恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 4-7


 晩餐会が無事に終わってもドラコの口数は少なく、アガサは彼が怒っているのかと思った。
 しかし7センチヒールで足が棒になっているアガサに合わせドラコはゆっくりと歩いてくれ、手をとって紳士的に女性たちの部屋がある塔までエスコートしてくれた。
「じゃあ、また明日。朝食の時間に、ここに迎えに来るから」
 おやすみのキスをして二人は離れた。
 アーチの階段を上り切って振り返るとドラコはまだそこにいた。
 アガサは胸の前で小さく手を振って廊下の方に曲がって行った。

 実のところアガサは、今夜は一人で眠るのが心細かった。
 突然のルイの登場には動揺していたし、強引にキスをされたこともショックだった。子どもの頃は純粋無垢で、アガサと一緒に聖書の聖句を暗記することに情熱を注いでいた優しい少年が、今ではノストラ―ドファミリーのボスの座についていることも受け入れられずにいた。そのすべてに心を搔き乱されて、気を抜けば体が震えてしまいそうだ。
 
 城内はとても静かで、遠くの方で波が砕ける音だけが聞こえる。

 アガサはエマの部屋の前を通り過ぎて、オーク材の重々しいドアを開けて自室に入った。
 隣室はエマだが、晩餐の後もフェデリコと話し込んでいたのでまだ戻ってきていないのだろう。

 開け放しておいた海側の窓から涼しい夜風が吹き込み、白いレース織のカーテンがたなびいていた。その時、テラスの外側に人影を見てアガサはゾッとした。部屋は5階にあり、窓はすべて海側の断崖絶壁に面しているから、外から進入することは不可能なはずだ。

 だが男は軽々と手摺を乗り越えて、テラスに降り立つと無邪気な笑みを浮かべた。

「やあ」

 アガサの体が凍り付く。
「……ルイ」

 勝手に部屋に入って来るなんて図々しいし、怖すぎる、とアガサは思った。
 しかし最初に口をついて出たのは単純な疑問だった。

「あなた、高所恐怖症でしょ。どうやって壁を登って来たの」

 アガサの問いに、ルイは小さく首を傾げた。
 中学時代に一緒に天体観測に行ったとき、展望台に登るのをルイはとても怖がった。ハレー彗星を見るためにバスを3時間も乗り継いだのに、そのまま諦めて帰りたくなかったので、アガサはルイに網目の階段を登らせるために必死に彼をなだめて、手を繋いだのを覚えている。

「ああ、あれは嘘だよ。君と手を繋ぎたかったから、高所恐怖症のフリをしたんだ」
 どうやらルイは、アガサが思っていたような純粋な少年ではなかったようだ。

「それなら、今すぐ引き返してちょうだい」
 だがルイは部屋の中に入って来た。
「君と二人きりで話がしたかったんだ。どうやらこの部屋の外では、少しも君に近づく余地がなさそうだったから」
 どんなに和解を謳っても所詮ノストラ―ドとアルテミッズは敵対関係にある組織だ。しかもアガサの夫となったドラコには少しも隙がない。
 ルイ―ジオは内心で、ドラコのことをとても厄介な存在だと感じていた。

「だからって部屋まで押し掛けるのは間違っているわよ、すぐに出て行ってちょうだい」
「僕が怖いの?」

 アガサはその問いには答えなかった。

「アルテミッズとノストラ―ドの関係を拗らせるべきではないわ。久しぶりに会えて嬉しいけれど、あなたの行動は問題よ、ルイ」
「君がマフィアの政治に関心があるとは思わなかったなあ。そもそも、どうしてドラコなんかと結婚したんだ? 彼がマフィアの男だと知らなかったのかい」
「初めて会ったときから知っていたわ。私はキリスト教徒の生き方を貫いているし、殺人や盗みは悪いことだと彼にも言っている。それでも、ドラコの人間性に惹かれて彼と結婚したのよ」
「もし僕と先に再会していたら、結婚してくれた?」
「わからないわ。私たちが付き合っていたのは、もう何年も前のことだから」
「じゃあ僕への脈は全然ないわけだね」
「さっきも言った通りよ。あなたへの恋心は子供時代の良い思い出。――ごめんね、ルイ」
 ルイ―ジオのグレイの瞳の中に、そのとき初めて邪悪な光がよぎった。

