恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 3-9


 小さな子どもが3人もいると、夜間にベビースピーカーで呼び出されることも珍しくない。
「あ、アガサ……ダメだ、待ってくれ……」
 新婚の夫婦は、ほとんど毎晩のように愛を交わし合ったが、子どもたちが泣くとアガサはどんなときでもすぐに飛んで行った。
「俺と子どもたちと、どっちが大事なんだ……」
「ばかね、子どもたちに決まっているでしょ」
 往生際悪く引き留めようものなら、容赦なくアガサに蹴られるので、そんな時ドラコはうめき声を上げながらベッドに一人、沈み込むしかなかった。
 正式にベビーシッターが決まるまでは、まだしばらく拷問のような日々は続いた。
 その反動なのか、ドラコは昼夜を問わず機会さえあればいつでもアガサを求めた。バスルームや、キッチンや、ランドリールーム、時にはリビングでも。


 アガサはラルフを仕事場に連れて行き、必要な時だけ学内の一時託児所に短時間だけラルフを預けた。
 ロスにやってきたばかりのラルフを外部の施設に預けることには気が進まなかった。モーレックとマリオのときにも、アガサは最初は家で面倒を見たからだ。
 
 エマがラルフを出産してから1ケ月間ほどは、ラルフはイタリアで面倒を見られていて、向こうでは昼も夜も泣き通しの赤ん坊だったらしい。その大変な経験が、エマに養子縁組を決意させるきっかけともなったが、赤ん坊がそんなに泣き続けるのには何か異常があるのではないか、と、何度か病院に運ばれるほど、ラルフは癇癪を起して酷く泣いたという。原因は特定されなかったものの、アガサもそのことを聞いていたから、しばらくはラルフから目をはなすつもりはなかった。中川夫妻に一晩預けたのは、異例中の異例のことだった。

 しかし、古城に来てからのラルフは何事にも動じない、とても落ち着いた赤ん坊になっていた。
 アガサが何か特別なことをしたわけではない。ただ、他の子どもたちにするのと同じように、ラルフにもよく話しかけているだけだ。
「コイツ、ちょっとおかしくないか?」
 ロスに来てからほとんど泣かなくなったラルフを不思議がって、ドラコは逆に心配していた。
 もうじき生後4ケ月を迎える赤ん坊が、オムツとミルク以外に愚図ることもなく、きょろきょろと周囲を見回しているだけなんて、あり得るだろうか。笑いもしなければ、怒ったり怖がったりもしない、ドラコにはそんなラルフが、まるで感情のない肉の塊に見えていた。

 そんなドラコの心配をよそに、「あなたに似たんでしょう」、と、アガサは呑気に言った。

 休日の朝、ドラコはアガサにくっついて子ども部屋に入って行った。
「おはよう、ラルフ。オムツを替えるわね」
 大抵の場合ラルフは、アガサが来るまで大人しく待っている。その日はまだ眠っていたようで、アガサに起こされたラルフは、欠伸をしながら、はむはむと何度も顔にキスの大雨を降らされるのを甘んじて受け入れているようだった。
 オムツ替えをすませて着替えをさせるときに、アガサはラルフの丸いお腹にアムアム! っと吸い付いてから、ブーと息を吹いた。途端に、ラルフがギャアーっと悲鳴をあげて両手両足をばたつかせ、ケッケと笑い出した。

「なんだ、笑うんだな」
 横からドラコが不思議そうに見下ろしている。
「ラルフはお腹がくすぐったいのよ。ねえ、ラルフ、ママにもう一度だけあむあむさせてくれる?」
 実際にはやらなかったが、その言葉を聞いただけで、ラルフは、きゃあ!と叫んで笑った。

 赤ちゃんは汗っかきなので、着替えをさせるときに、アガサは念入りにラルフの全身の皮膚の状態を手で触れながら観察した。
 毎日沐浴をさせて注意深くケアをしているので、今のところ肌トラブルもないようだ。
 手のひらを触るとラルフはちゃんと握り返すし、足を引っ張ると自分で引き戻そうとした。体の動きにもどこにも異常はない。
 
 着替えをさせながら、アガサは言った。
「ラルフには、怖いものがあるのよ」
「なんだい?」
「キリンのぬいぐるみ」

 ドラコは子ども部屋の中を見回してそれを見つけた。モーレックのベッドの足元にクッションの山があり、その中からキリンのぬいぐるみが頭だげを出していた。注意して探さなければ見落としたところだ。
 それを取り上げてラルフに見せてみると、ラルフの顔がハッと強張り、助けを求めるようにアガサを見上げた。

