恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 4-2
トリエステ湾に突き出た岬のミラマーレ城は、エメラルド色の海と、真っ青な空の境界で白く美しく輝いて見えた。
「あ、ビ、チー、ディ、え、エッフェ、ジー、アッカ……」
道中ずっと眠り続けていたアガサはE70号線の潮風に起こされて、今は窓の外を眺めながらイタリア語のアルファベットを口ずさんでいる。
リズムに合わせて体をほんの少し左右に揺らしているのが、モーレックにそっくりだ。
アガサのイタリア語は短期間で目覚ましい上達をしていたが、発音にはまだ幼さが残っていた。
普段、アガサの話す英語は知的で美しいセンテンスを刻むが、何故かイタリア語になると母音に無垢な子どもっぽさが出るのは不思議だった。イタリア語の母音は、日本語の発音に近いと言われているので、日本語を話せるアガサにとってイタリア語の発音は難しくないはずなのだが。
そういえば、アガサが日本語を話しているときも同じように、幼くて可愛らしい感じがするな、と、ドラコは思った。
なるほど、日本語っぽさが出るからイタリア語も可愛らしくなってしまうのだろうか。そんなことを思いめぐらしながら、ドラコはアガサの発音練習を温かく見守っている。
「Come va il mio italiano? (私のイタリア語はどうかしら?)」
不意にアガサに訊かれてドラコは口元を緩める。
「Sì, è molto buono. (うん、とても上手だよ)」
実際には丁寧すぎる発音から、アガサの実直さが伝わってくるようでくすぐったい。
すると今度は、アガサがぺらぺらと小難しいことを言い始めた。
「Davvero? Se mai avrò l'opportunità di parlare delle virtù dell'Italia,
dirò: "Ammiro il fatto che abbiano votato per l'eliminazione graduale
dei reattori nucleari".(そお? もしイタリアの美徳について語る機会があったらこう言うつもりなの。『国民投票で原子炉を廃止したことを尊敬します』って) 」
ドラコは笑い出したくなるのを堪えた。
アガサのイタリア語を聞くと、赤ちゃん言葉で甘く誘惑されているような奇妙な感覚になる。でも、それを言うと怒られそうなので、ドラコは冷静に考えた。
意味は完璧に通じるが、おそらくアガサの話すイタリア語は、母音の音がハッキリと強く発音されすぎているせいで幼く聞こえるのかもしれない、と、ドラコは思った。それに、Rの発音は舌足らずだった。英語のRは舌遣いがラフで濁った音になるが、イタリア語のRは上顎を利用した強い巻き舌音になるのが特徴だ。
「Sto parlando bene? (上手に話せてる?) 」
アガサがもう一度聞いてきたので、ドラコは笑みを噛んだ。
「母音が日本語みたいに丁寧すぎるから、もう少しラフに発音したら自然に聞こえると思う」
「あ?」
「ア゛」
「……ア゛」
「いいね。あと、Rの発音はもっと強く上顎に弾いて、ッル゛」
「ぅル」
「まだ弱いよ、ッル゛」
「……ぅル!」
「違う。もっと強くだ」
そう言って、ドラコはアガサの下顎を親指と人差し指でつかむと、顔を近づけてアガサの口の中に舌を入れた。そして、アガサの口内の上顎を自分の舌で弾いてみせた。
いきなり口の中に舌を入れられたのに、アガサは子どものように無抵抗にそれを受け入れた。
「ああ、なるほどね。……っル゛?」
「ずっと良くなったよ。もっと強くてもいい」
ドラコに言われて、アガサは宙を見上げながら何度かRの練習をした。
音は理解したが、実際の会話の流れの中で巻き舌音を出すのにはまだしばらく練習が必要そうだった。
「イタリア語の先生はみんなあなたみたいに口に舌を入れてくるの?」
「特別レッスンをするのは妻にだけだよ。しかも、授業料は高い。今日は何で支払ってもらおうかな」
ドラコが物欲しそうにアガサの体を視線でなぞった。
「私だって日本語を教えてあげているでしょう?」
「うん、『キモチイイ』、とか、『チョットマッテ』は俺のお気に入りだよ」
