シャインとシャドウ 1話3



 ブルックリン国王の白亜の城は、緩やかな丘陵のいただきにそびえて、周囲を広大な泉に囲まれている。
 よく晴れた風のない日は、泉の澄んだ水面が鏡のようにその白い城を映し出し、まるで空の中にも水の中にも城があるかのような、とても不思議な印象を与える。

 朝日がまぶしいばかりに光輝く、荘厳なる城館の王子の居室には、いつものように早くから遠慮のない訪問者があった。
 謁見用のサーベルを腰元につけた身なりのいい男。

 すでに城の使用人たちには顔なじみであるその男は、嫌がられることもなく朝日の眩しい第一王子の寝室に平然と通されて、ティーテーブルの前のカウチに、くつろいだ様子で深々と腰をかけた。

 天蓋の下の王子のベッドは整えられて、その主は今、窓辺に猫のように伸びて、日光浴をしている。
 楽なサテンのシャツをスエードのパンツに押し入れて、腰まわりをサッシュで止めている。
 そんなラフな服装に、狩猟用のブーツを紐が緩んだままはいた彼が、この国の第一王子、ジェームズだ。

「おはよう、ルーク・アレクサンドル・ダラハン・オーギュスト伯爵。今朝も早いな」
「おはようございます。ジェームズ王子」

 王子と伯爵は、瞬時に含み笑いながら互いに視線を交わし、しばし見つめあった。
 先に口を開いたのは王子の方だ。
「なんだよ、かしこまって。気持ちが悪いな」
「先にかしこまって俺の名を呼んだのは、そっちだろうが」

 そこまで言葉を交わした時、オーギュスト伯爵の前に朝の紅茶が運ばれてきたので、伯爵は小さく会釈して使用人に礼を返した。
 使用人は嬉しそうに会釈を返すと、慣れた様子ですぐに王子の寝室から出て行った。

 伯爵は受け皿ごと持ち上げると、淹れたての紅茶の香りを楽しんでから、深いダージリンをゆっくりと味わった。
「その調子じゃ、昨晩も一人寝だったようだな、ジェームズ。可哀そうに」
「馬鹿を言うな。仮にも一国の王子だぞ。結婚前に部屋に女を連れ込むわけがないだろう」
「嘘ばっかり」

 全て知っているのだぞ、と言わんばかりの伯爵の口調には、ジェームズ王子は苦笑いするしかない。
 やがて王子は窓辺から立ち上がると、ゆっくりと歩いて来て伯爵の前に腰掛けた。
「そっちこそ、昨晩は随分と早い御帰りだったようだが。どこへ行っていた?」
 王子に問いかけられて、一変、伯爵がズルそうな笑みを浮かべる。
「実はそのことで来たんだ。道を歩いていたらたまたま通りかかって、気づいたらハイエネス・コムストッグ公爵家に行きついてしまい意図せず……」
「あの家には近づく必要がないと言っておいただろう。父上のご意向なのだぞ」
 オーギュスト伯爵の話を、ジェームズ王子が鋭く遮った。
「仕事で行ったんじゃないさ。偶然、通りかかったんだよ」
 と、伯爵がうそぶく。
「嘘ばっかり」
 今度はジェームズ王子が両目を細めて、先ほどの伯爵の口真似をして言い返して来た。

 とにかく、と、伯爵はティーカップを受け皿に戻して、それをテーブルの上に置くと、居ずまいを正した。
 そしてルーク・アレクサンドル・ダラハン・オーギュスト伯爵は両手を組んで前かがみに、ジェームズ王子の顔を真剣に見つめた。
 その声が秘密を打ち明けるときの、蜜月の甘い囁き声となる。
「驚いたよ、そこで見たこともない麗人を目にしたんだ。ジェームズ、お前は彼女が何者か知っているか? 見た目はシャイン公女にそっくりだが、別人だった」

 伯爵から「お前」呼ばわりされても、王子は顔色一つ変えることはない。
「ルーク、もしかして彼女と話したのか?」
「ああ」
 途端に王子が心配そうに眉をひそめる。
「彼女はシャインよりずっと賢い。正体はバレていないだろうな」
「正体だって? 社交界で一度も会ったことがないのに、バレるはずがないだろう。で、誰なんだ、彼女は。俺に隠し事とは酷いじゃないか」

 厳しく問い詰められて、ジェームズ王子は面倒くさそうにクッションにもたれると、深い溜め息をついた。

「別に、隠していたわけじゃないさ。ただ、あえて話してはいなかったこと。――シャドウだよ」
「それは昨日、彼女の口から聞いた。だが、俺が知りたいのは、彼女の本当の名だ」