「ドラコ、やめて」
 口を逆Uの字に引き結び、ラルフが顔をくしゃくしゃにした。
「ああ、可哀そうに……、ドラコ! 早くそれを元あった場所へ戻して」
 ドラコは言われた通りにした。
 アガサはラルフを抱き上げて、よしよしとあやした。
「ラルフの目に入らないように、いつもモーレックが隠してくれているのよ。どうしてわざと見せたりしたの?」
 ドラコは肩をすくめた。本当に怖がるかどうか確かめたかったと正直に言えば、絶対にアガサに叱られるだろう。
「もう、意地悪なパパね」
「どうしてこれが怖いんだ?」
「首が長いからよ」
 と、アガサは泣きじゃくるラルフの背中をトントンしながら断言した。

「へえ……」
「あなたも昔、キリンが怖かったんじゃない? 赤ちゃんにはよくあることらしいわ」
「記憶にないな」
 ぬいぐるみを与えられていたのかさえ、ドラコには記憶がなかった。物心ついたときにドラコが持っていたオモチャといえば、すぐに壊れてしまいそうな黄色いタクシーの模型だった。父親がどこかからもらってきたやつだ。

 ラルフはなかなか泣き止まない。

「大丈夫よ、ラルフ。キリンさんはね、首が長く見えるけど、頸椎の骨の数は私たちと同じ7つなの。不思議よね、神様はどうして生き物たちの首の骨を7つに揃えたのか。もう少し大きくなったら、動物園に一緒に見に行ってキリンさんに聞いてみましょうね。心配ないわよラルフ、キリンさんは優しい動物だから」
 ドラコが驚いたことには、ラルフはそのとき甘えるような声を出してアガサに応答した。

 アガサにとっては普通のことらしく、ラルフが泣き止んだので、いつもの様子で赤ん坊の体をきびきびと抱っこ紐に入れ始めた。
 朝は、ヤギと鶏たちを庭に開放し、小屋の掃除をするのがアガサのルーティンだった。
 上の子たちはこの時間はリビングで朝の子供番組を見ている。Mr.ジャックのアルファベットの音楽番組だ。最近ではマリオもモーレックにならい、テレビを観ながらアルファベットの踊りを一緒に踊っている。二人とも、歌と踊りが大好きなようだ。
 マリオはモーレックほど言葉を覚えるのが早くはなかったが、それでも平均的な子に比べるとよく言葉を理解したし、何より、活発だった。

 テレビを見終わったら、「ママあむあむー」、とすぐにやって来るので、それまでに家畜たちの世話を終えて朝食を作らなければならない。

「ねえドラコ、お願い、子どもたちにパンケーキを焼いてあげてくれない? 生クリームとフルーツは冷蔵庫に準備してあるから、それを子どもたちに好きにトッピングさせてあげて」
「いいよ。モーレックとマリオにも焼いてやるし、君にも特別なパンケーキを焼いてあげよう。生クリームが残ったら、あとでそれを君に塗って俺の朝食にしてもいいな……」
 ドラコはアガサを背中側からハグして首筋にキスを落とした。
「なんて素敵な旦那様なの、ドラコ、愛してるわ。でも今日は【あなたの】パンケーキになるつもりはないの、また今度ね」
 アガサに軽く受け流されるのはいつものことなので、ドラコはへこたれない。
 ただし抱っこ紐の中のラルフが、迷惑そうにドラコを見ていることには傷ついた。
「ラルフは?」
「朝方にたっぷりミルクを飲んだばかりだから、一緒にお庭に出ているわ。この子は動物たちに好かれているのよ」
「へえ……」

 モーレックとマリオも動物たちの世話が大好きでアガサをよく手伝ってくれるが、実のところモーレックは動物たちから恐れられているし、マリオは彼なりの好奇心と愛情表現のためにちょっかいをかけすぎるので、今のところ二人ともヤギと鶏たちからは敬遠されていた。ただし、猫のモーニングは二人によく懐いている。
 そのことを伝えるとドラコは何も言わずに口元を緩めた。
 ちなみに、ドラコは初対面の印象が最悪だったらしく、ヤギにも鶏にも自分からは一切関わろうとしない。家畜と人との生活域を分けるために早々に庭に柵をたてたのもドラコだ。
 愛猫のモーニングだけが、ドラコを主と認めて慕っているが、最近ではモーニングさえドラコを差し置いてモーレックの方に擦り寄っていくことが多い。
 モーレックには不思議と相手を畏れさせ、従わせるオーラがあった。


