恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 4-12


 北側マフィアの中で現在最上位の3位につけているユニオン・コルスは、アルテミッズに代わって総合1位を目指すことにしたのだろう。
 双子のフォンが苦笑いしながら中央のテーブルを見つめていた。
「これでユニオン・コルスは、勝っても負けても、南側マフィアに一矢報いる布石を打ったわけだ。どうしても南側に1位をとらせたくないから、アルテミッズを押し上げられないなら自分たちが1位をとりにいくつもりだ。ユニオン・コルスはそれでもし負けても、その場合はアルテミッズに4万ユーロを渡して僕らを押し上げることができる。僕としては、是非とも兄さんたちに勝ってもらいたいけど、2ラックのハンディをもらってカミーラ相手にどこまでやれるかは際どいラインだと思う。でも、――見てよあの顔」

 フォンが顎でしゃくった先で、チャンは今、キューのティップ部分にチョークを塗りながら、リンリンと何かを楽しそうに話している。不安など少しもなく、全てに満足しているような顔だ。

 一番奥のテーブルでは、ニコライとアーベイが椅子に座ってカクテルウェイターを呼びつけてドリンクをオーダーしている。
 全額掛けたので、もしビリヤードで二戦とも落とせば、アルテミッズはこの後のダーツへの出場権さえ失うことになるが、ゲームエリアにいる4人からは今のところそんなプレッシャーは微塵も感じられない。
 一方、暫定1位、残金15万ユーロのノストラ―ドの対戦相手は、ヌドランゲダとサクラ・ウニータになったようだ。どちらも掛け金は1万ユーロだ。ヌドランゲダはノストラ―ドに勝ちを譲るはずなので、ノストラ―ドは仮にサクラ・ウニータに負けたとしても15万ユーロは維持するだろう。
 アルテミッズが巻き返しの1位を狙うためには、ビリヤードで2勝して何とか15万ユーロに追いつきたいところだ。

 ゲームエリアでブレイクショットの球が弾ける音があちらこちらから上がり始めた。

 ニコライとアーベイは先攻をとり、ブレイクショットで運よくポケットすることができたのでターンを継続することができた。その後、コール通りに順調にポケットして1ラック目を見事にストレートで獲得した。幸先の良いスタートにアルテミッズのボックス席で観戦している仲間たちも留飲を下げるが、続く2ラック目のブレイクショットではどのボールもポケットしなかったので、ここで初めてカモッラにターンを譲ることになった。

 カモッラファミリーのファビオとその妻クリスティーナは夫婦でビリヤードのプロ選手をやっている。
 特に妻のクリスティーナは世界ランキング4位の実力を持つ。繊細かつ性格なショットで、コール通りすべてのグループボールをポケットされてしまい、2ラック目と3ラック目を奪われた。ブレイクショットは前のラックで勝った方が行うので、相手がミスかファウルをするまでニコライとアーベイにはターンが回ってこない。4ラック目のファビオのブレイクショットの後、ポケットされた球が無かったのでようやくアーベイにターンが回ってきたが、的球の配置は最悪だった。

 エイトボールの試合で勝つ重要な要素は計画性だ。

 始めに狙った玉をポケットしたら、その玉に当たって弾かれた手玉で次にどの的球を狙うのか。それを途切れることなく、7つのグループボールを繋ぐように計画し、正確にコントロールする。もし途中でミスをすれば、相手にターンを奪われて一気に持っていかれてしまう。テーブル上の的球が少くなる後半ほど、ミスは許されなくなる。
 アーベイは早々に見切りをつけて、ポケットを狙うのを諦めてさらに撞きにくい形を作ってクリスティーナにターンを回した。良い判断だったが、相手はプロだ。クリスティーナにも同じように妨害を行なわれ、手玉をコーナーに追い込まれた揚げ句に、すぐ内側を的球で塞がれる形がニコライに回ってきた。

 ニコライは短く切りそろえた髭をさすりながら、テーブルの配置を見下ろした。
 その結果、一条の光明を得た。
 もしニコライがこの窮地さえ凌げば、次のショットからはエイトボールまで無理なく繋げそうな配置だった。ただしもしミスをすれば、今度は相手にその絶好のチャンスを回してしまうことになる。

