恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 3-12


 老人ホームでピアノを奏でていたアガサがとても素敵だったので、ドラコは古城にもピアノがあればいいな、と、思いつき、その日のうちに、音楽業界の知り合いに連絡をとって最上級のピアノを手配していた。ドラコは楽器のことは何も知らなかったが、スタインウェイのD-274は、コンサートや音楽学校でも使用される良質なピアノのようだ。

 その翌週、何の予告もなく美しい赤焦げ茶色のグランドピアノが古城の広間にセットされたので、アガサは腰を抜かすほど驚いた。
 スタインウェイのD-274は、40万ドルもするとても高価なピアノだ。
 耐久性に優れ、何十年も積み重ねられた職人たちの技巧の集大成であるそのピアノは現代もなお進化し続け、高音域は繊細でかつ豊満に、中低音域はダイナミックに轟いて、どの鍵盤も奏者の指先の微妙な変化を忠実に表現することができる。

「こんなに高価なピアノ、我が家にはもったいないわよ……」
 アガサはわなわなと唇をふるわせてドラコを見上げた。夫といえども、ドラコの金遣いの荒さには毎度、肝を冷やされる。

「アガサがピアノを弾いている姿をもっと近くで見ていたいと思ったんだ。この前はとても素敵だったから。それに将来、子どもたちもピアノを弾くようになるかもしれないだろ」
「ああ、ドラコ……、このピアノは我が家の家宝になるでしょうね。宝の持ち腐れにならないように、子どもたちが興味を示してくれるといいんだけど」

 アガサはクラシックからポップスまで、いろいろな曲を弾くことができたが、最もよく弾くのはやはり讃美歌だった。
 その日から毎日、古城にはピアノと讃美歌が響き渡った。

 それだけでなく、「ビンゴを弾いて」、とモーレックがせがむと、科学実験ビンゴのオープニング曲を弾き、マリオが「じゃーっく!」、と、リクエストすると、Mr.ジャックのアルファベットの歌番組のエンディング曲を弾いてやった。アガサのピアノに合わせて子どもたちがエメラルド色の床の上を踊りまわるのは、滑稽で可愛らしかった。

 生活の中に音楽が取り入れられると、家族の古城での生活はこれまでよりも華やかに、豊かになったような気がした。
 アガサがピアノを弾くと、子どもたちは喜んで耳を傾け、シュレッダーも心地よさそうに目を細めた。

 ある時モーレックはアガサをつかまえて言った。
「ぼくのいちばんすきなうたをひいて、ママ」
「ビンゴ?」
「ねるまえにうたってくれるやつだよ」
「ああ、あれね」

 アガサは鍵盤の蓋を開けて、ポロロンと軽やかに鍵盤を弾いた。

――あかちゃん、目を閉じて。誰もあなたを責めたりしないから、悲しまないで
 それはアガサが、ゴリヤノヴォの孤児院から引き取ったモーレックのために毎夜歌い続けた、楽譜のない子守歌だった。
――あかちゃん、目を閉じて。明日になれば、今日よりもきっと傷は癒えるから

 古城に来たばかりのモーレックは余命宣告を受けた、悲しい赤ん坊だった。
 モスクワでブラトヴァに命を狙われ、銃口から逃れて春の冷たい暗い運河に飛び込んだこともあった。
 ドラコは当時のことを思い出し、感慨深くアガサの子守歌に耳を傾けた。

――心配な日のことも笑いながら話す日がくる。もうダメだと思ったときも、きっと霧が晴れるときがくる

 その通りになった。
 アガサの愛が、モーレックに生きる力を呼び覚まさせたのだ、とドラコは思う。

――耳を澄まして、ママのララバイ。やわらかい時間が流れて、子羊たちが夢の中を走っていく。雲の草原の上を、新しい世界に向かって

 モーレックはママの座るピアノの椅子の端に肘をついて、うっとりとママを見上げていた。
 いつもア・カペラで歌われていたその歌は、ピアノの伴奏がつくと一層深く、優しく響いた。