「ところで、子どもたちが犬を飼いたいと言っているの。私からはまだ早いと伝えてあるから、あなたも話を合わせておいてね、ドラコ。犬はまだ飼えない、って」
「どうしてダメなんだ? 一匹ずつ与えてやればいい」
「犬は人とのコミュニケーションを必要とするし、しつけや散歩も必要だから、今飼ったら可哀相な思いをさせてしまうわよ。私も犬は好きだけど、子どもたちがもう少し大きくなるまでは、忙しくてちゃんと世話をしてあげられそうにないの」
「いつになったら許すつもりだ?」
「まだわからないけど、多分、モーレックが6歳になったら、あの子は自分の犬の面倒をちゃんと見れるようになるんじゃないかしら」
 チョコは3歳になるまで食べられず、犬は6歳になるまで飼えないのか、子どもたちも大変だな、とドラコは思った。
 だが、アガサの現実的な考えには賛成だ。
「わかったよ。俺からも話しておく」
「お願いね。あの手この手であなたに取り入ろうとしてくるでしょうけど、こらえてよ。私も、一度は落とされかけたの」
「モーレックに?」
「マリオと二人でタッグをくんでるわ」
「それは手ごわそうだ」

 一階に下りるとアガサとドラコはキスをして、アガサはテラスから庭へ、ドラコはキッチンに向かった。
 リビングではちょうど、Mr.ジャックのエンディング曲が流れている。





 ドラコが子どもたちのためにフライパンで小さなパンケーキを焼いていると、モーレックとマリオがキッチンにやってきた。二人とも自分でベビーチェアによじ登って座ると、ひそひそと何か囁き合ってから、ドラコに話しかけてきた。
「ねえパパ、ぼくようけんをしってる?」
「知ってるよ。牧場で家畜の群れを見張ったり守ったりするように、特別に訓練された犬のことだ」
「うちにもいたらいいとおもうんだけど、パパはどうおもう?」
 ドラコはニヤリとした。そうきたか。

 子どもたちのお皿にパンケーキを二枚ずつ乗せてやりながら、ドラコは言った。
「牧羊犬に、ママのヤギや鶏を世話させるのか?」
「あう!」
 と、マリオが頷き、モーレックもそれに続いた。
「ぼくとマリオはどうぶつたちがだーいすきだけどね、パパ、ぼくようけんがいたら、もっといいとおもうんだよ」
「いい!」
「パパにどうしろっていうんだ?」

 モーレックは生クリームをたっぷりと自分のパンケーキに乗せた。
「まーりーおーもお!」
 ドラコが手伝ってマリオのパンケーキにも同じように生クリームを乗せてやる。

「ママは、うちでイヌをかうのはまだ早いっていうんだ」
「ママはその理由もちゃんとお前たちに説明したんだろ?」
「うん」

 マリオが生クリームを鷲掴みにして口に運んでいる間、モーレックはブルーベリーと苺とラズベリーを、好きなだけ自分の皿にとった。
 ベッタリと生クリームがついた手で、マリオが同じようにフルーツの皿に手を伸ばしたので、ドラコがすかさず代わりに盛り付けてやる。

「ママは何て言っていた?」
「ちゃんとおせわができるようになるまでは、ダメだって。おさんぽと、しつけと、ごはん。でもぼくにはまだムリなんだ。トイレのれんしゅうをはじめたばかりだから」
 ドラコは吹き出しそうになるのをこらえた。
「ママにそう言われたのか?」
 モーレックは少し前から、パンツタイプのオムツに切り替えてトイレトレーニングを始めたばかりなのだ。
「うん」
「ひどいな……」
「きずついたよ、ぼく……」
 ドラコは憐れみをこめた眼差しを向け、モーレックにヤギのミルクを注いでやった。マリオの分はストロー付きの哺乳瓶に入れてやる。

「仕方ないよモーレック。誰もが通る道だ」
「うん。でもね、ぼくはパパにならイヌをかえるとおもうんだ」
「どうしてそう思うんだ?」
「パパはなんでもじぶんでできる、すごいひとだから。ねえ、マリオ?」」
 モーレックがマリオに目配せすると、マリオは初めて「うん」と、言った。
 息子たちから認められて、ドラコの自尊心はくすぐられた。
 確かにモーレックとマリオの言う通りだ。ドラコになら、犬を飼える。しかし、アガサの手前、すぐに承諾することはできなかった。

「少し考えさせてくれ。もし本当に我が家で犬を飼うなら性格の良い奴を探さなければならないよ。モーニングが虐められたら可哀そうだろ」
「うん、そうだね」
 
 ヤギたちの世話を終えたアガサがキッチンに入って来たので、ドラコと子どもたちの会話はそこで切り上げられた。

 ドラコはその後もしばしば時間を見つけては、モーレックとマリオと一緒に、犬を飼う件について秘密の打ち合わせをするようになった。
 モーレックの考えでは、ブリーダーに高いお金を支払ってパピーを買うよりも、保護シェルターから飼い主のいない犬を引き取りたいのだという。どうしてそう考えるのか聞くと、「僕もそうだったから」、とモーレックが答えたので、ドラコは驚いた。モーレックはゴリヤノヴォの孤児院のことも、そこからアガサに引き取られたこともちゃんと覚えていたのだ。





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