 追い詰められたコーナーから、内側にある的球を飛び越えて、それをコーナーに引き戻すようにポケットするには難しいジャンプショットが要求される。
 ニコライの技量では、成功率は7割くらいだ。
 ジャンプショットに失敗する可能性が1割、スピン不足で手玉が上手く的球にヒットしない可能性が1割、スピンをかけすぎて手玉までポケットに落ちてしまう可能性が1割。
 賭けに出るべきだろうか、と、ニコライは思案した。
 制限時間が迫ってカウントが始まる中、やはりアルテミッズを確実に勝利させるためには下手な賭けにでるべきではない、という考えが脳裏をよぎった。その瞬間、雷のように突然、ボックス席からドラコの怒鳴る声がニコライに落ちた。
――「迷うな、やれ!”」
 ニコライは台と平行に構えようとしていたキューを、反射的に90度回転させて台とほぼ垂直になるように縦に構えた。
「7番を手前コーナーに、ジャンプショット」
 コールを唱える。
 あの距離から、よく僕の考えていることが読めるものだね、と、ニコライは内心で苦笑しながら、左太ももをビリヤード台のカラー部分にかけて、コーナー手前にある手玉を上から下に向かって強く撞いた。――手玉は小気味よく跳ね上がった。
 跳ねた手玉は7番ボールを飛び越えて、周囲に密着して配置された3つのストライプボールの間に落ちたかと思うと、逆回転のスピン力で手前に戻って来て7番ボールをコーナーポケットに落とした。そのまま手玉もコーナーに落ちればファウルをとられるところだが、手玉は7番ボールに当たったことで回転力を失ってコーナー手前のギリギリのところでピタリと止まった。

 モニターで一部始終を観戦していたボックス席からにわかに歓声と拍手が上がる。
 ふう、と、息をついて、ニコライは台から足をおろした。
「ナイスショット」
 アーベイがニコライの背中をタッチした。
「喝を入れられたからねえ、引くに引けなくなったんだよ」
「ああ、見ない方がいい、まだこっちを睨んでるぞ」
 と、アーベイはニコライに囁いた。
「怖いねえ……」
 もちろん、二人が言っているのはボックス席にいるドラコのことだ。

 一方、ボックス席ではアガサが両耳を塞いでドラコに抗議していた。
「いきなりあんな大きい声を出す人がどこにいるの? 鼓膜が破れるところだった!」
「柄にもなく弱気になっていたから【応援】してやったんだよ」
「応援? 私には【脅した】ように聞こえたけど?」
 もう怒鳴らないでよ、と言うアガサに、ドラコは是とも否ともとれないような曖昧な返事をした。
「ドラコ?」
「いいから、君は目を瞑って祈っていろ」
 ドラコは怒れる妻をあやすように抱き直した。

 ドラコに喝を入れられたせいで、ニコライとアーベイのその後のプレイの精度は各段に向上したかに見えた。
 そしてプロ選手であるファビオとクリスティーナ相手に大胆な攻撃を繰り広げ、5対4でぎりぎりゲームを勝ち取った。
 そればかりではない。
 チャンとリンリンのテーブルでも何かが変わった。
 楽し気にプレイをしていただけに見えた二人が、今では研ぎ澄まされた槍の先のような鋭さをもって、正確なショットを重ねていた。特にチャンのオーラが先ほどまでの穏やかな紳士とはまるで異なり、世界を我が物として闊歩する狂暴な君主のようだった。ゲームを上手くコントロールして、難しい的球を自らがさばき、後に続くリンリンが撞きやすい配置になるように、手玉が魔法のようにいい場所にセットされるのだ。そしてリンリンは、基本的なショットを絶対に外さなかった。アマチュアの中ではかなり上手いレベルに入る。
 チャンはリンリンを守り、メンタルケアも怠らなかったが、そうでなくてもリンリンは明るくひたむきで、何より夫であるチャンに全幅の信頼を寄せているようだった。

 2対4というもう後がない状況で、ブレイクショットがリンリンに回ってきた。緊張した様子のリンリンにチャンが何か耳打ちすると、リンリンは途端に可愛らしい笑顔になった。
 彼女の笑顔が幸運を呼び寄せたのか、ブレイクショットで弾かれたボールが3つもポケットに入った。ソリッドが1つ、ストライプが2つだ。

 チャンは盛大にリンリンを褒め称えると、ターンを引き継いでテーブルについた。このラックをとればチャンたちの勝利になる。だがもしこのラックを失えば、ユニオン・コルスの勝利にもなる後がない局面で、チャンは勝利への道筋を探り、計画をたててじッとテーブルを見下ろした。制限時間が迫ってくる。
 今大会では、各ショットを20秒以内に行なうことをウーゾがルールづけていた。
 足りない場合は毎回1度だけ10秒の延長が認められる。
 チャンはこのとき、10秒の延長をコールしてから、さらに残り3秒のカウントが鳴るまで考え抜いてから、ようやくショットした。