「和平のために君を僕に差し出すようにアルテミッズを追い込んだら、どうなると思う?」
「そんな恐ろしいことを考えるのは止めて。ドラコがあなたの叔父様を殺害することになったのは、そもそもノストラ―ドが私を殺したとドラコが誤解したからだったのよ」
「もしかして、ドラコは本当に君を愛しているのか」
 アガサは傷ついたが、ルイ―ジオは断じて諦めるつもりはないようだった。

 要するに、ドラコがいなくなればいいわけだ、とルイ―ジオを思考を巡らせた。
 他の女を差し向けて浮気させてもいいし、あるいは、不慮の事故で早死にすることもよくあることだから。

「彼に何かしたら、あなたのことを神に訴えるから」
 ルイ―ジオが良からぬことを考えていることを、アガサは鋭く感じ取った。

「彼の身の安全を保証することと引き換えに、僕が君に甘い逢瀬を求めたら応じてくれる?」
「一緒に教会に通った仲なんだから、私がどう答えるかは分かっているのよね、ルイ。もう帰って」

 アガサはバルコニーの方にルイ―ジオを行かせようとしたが、彼はドアの方に向かった。

「ここに来るときに足を滑らせて崖下に落ちそうになったんだ。こっちから帰るよ」
「でも、誰かに姿を見られるかも……」
「何か問題でも?」
 ルイ―ジオはまた無邪気な笑みを浮かべてアガサに投げキスをすると、ドアを開けて部屋から出て行った。

 廊下に出るとすぐにエマと鉢合わせたが、ルイ―ジオはニコリと笑ってエマにウィンクした。
「御機嫌よう、エマヌエーラ嬢」
「あなた、ここで何をしているの?」
 ルイ―ジオがアガサの部屋から出てきたので、エマは盛大に眉をしかめた。

「何をしていたと思う?」
 そのまま、ルイ―ジオは堂々と廊下の角を曲がって階段を下りて行った。ウーゾに見つかったらなんと言い訳をするつもりだろうか。エマは言葉を失ってその気取った後ろ姿を見送った。
 だがすぐに気を取り直してアガサの部屋をノックした。
「帰ってちょうだい!」
 不機嫌なアガサの声が扉越しに返って来た。
「私よ、アガサ。エマよ」
 ドアがすぐに開き、晩餐のときに着ていたのと同じドレスを一糸乱れずに纏っているアガサが立っていた。
 エマは素早くアガサの部屋に滑り込み、後ろ手にドアを閉めた。

 部屋の中に争った形跡はなく、ベッドも乱れていない。だが、まだ安心はできなかった。

「あなたの部屋から出てくるルイ―ジオを見たわ。何もされなかった?」
「ええ、大丈夫よ。指一本触れられていないわ。驚いたことに、私が部屋に戻ってくると彼が壁をよじ登ってテラスから入って来たの」
「嘘でしょ……」

 エマは開いたままになっている窓からテラスに出て、手摺から身を乗り出して下を覗き込んだ。
 真っ暗で、波が打ち寄せる音だけがする。下階の窓から洩れているわずかな明かりで、かろうじて石灰岩のゴツゴツとした塔の壁面が窺い知れるが、命綱もなしにこんなところを登るなんて、イカレているにもほどがある。もし落ちれば、崖下まで真っ逆さまに転落して命はなかったに違いない。
 エマはぞっとしながら部屋に戻り、両開きの窓を閉めて鍵をかけた。

「彼は何か良からぬことを考えている気がするの。ドラコが危ないかも」
 アガサはルイ―ジオと話した内容をエマに伝え、胸の内の不安を打ち明けた。

「ドラコは心配ないわよ、彼は強いし、油断をしないから自分の身は自分で守れる。子どもの頃からそう訓練されてるもの。問題はあなたよ、アガサ」
「どういうこと?」
「あなたは優しくて、他人の言葉を信じやすいってこと。私が受けた印象では、ルイ―ジオはこれからもあなたの大切なもの、――ドラコや、あるいは子どもたちを引き合いにだして、あなたを思い通りに操ろうとするでしょうね。でも、もしそうなっても彼の言葉を信じてはダメよ。さっきも言った通り、ドラコは心配いらないし、子どもたちはアルテミッズが守っているのだから、あなたは彼の交渉に応じる必要は無いの」
 エマの言葉に、アガサは勇気づけられた。