ドラコが片言の日本語を披露してくれた。どちらもアガサがベッドの中で思わず口にした日本語だ。
ドラコにはアガサの日本語がとても可愛らしく聞こえるらしく、愛を交わしているときにアガサが不意に日本語を口にしてしまうと、ドラコは動きを止めて、「今なんて言ったの?」、と聞き、時には、「もう一回言って」、と求めてきた。不意に日本語を囁かれるとドラコはドキッとするらしい。
「不真面目な生徒ね。他にもあるでしょう?」
「モット? クスグッタイ? スゴクヨカッタ」
どうやらドラコは、アガサがベッドの中で言った言葉しか覚えていないようだ。
「おはよう、こんにちは、おやすみ、は?」
「そんなの退屈だよ、誰でも知ってる」
と、ドラコは鼻で笑った。
その時、二人を乗せたファントムがミラマーレ城の広い前庭の車寄せに停車した。
夏の鋭い陽射しが白い石敷きの庭園に照り返し、辺りは眩しいばかりに輝いている。バレーサービスをしてくれるスタッフがドアを開けてくれたので、アガサは車から降りた。すぐ後にドラコも続く。地面からの熱気で、外気は焼けつくほどに暑く感じられるが、噴水からは涼し気に四本の水柱が立ち上がっている。
アガサは陽射しを手で遮りながら、壮麗なミラマーレ城をしばし見上げた。
ミラマーレ城は、かつてトリエステの地がオーストリア領だったときに、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアン大公によって建てられた城だ。マクシミリアンがベルギー王女シャーロットと結婚して、新婚生活を過ごしたロマンチックな場所でもある。しかし、主はメキシコへと旅立ちそこで処刑されて二度と戻ることはなかった。その後、妻のシャーロットだけがこの城に戻り、精神を病んで過ごしたという悲しい歴史を持つ。
マクシミリアンは自由主義思想のもと貧しい人々を助ける働きを推し進めたが、王政を指示する保守派と折り合えず、富を誇示する時の権力者たちを敵に回して短い人生を終えてしまった。マクシミリアンの死後もミラマーレ城はオーストリア皇帝ハプスブルク家によって維持されていたが、トリエステはイタリア領土に復帰し、現在はミラマーレ城もイタリア政府が管理している。
この歴史的建造物を、一体どんなコネで貸し切ったのだろうか、と、アガサは訝しんだ。
普段は博物館として観光客に開放されているはずだった。
それがまるでホテルのようにポーターやドアマンが配置され、訪れるマフィア連を城の中へと案内している。配置されている城のスタッフは皆、古めかしい真っ黒な燕尾服を着ている。
ドラコによると、彼らは中立組織【ウーゾ】と呼ばれ、今回のようにマフィア連合が会合を開くときに会の一切を取り仕切る立場にあるらしかった。ウーゾには秘密保持契約と、会合で禁止されている暴力行為を行なった者への拘束及び懲罰を行使する特権が与えられているらしかった。
ドラコに肩を抱かれて城の中に入って行くとき、背後の車寄せにまた別の車が乗りつける気配がした。
何気なく振り返ると、漆黒のファントムから一人の男が降り立つのが目に入り、アガサはハッと息を呑んだ。ダークブロンドの巻き毛にグレイの瞳を持つその男は、他の全員が正装をしているにも関わらず、白いコットンシャツにチノパンというラフな装いをしていた。アガサが車から降りたときにまさにそうしたように、眩しそうに目を細めて手でひさしを作り、城の外観を見上げている。
「どうした?」
ドラコに声をかけられて、アガサは我に返った。
「ちょっと、昔の知り合いに似た人がいたように見えたの。気のせいだと思うわ」
ルイが大人になったら、きっとあんなだろう、と思ったことはドラコには言わなかった。まさかルイが、こんな所にいるわけがないのだから。
ドラコは肩越しに振り返り、漆黒のファントムに刻まれた家紋を一瞥した。――鷲の翼とライオンの下半身をもつグリフィンの紋章。
ノストラ―ドファミリーだ。
チノパンを履いたくだけた恰好の男が何故かこちらをじっと見ていた。
ルイ―ジオ・ヴァレンティーニ=ノストラ―ド。その男はノストラ―ドファミリーの新しい首領に間違いなかった。
ドラコは無表情に前に向き直り、アガサの肩を抱いてその場を立去った。
◇
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