シャインとシャドウ 1話2



 コムストッグ公爵家は、代々、誉れ高く王宮に仕え、時にかなう賢い言葉によって、王と共に国を守ってきた由緒ある一族だ。
 それ故、王の信頼は厚い。
「しかし、見落としはないのか」
 王宮のテラスに、ラッフルズの呟きがひらりと落ちた。
 硬質な月が寂しげに瞼を伏せる宵、彼の視線は山麗に広大なコムストッグ公爵領地に向けられた。
 【指示】も予告状もないが、彼はふと、そこへ赴きたい気になった。
 コムストッグ公爵家にだけは手を下すなと、命じられているにもかかわらず。

 怪盗ラッフルズ。
 狙った獲物は決して逃がさない神出鬼没の大泥棒。……だが、利得を貪ることは彼の目的ではない。
 なぜなら、怪盗というのは彼の真の目的を隠すための、表向きの姿に過ぎないのだから。

 再び言おう。今宵、【指示】はないと。すなわちそれは、コムストッグ公爵家が王の御前にまったき忠誠の義をつくしているということを示す。
「本当に?」
 ラッフルズは音もなく、光輝く王宮を後にした。
 誰の目にも触れず、木々の間を抜けて道なき道を、闇に紛れてコムストッグ邸へ。


 ブルックリン王国にある24の公爵家のうち、23家には怪盗ラッフルズの標的となるべく【指示】がすでに下されていた。
 例外となったのはただ一家、コムストッグ公爵家だけである。
 一体なぜ、コムストッグ公爵家だけは例外となるのか。
 
 本当にコムストッグ公爵家は【白】なのか?
 その真偽を確かめたいとは、以前から思っていたこと。
 彼が今宵、王宮舞踏会から早々に、誰にも見られずに抜け出したのは偶然の気まぐれであるし、馬車を先に帰らせて歩く気になったのも気まぐれであれば、月光に染まる美しい領地に自然と足が向いたのも、おそらくは本当に気まぐれということにできるだろう。

 まるで、硬質な月の輝きが時を選んで彼を誘ったかのように。

 王宮の泉より流れくる小川が月の光を受けて白く輝き、まるで天翔ける川が地上に降りてきたみたいだ。と、ラッフルズはそんなことを考えて月桂樹の森を抜けながら、不思議な気持ちになった。幻想。夢の世界。おとぎ話。そんな期待もしなかった素敵が起こりそうな―― 予感、とでも言えようか。
 コムストッグ公爵領地を軽やかな足取りで進みながら、足の裏に柔らかな大地を感じ、深い緑の匂いに鼻孔をくすぐられたラッフルズは、その土地が限りなく豊かであることを知った。
 ガンコウラン、シロザ、コメツガ、ホオノキ。どれも自然の美しさはそのままに、華美に飾り立てられた様子はないものの。
 そこには適切に人の手が加えられ、植物が無様に競合するのを避けて、どの植物も相応しく際立つように配慮されている。そのおかげで大地も木々も生き生きと、喜び輝いているのだ。

「どうやら、よほど腕のいい庭師がいるようだ」

 退屈な舞踏会から抜け出して来たばかりのラッフルズは、清冽(せいれつ)な森の空気を、心地よく胸いっぱいに吸い込み、酔いをさました。
 もっとも、酒になど酔ってはいなかった。どちらかというと彼を悪く酔わせるのは、決して心を満たしてくれることのない在り来たりな貴族令嬢たちの色香だ。
 美しい姫君たちを適当にいなしながら、心ときめかないのに取り繕う日々にはうんざりする。
 楽しいと感じるのは、怪盗ラッフルズとして密命を帯びる夜のみ。あるいは【指示】もないのに、公爵家の屋敷に気まぐれで忍び込む夜か。
 だが、ラッフルズの表情は月桂樹の棘のように鋭く、無機質だった。それは、湖底に沈み忘れ去られた悪さえ暴きだす、冷酷な大陪審のごとく。
 その瞳は牙を宿して、眼下に荘厳にたたずむコムストッグ公爵の屋敷に注がれた。
 