「そうよね。でも、さらに私が心配しているのは、インコントロでアルテミッズが不利な立場に立たされるんじゃないかってことなの。すでに私はルイに手を上げてしまったし、部屋にまで入られてしまったわ」
 確かにそれは厄介だ、とエマも思った。
 ルイ―ジオがアガサに強引にキスをしたとき、ドラコは明らかに冷静さを失って殺意をみなぎらせていた。インコントロの間にまた同じようなことが起こっては困る。
 エマは考え、そして一つの結論を出した。
「ルイ―ジオのことは私に任せて。彼に気があるそぶりを見せて、インコントロの間中、アガサに近づかないように惹きつけられるかやってみるわ」
「あなたに危険が及ぶんじゃない? ルイは乱暴な人ではないけれど、今はノストラ―ドのボスだから、もう昔とは違うのかもしれない」
「大丈夫よ。少なくとも、あなたよりはね、アガサ。それに、彼ってかなりチャーミングでしょう。火遊びするには丁度いい相手だわ」
 エマの目が悪だくみをする子どものように輝いた。

「エマったら……。私は気が進まないわ」
「いいから任せておいて。あと、ドラコには今夜のことは言わない方がいいと思うわ」
「いいえ、むしろ言ったほうがいい。ドラコは内緒や嘘を嫌がるから、後でこのことを知ったらきっとカンカンになって怒るはずだもの」
 アガサの言う通り、エマにもその様子が容易に想像できた。

「確かにそうね……、幸運を祈るわ」
 エマは同情をこめてそう言った。
 ドラコは魅力的な男だが、妙に気難しいところがあるし、下手にキレたら手がつけられなくなる。
 ルイ―ジオのことを説明するアガサはきっと神経をすり減らすことになるだろう、とエマは思った。





 エマが隣室に帰ってからすぐに、アガサは携帯電話からドラコにかけた。
 もしすでに眠っていて出なければ、明日にしよう。できればその方がいい、出ないで、と願ったが、ドラコはワンコール目ですぐに電話に出た。

――どうした?

 アガサは少し緊張しながら、まずは冷静に聞いて欲しい、と前置きをしてから、ルイ―ジオが部屋に来たことと、その件に関してエマと相談したことをドラコに伝えた。
 質問をさしはさまずに、ドラコは最後まで黙ってアガサの言葉に耳を傾けているようだったが、彼女が話し終えると静かに言った。

――すぐにそっちに行くよ。

「え、待ってドラコ……」
 通話はすでに切れていた。

 ドラコは一体、どうやってここまで来るつもりだろうか。
 塔に上るアーチの階段は24時間体制でウーゾの番人が見張っている。各階には巡回警護しているウーゾもいると、最初に説明を受けていた。
 まさかルイと同じように塔の外壁を上ってくるつもりじゃないでしょうね。
 アガサは心配で、ジッとしていられなくなった。

 ドレスとセクシーな黒いレースの下着を素早く脱ぎ捨て、Tシャツとパジャマパンツに着替える。少し肌寒かったのでその上からガウンを羽織り、ルームスリッパを履いた。
 それから何度か廊下を覗いて見たが、人の気配がないと知るとまたすぐにドアを閉めて鍵をかけ、念のためドアノブに椅子を噛ませた。
 またルイが忍び込んでくるような気がして怖かったのだ。

 数分後、窓ガラスがコンコンとノックされてアガサは飛び上がった。
 二重に閉めたカーテンを開くと、テラスにドラコが立っていた。
「どうして外からやって来たのよ、危ないでしょう!」
 急いで鍵をあけ、窓を開いてドラコを部屋に招じ入れながらアガサは怒った。
「こんな危険な真似は二度としないでほしいわ、ドラコ。落ちたら怪我をするどころじゃすまない、あなたが死んだら私はどうすればいいのよ!」
 再び窓に鍵をかけて、アガサは怖い顔でドラコを振り返った。
「実際、何度か足を滑らせて落ちかけたよ。帰りは無理だな」