 5つ残るストライプボールのうち9番をコールしてコーナーにインすると、その後、チャン夫妻はミスなく交互にストライプボールをポケットしていった。
 チャンは3回のショットで、最終8番を狙うための段取りを整えようと試みたが、どう計算してもリンリンに繋ぐための理想の形をとるためにはワンショット分足りなかった。

 そのため、グループとして選択したストライプボールをすべて落とし切ったとき、8番ボールがサイドのクッションにベタ付きで残ってしまった。

 このような配置になった場合、最も簡単なのは同一直線上のコーナーポケットを狙うことだが、その前にはソリッドボールが2個立ちはだかっているので、今回はそこに8番ボールを押し込むことは、到底不可能な配置になっている。
 となると、逆サイドのコーナーポケットを狙うのが正攻法だが、リンリンにとってはイメージしにくい難しいバンクショットになることがチャンには分かっていた。

「ごめん、リンリン。僕の力不足だった」
「謝らないでチャン。私はあなたの妻なのよ。左上のコーナーを狙いたいから、コースをアドバイスしてちょうだい」
 チャンはリンリンと一緒にキューを握り、手玉を送るべき軌道を見せてアドバイスした。
「前回転をかけて、少しだけ強めのバンクを撞くくらいの力加減で」

 チャンに説明されても、リンリンにはそれで上手くいくことが全くイメージできなかったが、それでも彼女は素直だったので、少しも疑うことなくチャンに言われた通りの浅い角度で的球に狙いを定めた。そして手玉に前回転をかけるために、中心よりもやや上を撞く。強すぎず、でもバンクを撞くよりも少し強く――。
 チャンは息をつめて妻のショットを少し離れた位置から見守った。

 コツン、という球の弾ける軽やかな音がして、8番ボールはチャンがイメージした通りの軌道を描いてクッションにバウンドし、左上のコーナーに向かっていった。
 少し、勢いが足りないだろうか、届け、――届け!
 ポケット直前で止まりかけた8番ボールは、完全に停止するのと同時にポケットの中に静かに吸い込まれて消えた。
 誰よりも驚いたのは、リンリンだ。

「あなたってスゴイのね、チャン! どうしてあの球があんな風に動いたのか、私には全然理解できなかったのに、あなたの言う通りにしたら本当に入ったわよ!」
 リンリンは興奮してチャンの首に飛びついたので、チャンは少しよろけながら妻を抱きとめた。
「それでこそ僕の妻だ」
 チャンが満足そうに笑った。

 アルテミッズのボックス席では、仲間たちが総立ちになって拍手でチャン、リンリン、ニコライ、アーベイの4人を迎えた。

「いい試合だった」
「ナイスファイト!」
「一時はどうなるかと思ったぜ」
 口々に称賛の言葉が贈られる中、ビリヤードに参加していた4人は口をそろえて、「ボックス席から飛んできたとんでもない野次のせいで身の毛もよだつ思いにさせられて、なんとかしてダーツに繋がなければ勝敗よりも恐ろしい結末になると思った」、などと言ってドラコの【雷】を笑った。

 ビリヤードが終了した時点で、ファミリーの順位は大きく変わった。
 ノストラ―ドはヌドランゲダに勝ってサクラ・ウニータに負けたので、残金は変わらず15万ユーロのままとなり、ビリヤードで見事に2勝したアルテミッズは掛け金を引き上げたことで一気に15万ユーロに追いつき、1位のノストラ―ドと並んだ。
 以下の順位は、サクラ・ウニータの9万ユーロ、シカ―リオの9万ユーロ、カモッラの8.5万ユーロ、ヌドランゲダの7.5万ユーロと続き、最下位はユニオン・コルスの6万ユーロだ。

 隣のボックス席からレディー・カルロッタがまたもや鋭い視線を投げかけてきている。
 怒りと、言い知れぬ鼓舞を含んだその瞳はまるで、アルテミッズに対して、「総合1位にならなければ絶対に許さないわよ」、と言っているようでもあった。フェデリコが軽く手を振ってレディー・カルロッタの熱い視線を払いのけた。

