少時代。
そんな幼馴染と、まさか再会することになるとは思ってもみなかったこと。
ジェームズ王子はどのように成長されただろうか。
そして今度は一体、何を企んでおられるのか……。
王宮が目前に迫るにつれ、この度の不可解な【招待】はユイリアの心を悩ませ、締め付けた。
しかし、馬車が王宮の前庭に着き、出迎えの従僕に手をとられて白亜の大理石の上に降り立ったユイリアは思いがけず、涙が溢れた。
切ないほど懐かしく、楽しかった日々の思い出がこみ上げて来たのだ。
昔よく皆で踊ったカドリール。ふと、それを踊りたいとユイリアは思った。
音楽に合わせて伯父や、従兄や、家族とともに次々に手を交えながら、今夜またあれを踊れるなら、自分はなんと幸せ者であろうか。
ブルックリンの舞踏会では、1曲目はたいてい集団で踊る、さほど難易度の高くないカドリールとなるのが定番だった。
だから今夜も、カドリールはきっとあるはずだ。
カドリールの後は、男女がカップルになって踊るワルツが続き、途中にポルカを挟んで、最後は本命の相手としっとり抱き合って踊るスローワルツとなる。
踊りが上手いということは、ブルックリンでの社交界ではかなり華やかなステータスとなる。
だから、ユイリアもオフィリアも幼いころから、よく王子たちのお相手になってダンスを練習したものだ。
国王も、妃も、王子たちもみな、踊ることが大好きなので、ブルックリンの踊りとそれを盛り上げる歌や音楽には、他国を凌ぐ美しさと技がある。
ブルックリンといえば歌と踊り。それは国民的文化でもある。
「大丈夫かい、ユイリア?」
父ハイエネスが娘の潤んだ瞳に気づいて、優しく抱きよせた。
「大丈夫です、お父様。ただ、自分で思っていたよりもずっと、この場所を愛おしく思っていたのだと気付いたら、少し昔が懐かしくなったのです。今宵は私にとってもまた、特別に喜ばしい夜となりそうですわ」
けなげに笑って見せる娘の姿に、コムストッグ公爵は心を痛めた。
父ハイエネス・コムストッグ公爵は、娘を何不自由なく育てられたとは思っていなかった。
時には不自由を学ぶことも大切なことだ。
だが、ユイリアを領地にとどめて、人々との交わりから遠ざけ守ってきたことは、とりわけ残酷な仕打ちであったと思う。
こうして守っているつもりでも、この後もしも魔女に連れ去られれば、この子はどんな孤独の闇を歩くことになるのだろうか。
「死ぬことを恐れるなら、生きることを喜べないだろう。目の前が暗闇なら、いっそ目を閉じてしまえばいいのかもしれない。そうすれば、娘よ、お前の中にある光があるいは新たな道を照らしだすかもしれない。今夜は思う存分、楽しむのだよ、ユイリア」
父はそう言ってユイリアの額にキスを落とした。
「ジェームズ王子と?」
「まさか! 他にもっといい殿方がきっといるはずだ」
父は冗談ぽく笑うと、それから家族4人で手を繋いで、ゆっくりと王宮の白い階段を上っていった。
待合の広間には、すでに多くの貴族たちが集まり、皆穏やかに談笑して案内を待っていた。
色とりどりの華やかなドレスは、床まで届くフルレンクスの長丈で、裾がふんわりと広がったボリュームのあるシルエットが相応しい。
あえてドレスコードを設けない王宮舞踏会では、男性は皆一様に最高礼装の黒の燕尾服にホワイトタイをつけるのが絶対の決まりだ。
そして襟付きベストには家紋入りの金の飾りボタン。
広間には、金糸で飾られた白い上衣の胸に深紅のリボンをつけた、王宮専属の従僕が至る所にいる。
皆、騎士以上の立場の者で、腰にはサーベルをつけている。彼らがこの場を守る衛兵でもあるのだ。
華やかで礼儀正しい従僕たちは、すべての来賓の顔と名前を完璧に覚えていて、客たちから預かった外套やステッキを取り違えることなく適切に管理してくれる。
そんな従僕にロングケープを脱がせてもらったユイリアは、すぐに父や母、妹とともに奥の大広間へと通された。
そこが今夜の舞踏会場だ。
大空を舞う大鷲が描かれた巨大な天井画と、クリスタルが無数に輝く眩しいばかりのシャンデリア。