 主のいない屋敷の灯りはすでに落とされている。それでも用心するにこしたことはないだろう。
 ラッフルズはクロークの内ポケットから仮面を取り出し、自らの顔を覆った。

――怪盗ラッフルズ。
 その正体は誰にも知られてはいけない。
 


 だが数時間後、宿した牙が無用のものであったことを、ラッフルズはすぐに悟ることとなった。
 コムストッグ公爵家は紛れもない【白】だ、と、疑い深いラッフルズでさえ断定せざるを得ないほど、搾取や不正の証拠は出ない。それは決して、捜索が甘いのではない。書斎も、金庫も、執事室も、書庫も、隠し扉や隠し通路も、彼が探して見つけられない物はないのだ。
――王への謀反の影など微塵もない。

「退屈だな」

 コムストッグ公爵家に向けた疑念が自分の杞憂であったと知って、ラッフルズは完全に拍子抜けしてしまった。
 屋敷をくまなく見てまわった今となっては、むしろコムストッグ公爵の人格に一目を置かずにはいられない。なんと思慮深く、勤勉で、知性と品格に優れた卿なのだろうか、と。

 王家の血筋をひく裕福な公爵家であるはずなのに、屋敷には華美なところが少しもない。古い家具が大切に使いこまれ、食器は磨き上げられ、それでいて至る所に由緒ある公爵家たる気品と伝統を感じさせる。領地の森と同じように競合のない、配慮された美しさ。初めて訪れた怪盗にさえ、心地よい空間。
 このような屋敷で毎日暮らす人々は、一体どれほど洗練されていることだろうか。

 ラッフルズは、屋敷の蔵書の多さにも舌を巻いた。中には海の向こうから取り寄せられたと思われる、外国語の本も数多くある。
 名作と呼ばれる数多の小説はもちろん、歴史書、美術書、医学書などの学術書や、政治や経済の蔵書。どの本を手に取って見ても、何度も読みこまれた痕があることから、これらの蔵書は決して飾り物などではないことが分かる。

 本棚を見れば、その人物の人柄を伺い知ることができるとはよく言ったもので、コムストッグ公爵家の本棚には、尊い知性と、へりくだった勤勉さ、そして貪欲なまでの探究心が詰まっている。これらの蔵書は確実に世代を越えて、一族の財産となるだろう。

「見事だな」
 にわかに興奮を覚えて、ラッフルズはしばし、時間を忘れて書庫の蔵書を観て回っていたが、ふと立ち止り、不意に仮面の下で口元をほころばせた。
 わずかなスペースに、恋愛小説ばかりが他の蔵書とは趣を異にして陳列されているのが目に入ったからだった。
 いかにも情にほだされやすい令嬢が好んで読みそうな、その恋愛小説の列を目でなぞりながら、ラッフルズはいつかの舞踏会で一度だけ一緒に踊ったことのある公女シャインのことを思い出した。

 コムストッグ公爵の娘、シャイン。
 もちろん、シャインというのは通り名であって、本名ではない。彼女の本名は確か、オフィリアだ。
 身分の高い結婚前の令嬢を本名で呼ぶことは、親しい者しかしてはならない。だから、ブルックリンの社交界ではそのような令嬢を通り名で呼ぶのが慣例なのだ。

 シャイン。いかにもあのご令嬢が好んで読みそうな本だ。
 その通り名にふさわしく、オフィリアの髪は輝く黄金色で、向日葵のように一途で底抜けに明るい性格は周囲を楽しい気分にさせると評判だ。そして驚くほどの美人だったことをラッフルズはよく覚えている。
 だが悲しいことに、公女シャインの美しささえ、ラッフルズの心に熱を与えることはなかった。
 多くの卿が重ねてシャインにダンスを申し込むのをよそに、ラッフルズはただ一度踊っただけで満足し、二度と再び申し込むことはなかった。