――耳を澄まして、ママがここにいるから。朝が来たら、あなたは希望に満ちてまた目覚める。

 最後の一節を歌い上げて、アガサは後奏をポロロンと優しく尾をひくように締めくくった。

「やだ、あたし、感動しちゃった」
 目の中にたまった涙を零さないように、シュレッダーが黒くて大きな手で顔を扇いだ。

 その日からモーレックはピアノに興味を示し、ママと並んで一緒にピアノを奏でるようになった。
 まだ2歳のモーレックは手が小さいので、弾ける曲には限りがあったが、覚えるのはとても早かった。
 黒髪のアジア人のアガサと、プラチナブロンドの小さな白人のモーレックが並んで座っているのは、もしかすると何も知らない他人の目には奇妙に映るかもしれないが、もしこの先、心無いことを言う奴が現れた時には、雑音は片っ端から排除しようとドラコは考えていた。
 ドラコの目には、二人は本当の親子だった。
 アガサにはモーレックを愛する無条件の愛があり、モーレックはそんなアガサを信頼し、心から慕っていた。そしてドラコにとって、アガサは愛する妻で、モーレックはかけがえのない息子だ。

 同じ時間を思い合って過ごすことで、毎日、毎日、家族の絆を深めてきたのだ。これからもそれは変わらない。マリオと、ラルフと、シュレッダーも加わって、一度は忘れ去られ、朽ちかけた古城に、【今再び】家族の愛が溢れていく。

 そう、再び――。
 アガサとドラコの古城には、まだ彼らの知らない秘密が眠っていた。





 そんな平穏な毎日を送るドラコたちの元に、翌年の夏にイタリアで開催されるマフィアの大会合インコントロへの正式な招待状が届いた。
 ドラコはアルテミッズファミリーの幹部の一人として、妻であるアガサを同伴して参加することになっている。

 インコントロに出席する話をしたとき、アガサは二つ返事で応じた。
 イタリア中のマフィアが集う平和的なコンベンションだとドラコが説明したからだ。
 でも実際には、ファミリー同士のマウントの取り合いになることは目に見えている。同伴される妻たちは、その格好の標的となるだろう。
 3日間に渡り開催されるインコントロでは、毎夜ディナーパーティーが開かれる予定で、その他にもダーツやビリヤードや様々なテーブルゲームが興じられる。それらは常に、相手の力量を図るために行われるものだ。アルテミッズファミリーの面々も、皆一様に気の抜けない闘いになる。
 見くびられないように、幹部の妻たちにも相応しい立ち居振る舞いが求められるが、ドラコはまだそのことをアガサに説明していなかった。

 連日の夜会に着ていくドレスが必要だし、妻たちだけの茶会が持たれることになっているから、テーブルマナーと会話スキルも必要だ。
 隙あらば相手の弱みを握り、陥れようとしてくる相手と渡り合うのは、想像以上に神経をすり減らすキツイ経験になるだろう。
 備えをさせるべきだろうか、と、ドラコは悩んだ。
 しかし、最終的にドラコは、ありのままのアガサが傍にいてくれるだけで十分だと考えるようになった。
 美しく着飾る必要もないし、狡猾な駆け引きを覚える必要もない。――そのままでアガサは十分に美しく強いのだから。

 インコントロに参加するためのドレスコードをアガサから問われたとき、ドラコはこう答えた。
「俺のために君が思う通りのお洒落をしてくれたら嬉しいよ。でも何を着ても関係ない、どうせ夜になったら全部脱がすから」

 アガサはインコントロの雰囲気が全く読めずに途方に暮れていたので、ドラコに聞いてみた。
「セクシー系と清楚系なら、どっちが場の雰囲気にふさわしい?」
 ドラコはもちろんセクシー系が好きだったし、おそらくインコントロに参加する他のファミリーの妻たちは裸同然の露出の高いドレスを身に着けてくるだろうと想像したが、アガサには迷わず告げた。
「セクシー系は絶対に却下だ」

 でもアガサは不安だった。ドラコと並んで歩く女性をイメージすると、どうしてもエマの姿が思い浮かんだからだ。スラリと背が高くて、引き締まった肉体を大胆に露出させた、体にぴったりフィットしたセクシーなドレスを纏っている女性を。

 ニコライに電話してドラコに言われたことを伝えてから改めて意見を求めると、ニコライは大笑いして言った。
『残念だけど、君にセクシーは似合わないよ。却下だ、アガサ。ただでさえインコントロではみんな気が立つことだろうからねえ、君だけはいつも通りでいておくれよ』

 ニコライも助けにはならなかったので、アガサはもう好きにやらせてもらうしかなかった。

 賢くて貞淑な妻は夫の冠。
 アガサはこれまでのスタンスを貫くことにした。
 しかし、フォーマルなディナードレスは若い頃に買ったものしか持っていなかったので、この機会に新調しようと考えた。アガサはここぞとばかり、ドラコのクレジットカードを使わせてもらうことにした。

 でも念のため、アガサの好みでドラコが本当に満足するかどうかを確かめたかったので、ジラードのディナーに着ていくドレスでドラコの反応を試してみようと思った。





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