鏡のように磨き上げられた白い大理石の床。壁や柱の至る所に金装飾が施され、そのそれぞれにサンカヨウの花が彫刻されている。何もかも、幼い頃のユイリアの記憶のままに華やかで美しい、王の宴の間。
この場所で、誰が一番足が速いかと競い合って、王子たちと駆けまわったことが懐かしい。
玉座は王の登場を待って、まだ金紐のかかったサファイア色の分厚いカーテンで閉ざされていた。
父と母の後ろについて、ユイリアも他の者たちと同じように、そのカーテンを囲む列に加わった。
紐が引かれると玉座を覆うカーテンが開き、そこに国王一家の姿が露わになる。その時、皆で一斉に王にご挨拶を申し上げるのだ。
すべての来賓客が遅れることなく宴の大広間に通されると、扉は閉じられた。
それと同時に、2階席にずらりと並んだ王宮専属の管弦楽団がしとやかにメロディーを奏で始めた。
集められた者たちが心を沈めて、王の登場を待つ静かな時間がしばし流れると、曲は壮麗に展開して、玉座のカーテンがついにサッと開かれた。
その瞬間、大広間に並ぶ全ての者が王の御前にひざまづき、厳かに頭を下げた。
「そなたらがこの場所に集ってくれることを、私は自らの誕生の日よりもこの上なく嬉しく思う。さあ、その尊い顔を上げられよ」
王が本当に嬉しそうに声を震わせるので、招かれた者たちは微笑みながら顔を上げ、立ち上がった。
「とりわけ今宵は、私のために姪の一人が特別に駆けつけてくれたことに感謝する。深い事情があって、社交界からは顔を隠していたのだが、息子のジェームズが私に素晴らしい贈り物をくれるというのでは、引っ張りださないわけにもゆくまい? どうか皆、この姪を温かく迎え、ともにこの国を喜び祝おうではないか!」
王のその言葉を合図に、管弦楽団が1曲目の舞踏曲を奏で始めた。
深緑色の艶(あで)やかな詰襟上衣をまとい、この国の第一王子の証である金色のリボンを肩から下げたジェームズ王子が、玉座の奥から広間に降りて来て、真っすぐにユイリアの方に近づいて来た。周りに居た者たちは引き潮のように下がって、ユイリアの周りに場所を開ける。
管弦楽団が奏で始めたウィンナーワルツの音楽を耳にしながら、ユイリアはこの上もなく悪い予感がした。
だが、公の面前で、しかも王の御前で拒むことなど出来ようか……。ユイリアはドレスの裾を広げ、床に膝をついて視線を下げた。
身分の高い者が自分に向かって近づいてくるときには、淑女は目を伏せて、ひざまづいて待つのが礼儀だ。
ジェームズ王子はニコニコしながら、ユイリアに右手を差し伸べると、左手を後ろ腰に折りこんでお辞儀をしてきた。
まるで王子様みたいに。いや、本当に王子様なのだが……。
その手をとって、ユイリアは真っすぐに立ち上がった。
ジェームズ王子は当然のようにユイリアの手を引いて、広間の中央、玉座の前へと進んで行く。
宮廷楽団の奏でるメロディーが、どんどん早く、テンポを上げて行く。これは、ウィンナーワルツの中でもかなり難しい曲目だ。
「カドリールは?」
「そんな子どもっぽいダンス、俺様が踊るかよ」
ジェームズ王子にだけ聞こえる声でユイリアが怪訝に問うと、笑顔を崩さずにジェームズが囁き返して来た。
あまりに多くの人目があるので、ユイリアも表情を崩すような愚かなことはしない。だが内心は、この王子を蹴り飛ばしてやりたい気持ちでいっぱいだ。
「何年ぶりだと思っているの? こんな難しい曲をいきなり持って来るなんて、どうかしてるわね」
「俺たちの間に『手加減はなし』だろ?」
ジェームズ王子はそう言って意地悪にウィンクしてくるが、今、流れているのは、ポワソンという作曲家が書いた4つの曲目「喜び」、「祝い」、「愛」、「哀悼」の中の一つで、最も難しい曲だ。アップテンポで、踊りの中に男性が女性を空中に持ち上げるリフトが何回もある。
「どうしても、今夜の舞踏会にお前に来てもらうために、父上に申し上げたのさ。ユイリアと一緒に『祝い』を踊るから、と」
「勝手なことを」