 周囲の者はラッフルズに、いい歳なのだから早く嫁を迎えろなどと言うのだが、「余計な御世話だ」、とラッフルズは思う。
 結婚などまだまだするつもりはないし、第一、これまでそうなりたいと思った女性と出会ったこともない。
 いっそのこと、男が好きだと冗談でも言って周囲を黙らせてやろうか。

 心の中でそう毒づきながら恋愛小説の棚から目を逸らしたラッフルズは、突如、視界の端に飛び込んできた白い影に、驚いて振り返った。
――幽霊

 いや、違うな。すぐに平静を取り戻したラッフルズは、真っすぐに向きなおって、視線を下げた。
 いつからそこに居たのか、シルクのイブニングドレスを纏った麗人がすぐ傍で、こちらを見上げている。
 たっぷりと襞(ひだ)をあしらった純白の、薔薇を思わせる美しく気品のあるそのドレスにもまた、決して嫌味な華美さはない。

 ラッフルズは仮面をつけたまま、首をかしげた。
―― シャイン公女か?
 それにしては、以前に受けた印象と異なる。天窓から差し込む月の光が、公女の髪を白銀に染めて見せるせいだろうか。
 だが、シャイン公女は今夜も王宮の舞踏会に出席しているはず。こんな時間に屋敷にいるはずがない、とラッフルズは思い直す。
 では一体、目の前の麗人は何者なのか。
 少なくともこれまで、ラッフルズは社交界でこのような麗人を見かけたことはない。

 背後の窓から外に飛び出そうか、と、ラッフルズは思った。姿を見られたのはまずい。それなのに、不思議と麗人から目がそらせない。
 彼女が美しいから? いや、違う、驚いているからだ。
 こんなことは、今まで一度もなかったことだから。ラッフルズが全く気配を感じ取れぬうちに、彼の背後に立つとは。この麗人、衣擦れの音もさせなかったぞ。もしかしてやはり
――幽霊か

 いや、違うのは分かっている。こんなに美しい幽霊がいるものか。

 怪盗としてのラッフルズは、すぐにその場を退くべきであるのに、動くことができなかった。動きたくなかった。
 最大のピンチであるはずなのに彼が感じていたのは、胸の高鳴りと、奇妙なくすぐったさ……。

 しばし無言で見つめあった末、
「そこにあるのは、シャインのものです」
 と、麗人が言った。

「どうか他のものをお持ちになってください。それはオフィリアが気に入って置いているものなのです」

 麗人がシャインのことを通り名ではなく「オフィリア」と呼んだことで、ラッフルズには麗人がシャインの近親者なのだということが分かった。だが、そうであるならこれまで、この麗人を一度も社交界で見たことがないのは何故? そればかりか、名すら耳にしたことがないとは。
 もしも目の前の麗人がコムストッグ公爵の娘であるとするなら、ラッフルズがその名を聞き及んだこともないというのは、あり得ないことだった。

「どうして僕が、これを盗ると思われたのですか」

 麗人は少しだけ首をかしげて、ラッフルズの全身を控えめに視線でさししめした。
「これは失礼いたしました。てっきり貴方さまを、かの怪盗、ラッフルズさまなのだと思ったものですから」
「ほお」
 ラッフルズは強く、麗人に興味をそそられた。
 シャイン公女への思いやりが感じられることから、彼女がコムストッグ公爵家の人間であることは間違いないだろう。加えて、怪盗であるラッフルズにも敬意を払うことを忘れない貴族らしい振る舞い。
 普通の娘なら悲鳴の一つでも上げそうなものだが、夜中に屋敷に侵入した仮面の男を前にしながら、麗人が威厳を失わず平静を保っているのは見事と言えよう。

「貴女のお見立てに間違いはありません。いかにも――我が名は、怪盗ラッフルズ」
 ラッフルズはシルクのグローブをはめた右手を胸に当て、深々と一礼した。
「ですが、ご心配には及びません。今宵、僕が頂戴するのは機会のみ。どうぞ、お見知りおきを」