 ドラコは石灰で白く汚れたスーツを脱ぎ捨てて裸になると、アガサの許可もとらずにベッドに入った。
 晩餐のときに着ていたタキシードから着替えたようだ。アガサはスーツをハンガーにかけて、コームで汚れを落とした。

「わざわざこっちに来ることなかったのよ。エマはすぐ隣にいるし、ドアにも窓にも鍵をかけてるわ」
「そのようだな」
 ドラコは枕に顔をうずめて、早くも寝る体勢に入っている。
「それに、ウーゾの人たちに見つかったら大変。なんとか見つからずに帰る方法を探さないと……。ルイはどうやって帰ったのかしらね」
「今日はもう疲れたから眠りたい、こっちに来いよ」
「思っていたより、あなたが冷静で驚いたわ、ドラコ」
「インコントロが終わるまでは、今夜あったことは保留にしておく。だが、奴が俺の暗殺対象者リストのトップに載ったことは間違いないよ」
 アガサはドラコに並んでベッドに横になった。
「私のことを怒ってる?」
「全然」
 しかしその声には、わずかに拗ねたようなところがあった。

「本当に? じゃあなんで、セックスをしたがらないの?」
「したいの?」
 実のところ、アガサはとてもそんな気分ではなかった。
 とても疲れているし、ルイの顔が脳裏にチラチラ浮かんで、ドラコとの夫婦の営みに集中することなどできなさそうだ。
 そう伝えると、ドラコは寝返りをうってアガサに背を向けた。

「ここに入って来た瞬間にすぐにそうだとわかったよ。初恋の男とこんな形で再会して動揺してるんだから、無理もないよな。でも俺は、てっきりアガサがセクシーな下着姿で俺を出迎えてくれると思ってたから、ガッカリした。いいんだ、今日はもうゆっくり休もう。俺もそんな気分じゃないから」

 ドラコにしては珍しい、聞き分けの良い、紳士的な回答だった。
 その一方でアガサには、ドラコが少し無理をしているようにも感じられた。
 ルイと踊ることをアガサに許したことも、その後の冷静で紳士的な態度も、今夜ベッドで早く眠りにつこうとアガサに背を向けている態度も。
 しかもドラコは命がけで、暗い塔の外壁をよじ登ってきてくれた。
 おそらくはアガサの胸の内の不安を察し、傍にいてくれるために。

 アガサは体を起こして、愛情深くドラコを抱きしめた。

「シャワーを浴びてくるわ。もしその時まで起きていられたら、新しく買ったセクシーな下着を見せてあげる」
 ドラコは寝たふりをしていたが、耳に長いキスをされてついに笑みを零した。

「黒のレースのパンティ?」
「それはさっき脱いでしまったから、予備のシフォンの紐パンを見せてあげる。透けすぎて実用性がないから、本当はつけるつもりはなかったんだけど、あなたにだけ特別よ」
「……急いでくれ」
 悶絶しているドラコを横目に、アガサはわざとゆっくりとバスルームに向かった。

 その晩、夫婦は愛を交わし合った。
 行為が終わると、アガサはドラコの額にかかった髪を優しくかき分けて問いかけた。
「よかった?」
「それは俺のセリフだ」
「え、でも、今夜の主導権をとっていたのは私だもの」
「どこが? どうして? 主導権を握っているのはいつも俺だよ」
「今夜は例外、私が上をとっていたし、あなたは今までに聞いたこともないような声を出していたもの」
 アガサはドラコの胸の上にうつ伏せになって、「すごくエッチな声だった」、と囁いた上に、どこか誇らしげにドラコを見下ろした。
「……生意気だな」
「きゃあ」
 ドラコはくるっとアガサを組み伏せて、彼女の上に覆いかぶさると再び激しく求め始めた。
「誰に、主導権があるって? ……もう一度、言ってみろよ」
「そういうところ……、大人げないって、思わない?」
 それから、主導権は確かにドラコにあるとアガサが認めるまで、執拗に攻め立てられ続けたので、アガサはついに観念しないわけにはいかなかった。





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