「だが父上はとても楽しみにしている。しっかり足を開けよ、ユイリア」
曲が転回し、ステップを踏み出した瞬間、ジェームズ王子はユイリアの足を掴んで、その体を軽々と肩の上まで持ち上げた。
空中でユイリアは後方の足を開き、ジェームズ王子がその状態のままターンするのに合わせ、ドレスを美しくなびかせる。
それからふわりと地面に降ろされたユイリアは、ジェームズ王子の手を軸にクルクルと舞い踊った。
子どもの頃に何度も一緒に踊ったから、身体が覚えている。難しいリフトも、二人ならお手の物だった。
ジェームズ王子はこれまで一度もユイリアに怪我をさせたことはなかったし、意外な事に、重たくて持ち上げられないなどという悪口を言ったこともなかった。だから、踊ること自体はユイリアにとっても苦ではない。
だが、それにしてもあんまりな仕打ちではないか。みんなが、初めて見るユイリアにただでさえ好奇の眼差しを向けているというのに。いきなりこんなダンスを踊ることになるとは。
肉体的な苦痛というよりも、これは精神的な苦痛だ。
ターンを繰り返し、ユイリアのドレスが美しく舞い上がるたびに、周囲で見守る者たちが息を呑み、歓声を上げる。
曲が中盤にさしかかると、第二王子のジョージ王子が、深紅のドレスを身にまとったオフィリアに近づいて行った。
「私には無理よ、こんな難しい曲」
ジョージ王子の手をとったオフィリアは文句を言ったが、兄に似てジョージも手加減がなかった。
「案じるな、俺が相手だ」
「祝い」では、序盤は主演の二人が踊り、中盤から踊りの輪の中に徐々に人々が加わり始める。曲の盛り上がりに合わせて、踊る人数も増えて行くのだ。
ジェームズ王子とユイリアが踊る広間に、二番手に加わって来たのがジョージ王子とオフィリアだ。
ジェームズ王子とジョージ王子にリフトされ、ユイリアとオフィリアの白銀と深紅のドレスが広がる姿は、まさに見事であった。
オフィリアが言った通り、「祝い」を踊るのはとても難しいので、その後も踊りの輪の中に加わって来た者はわずかだったが、コムストッグ公爵夫妻や、他にも踊りに自身のある貴族たちが次々に色どりを加えながら、王の御前で喜び踊った。
曲がいよいよクライマックスにさしかかると、それまで踊っていた者たちは広間の中央を開けて円になった。
今夜の主役であるエリア国王が、オードリア妃を伴って玉座から降りて来て、円の中心で踊るためだ。
クライマックスは皆に囲まれた国王夫妻だけが踊る。
エリア王はアドリブを混ぜて、ときどきわざと変な動きをするので、緊張して見守る観客たちをさえ笑わせ、リラックスさせた。
王も妃も、踊りが大好きだ。とりわけオードリア妃の踊りは美しい、とユイリアは思った。ときに型どおりではない王の舞に対して柔軟に対応しながらも、常に優しく、艶やかで、王への愛情に満ちた踊りをする。
「素敵ね」
「ユイリアも、綺麗になったな」
再びジェームズ王子に手を引かれて、ユイリアは広間に踊りだした。
終わりは主役の王を中心に、全員が舞い踊るのだ。
笑い声とともに、広間全体に色とりどりのドレスがくるくる回る。ワルツには「回転する」という意味がある。その名の通り、祝いのフィナーレでは素早いターンが何度も続く。パートナーの手が離れてしまえば、女性の身体は遠心力で投げ出されてしまうだろう。
そうして最後に十弦が強く弾かれて、「祝い」の曲は余韻を残さずに終わった。
ジェームズ王子の腕に支えられていた体を起こしてもらうと、ユイリアは王子に手を引かれたまま、王の御前にひざまづいた。
ジェームズ王子も胸に手を当てて王に会釈する。
「お父様、お誕生日おめでとうございます。どうかこの国の繁栄と民の幸せがいつまでも続きますように」
その言葉に合わせ、貴婦人はみなドレスの裾を広げて深くお辞儀し、紳士たちは胸に手をあてて頭を下げた。
「余は満足じゃ。さあ、宴はまだ始まったばかり。みな心ゆくまで楽しもうではないか!」
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