 まったく、厄介な男だ。と、ジェームズ王子は心の中で呟いた。
 ブルックリン王国の裏社会を牛耳るこの男、ルーク・アレクサンドル・ダラハン・オーギュスト伯爵は、時に王をも脅かしかねない存在だ。伯爵だからと言って侮るなかれ、巨万の財力と強靭で幅広い人脈を持つ彼ならば、おそらく成し得たいと思うことは何でも成し得てしまうだろう。恐ろしい策士であり、恐ろしい快楽主義者。その抜け目のない敏腕さと知性で、伯爵は裏社会にあってこの国を支えてきた王の忠実なる番犬とも言えるが……、扱いを間違えば王とて飼い犬に手を咬まれかねないというもの。
 先代も、その先々代も、オーギュスト伯爵家は代々、闇で王家に忠誠を捧げてきた一族。――だが決して王家に隷属しない一族。
 『オーギュスト家の血には敬意と警戒を』、と、現国王であるジェームズの父は言う。
 それ故に、王子と伯爵という身分の違いはあっても、ジェームズとルークは生まれながらに親友でもある。もとい、――悪友か。

「彼女の名は、ユイリア・ロザリンド・ハイエネス・コムストッグ公女。オフィリアの双子の姉だよ」

 ――ユイリア・ロザリンド・ハイエネス・コムストッグ公女。

 ジェームズ王子から聞かされたその名を、伯爵は何度も頭のなかで反芻した。
 ユイリア、か。
 それは、『王の庭園に咲く花』という意味。ただしこの場合の王とは、一国の王ではなく、全知全能の真の王を指す。
 ユイリア。なんと謎めいた、美しい名前であることか。

 しばらく物思いに沈んでいたオーギュスト伯爵は、だがやがて、瞳を煌めかせてジェームズ王子に視線を戻した。
 その目に見つめられ、ジェームズ王子は嫌な予感がせずにはいられない。――怪盗が、欲しいものを手に入れようとする、楽しそうな目。

「彼女に会いたい」
「二度とコムストッグ公爵家には忍び込むな。死ぬぞ」
 だが、ジェームズ王子に釘を刺されても、オーギュスト伯爵はびくともしない。
「面白い。だが、どうして彼女は社交界に姿を現さない? 病弱なのか」
「それは俺の口からは話せない。知りたければ真実は自分で見つけることだな、伯爵」
「わけもないが。だが、頼みを聞いてくれたら、お前が秘密の夜をともにした、かの令嬢のことは王には伏せておくんだがな、ジェームズ」
「……エリザベスとはもう別れた」
 途端にジェームズ王子が口ごもる。

「振られたのか? 夜が下手くそだって」
「いやその逆だよ。夜が激しすぎる、と。……まったく、紳士的であるというのは難しいことだな。で、なんだ。頼みと言うのは」
 少し苛立ちのこもる口調で王子が伯爵に話を戻す。と、オーギュスト伯爵は王子の不幸など鼻にもかけずに望みを打ち明けた。
「次の舞踏会に彼女を招待してほしい。ジェームズ王子直々のご指名ということで」

 綺麗に磨き上げられた指の爪をもてあそびながら、王子がつまならさそうに応える。
「たやすいが。来ないと思うぞ」
「何を言う。彼女はシャイン公女と同じ、お前の従妹にあたる立場のお方だ。 仮にも国の第一王子の招待を、王の姪にあたる公女が断るはずがない」
「それはどうかな……」
 歯切れの悪いジェームズ王子の返答に、オーギュスト伯爵は不満を露わに、その目は鈍く光った。
「……断れないように誘いだす方法など、いくらでもあるだろう」
 にわかに濁りを帯びた低い声が、白と金で装飾された朝の寝室に、異質な静寂をもたらした。

「わかった。怒るなよ、短気な奴め」
 ジェームズ王子は金糸で華やかに刺繍がほどこされたカウチに身体を横たえ、怪訝な眼差しをオーギュスト伯爵に投げた。
「俺様を脅すとは、なんという伯爵だ。仮にも一国の王子だぞ。無茶を言いやがって。だが、分かってないんだ、お前は。シャドウを怒らせると恐いってことが。ああ面倒だな……下手をすれば俺がとばっちりを受けるというのに」

 ジェームズ王子は困ったように思案すると、最後に伯爵をジトっと見つめて念を押した。
「舞踏会に公女が参られた際には、くれぐれも失礼のないようにしてくれよ、ルーク。『紳士的に』という言葉を、お前も知っているよな」
「お前みたいに、ベッドで言われたことはないがな」
「ふざけるな、死刑にするぞ。正直、俺はシャドウからあまり好かれていないのだ。そのせいでいつも手酷い仕打ちを受けているから分かる。ルーク、気をつけろよ、見抜かれないように」
 ――お前が怪盗、ラッフルズであるということを。
「もちろん、わかってるさ」

 オーギュスト伯爵は満足そうに微笑むと、再びリラックスした様子でゆったりとカウチの背もたれに身体を預けた。
 その姿は王子にも劣らぬ威厳に満ちている。

 

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