「一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
 麗人は絹のように白くなめらかな両手を腰の前で組み合わせて、神妙な顔をした。
 何かを問いかけられるとは意外であったが、紳士として、かの怪盗ラッフルズも麗人の問いかけを断ることはできなかった。
「いかようにも」
 麗人はかすかに笑みを見せると、しとやかに濡れた声で早速問い掛けてきた。
「貴方さまは、貧しい者に富を分配されると。そのお噂は本当ですか?」
 なんだ、そんなことか。一体なにを問いただされると思いきや。
「はい。ただし、それは僕の成し得ることの一つにすぎませんが」
「で、あるならば、価値あるものは当家にもございます。機会はまたとはないかもしれません。どうぞ今夜、必要なものを持って行かれてください」
 なんだって?
 ラッフルズは我が耳を疑った。怪盗に盗みをすすめるとは、何の嫌味だ。それともこの麗人、ひょっとすると慈善活動に興味があるのか。
 少しの間を置いて、ラッフルズは静かに進言した。
「もし貧しい者たちに心を砕くお気持ちがおありなら、貴女が民の元へ行かれればいいのです。それとも、ご自分で外に出られない理由でも、あるのですか?」
「まあ」
 麗人は薔薇色の唇を柔らかにほころばせて、ラッフルズの仮面をしげしげと見つめた。
「そんなことを仰った方は貴方さまが初めてですわ。外の世界へ……」
 麗人の瞳がきらめいて、窓の外に向けられた。
「是非とも、おうせのままに」
 麗人は右手を胸元にあてると、小さく頭を下げながら膝を折ってラッフルズに礼を返して来た。
 その仕草が月の女神のように美しく、気品に満ちたものだったので、ラッフルズは意に反して息を呑んだ。

 この方は一体、何者なのだろうか。シャイン公女にそっくりではあっても、明らかに別人ではないか。

「お名前を、お聞かせ願えますか。貴女のお名前をいただければ、それが今宵、僕の報酬となるでしょう」
「貴方さまがその不気味な仮面を取り去って、わたくしに素顔をお見せくださるなら、喜んで」
 優しげな笑顔を見せながら、だが麗人の声にはかすかに棘があった。
 ラッフルズは思わず仮面の下で苦笑う。
「それができないことは、賢い貴女にはすでにお分かりのはずだ」
「それでは貴方さまもわたくしも、どうか秘密は秘密のままに。わたくしのことはただ、シャドウとお見知りおき下さい」

――シャドウ?
 シャイン公女にもじっているのか。光と対なす影だと。

 ラッフルズは、どうしても彼女の本名を知りたいと思った。通り名などではなく、本当の名前を。
 だが、どうやらあまりゆっくりもしていられなさそうだ。

「わかりました。秘密は秘密のままに」
 怪盗ラッフルズは窓辺によると、両開きの大きな窓を押し開いた。冷たい外気が流れ込んできて、シャドウのドレスがかすかに揺れたのを見て、ラッフルズの心も何故か揺れた。――また、会えるだろうか。
 月明りに照らされて白銀に輝くシャドウは、世俗の美しさとはかけ離れた神々しさを宿している。まるで今夜だけの奇跡みたいに。
 腰元に垂れて緩やかに波打つその髪に触れてみたい、と、ラッフルズは思った。

「また、お会いいたしましょう」
「叶いませんわ」
「僕が何者であるか忘れたのですか?」
「怪盗のラッフルズさま」
「いかにも。控えめに言いますが僕は、――欲しいものを手に入れるのが、すごく得意なのです」

 月明りを受けて、ラッフルズの仮面が白く光った。
 ラッフルズはシャドウを見つめたまま、そのまま後ろ向きに軽々と外に飛び出して行った。
 シャドウが窓から外を覗いた時には、すでにラッフルズは暗闇の中へ姿を消した後だった。

 遠くから、屋敷に戻ってきた馬車の灯りが見える。王宮の舞踏会から公爵一行が帰って来たのだ。
 後に残されたシャドウは何事もなかったかのように窓を閉め、鍵をかけ直して、人知れず小さな溜め息を漏らした。

「もう二度と、お会いすることはないでしょう」

 シャドウはもうじき18歳になるのだから。



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