 沸きたつ会場の中、中世の燕尾服姿のウーゾが手際よくビリヤード台を片付け、代わりにダーツマシンをゲームエリア内にセッティングし始めた。

「いよいよ私たちの番ね」
 エマがスッと立ち上がると、ジョーイも続いて立ち上がり、スーツジャケットの前ボタンをとめる。
「掛け金はどうします?」
 ジョーイに訊かれて、ドラコはアガサを膝から降ろしながら応じた。

「俺たちは楽にやらせてもらうから、ゲームコントロールはお前たちに任せるよ」
 気の抜けたことを言うドラコに、ニコライがすかさず不満を露わにした。
「へえ、僕たちにはあんなに厳しく【やれ!”】と喝を入れたくせに、自分たちはただ楽をするつもりなのかい、ドラコ」
「それはお前が、【できる】のにやろうとしなかったからだ」
 と、ドラコはニコライに言い返した。
「そりゃ慎重にもなるさね」
「慎重じゃなく弱気の間違いだろ」
「意地悪だなあ」
「ケンカしてる場合じゃないでしょ」
 アガサが割って入り、脅しつけるように指をたてたので、余裕の表情から一変、ドラコは唖然とした。
「お遊びじゃないのよ、ドラコ。もしかしてあなた、私たちが勝てないと思っているんじゃないでしょうね?」
 ニコライが面白いものでも観るような顔をして腕を組み、巻き込まれないように素早く一歩下がる。
「なんだよアガサ、怖い顔だな……。別に勝てなくてもいいよ、気楽にいこう」
 ドラコが言うと、アガサはとても真面目に訴えた。
「リラックスして挑むのはいいことだけどねドラコ、勝てなくてもいいなんて言うのはダメ! 集中していきましょう。気を抜いたらみんなの足を引っ張ることになるのよ?」
「俺が、足を引っ張るだって?」
「そうよ」
「俺はただ、……そんな意地悪なことを言う君は嫌いだ」
「ああ、ドラコ、違うのよ。一生懸命やって下手くそなら構わないの。愛してるわ。でも、手を抜いて足を引っ張ったら、――その可愛いお尻を叩いて喝を入れ直すからね」
「何で叩くの?」
「ベルトを貸そうか?」
 ルイスとアーベイが呑気に外野から割り込んできた。

 その時、ウーゾが手招きしていることにエマが気づいた。苛立たし気に腕時計をタップしている。
「まずい、呼ばれてるわよ、もう行かなくちゃ。掛け金は下に降りてから決めましょう。ほらほら急いで!」
 エマが先陣を切ってボックス席から出ていく。
「能ある鷹は爪を隠すって言うだろ。俺は足を引っ張ったりしないよ」
 後に続いてアガサをエスコートしながら、ドラコはまだ腹の虫が治まらない。
「それは獲物に対しては隠すでしょうけど、能ある鷹も家族には爪を研ぐところを見せるわよ。どうやらあなたには爪がないようね」
「君が爪を研ぐところも見たことがないけどな」
「今見せるわ、ハッ!」
 ボックスの階段出口で両手を鷲爪のようにしてドラコに噛みつく素振りをするアガサに、ドラコはいよいよ困惑して両手を上げた。
「酔っているのか。いつ酒を飲んだ?」
「一滴も飲んでいないわよ、真剣勝負の前なんだから。でも、ゲームが始まったら飲むかもね、少し緊張してきたみたいだから、テキーラサンライズを一杯やってほぐすわ」
「いいや今夜は一滴も飲ませないぞ、テキーラサンライズだって? 絶対にダメだ」
 ボックス席を出て行ったあとも、夫婦の言い合いが続いているのが幹部たちの耳に届いた。

「面白い夫婦ですね」
 ルイスが呟いた。
 ニコライがルイスの隣に腰かけて、背もたれの上に大きく腕を広げた。
「ブラックコーヒーにミルクが入ったみたいな感じかな。ドラコはアガサと結婚してまろやかになったように思うねえ」
「以前の鋭さがなくなった。ガキみたいに見える」
 アレッサンドロがずばりと言ってのけた。
 すると今度はアーベイが私見を述べる。
「それはどうかな。俺には以前よりも、輪をかけてヤバい奴になったように見えるが」
「ヤバいって、どういうふうにだい?」
「一見無害そうだが、以前より狂気じみたよ」
 アーベイは慎重に先を続けた。
「アガサを手に入れたことでリミッターがなくなったと言うのが正しいかな。だから、いざというときに何をするのか想像もつかない怖さがある。ノストラ―ドのアジトに単身で特攻したのがいい例だ」

 ボックス席がシーンと静まり返った。
「……ああ、それは確かに一理あるかもね」





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