恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 3-11


 アガサは次の給料日に、春らしいシフォンのブラウスを買った。
 いつもはTシャツか、パーカーか、分厚いリネンのシャツを着ているアガサが、バストのラインが上品に浮き出る薄地のブラウスを着ていることに、ドラコはすぐに気づいた。
 そのせいで、いつもと同じジーンズを履いているのに、ヒップや足がとても女性らしく引き立っている。

「どこかに出かけるのか?」
「今日は、教会の婦人会で老人ホームを訪問するって、言ってたでしょ。聖書のお話をして、讃美歌を歌うのよ。私は讃美歌担当」
 老人ホームといっても、『終末期医療介護老人ホーム』だ。治療困難な病を抱える老人たちが、安らかに死を待つ場所。
 いつも讃美歌を担当しているミセス・チャービルが風邪で寝込んでいるので、代役として今回だけアガサが担当することになったのを、ドラコも何日か前から聞かされていた。

「俺も一緒に行くよ」
「あなたが? 最初に話したとき、『死に際の老人たちに天国への命綱をかけてやるってわけだな、ご苦労なことだ』、って、あなたは皮肉たっぷりに言ったでしょう」
 確かにドラコはそう言った。
 老人ホームになど少しも興味はなかったが、アガサが新しいブラウスを着ているので、気が変わったのだ。

「一緒に来るのは構わないけど、荷物を運んだり、車を回したり、婦人たちを手伝ってもらうことになるわよ?」
「仰せのままに、奥様」





 数時間後、ドラコは生まれて初めて老人ホームに足を踏み入れた。
 そこには静寂と、死の臭いがたちこめていた。

 死を待つだけの皺だらけの老人たちが、介護士たちに支えられて車いすや、杖で、ホームのカフェテリアに集められた。
 教会の婦人たちが聖書を持って老人たちの間に座ると、リック牧師が前方の壁際に立って挨拶をし、語り始めた。

 リック牧師は聖書のヨハネによる福音書3章16節から、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」、との御言葉を示して永遠の御国のメッセージをした。
 端的にまとめると、「今日、神を受け入れてあなたたちは永遠の命を得るべきです」、と強く勧める話だった。
 「永遠になど生きたくない」、とある老人はののしり、「私は生まれ変わりを信じる。生まれ変わったら前世よりも豊かな暮らしを送り、自分を惨めにさせた家族に思い知らせる」、と、ある老人は豪語した。

 メッセージの終わりにリック牧師は短い祈りを捧げてから、「今日、神の救いを受け入れたい人は手をあげてください」、と、呼びかけた。

 誰も手を上げなかった。

 こんなに気まずい雰囲気の会合があるだろうか、と、ドラコは後方の壁際に立って一部始終を見守っていた。
 老い先の短い聴衆たちは皆、偏屈で、気難しく見えた。

 その時、カフェテリアの端にあるアップライトピアノがポロンと静かに鳴った。アガサがピアノの前に座っている。
 多分、何かの讃美歌の前奏だろうが、その曲をドラコはこれまでに聞いたことがなかった。その音楽は、ひび割れて殺伐とした場の空気の中に、優しく溶け込んでいくようだった。

――ただ、一つのこと。私は願う。
 ゆっくりと息継ぎをして、アガサは囁くように歌い始めた。
――あなたの御そばで、【永遠に】生きることを

 老人たちの注意が一斉にアガサに集中したことを、ドラコは肌で感じ取った。

――永遠に、永遠に、私は生きる。この口は歌い続ける、【あなたの】驚くべき愛を。

 アガサは人々の注意感心には目を向けず、祈るように天に向かって歌っていた。
 ピアノの間奏を挟んで、二番の歌詞が紡がれ始めると、老人たちの中に緊張が走るのが伝わった。
 一番とは違って、二番は老人たちに向かって語り掛けるように歌われたからだ。
――私たちは跪き、神に祈る。
――ここにいる私たちが手を取って【永遠に】神の国で憩うことを

 何人かの老人たちが、涙を流した。

――永遠に、永遠に、アナタは生きる。もはや病はなく、老いることもなく、神の驚くべき愛の中で。

 酸素吸引機に繋がれた顔色の悪い老人が、震える手を上げた。リック牧師がすぐにその手をとり、祈り始めた。
 一人、また一人と、老人たちが手を上げ始めた。
 人々は涙を流し、会場全体にこの上なく優しく、力強い寛容さが満ちているのを感じ取って、ドラコは鳥肌がたった。
 それは別に、アガサのピアノと歌が特別に上手いからではなかった。
 何か、目には見えない特別な力が働いていた。

 会が終わる頃には、会場はすっかり和やかな雰囲気に包まれていた。

「へい、お嬢ちゃん。あんたの歌はなかなか良かったよ。神に救われた祝いに、ちょっとこっちに来て膝の上に座っちゃもらえないかな。死ぬ前にサービスして欲しいんだ」
 車いすの老人が陽気にアガサを呼びつけた。
 アガサはニコニコしながら老人に近づくと左手の薬指を見せた。
「死ぬ間際だからって人妻に手を出していいことにはならないのよ、おじいちゃん。それに、他のご婦人たちの目もあるわ……」
 そう言ってアガサが指し示したのは、同じホームの老婆たちだ。
「私のような小娘があなたみたいな素敵なおじいちゃんに迫ったと誤解されたら、ご婦人たちの嫉妬の対象になってしまうわよ」
「構うもんか、ここにいるのは皺くちゃのクソ婆ばかりだよ、お嬢ちゃん」
「口の悪い爺さんだこと、お嬢さん、相手にしちゃいけないよ」
 膝に乗れ、としきりにせがむ色ボケ爺に、アガサはチュッとほっぺにキスをして黙らせた。
「天国で会いましょう、可愛いおじいちゃん」
 ドラコはイラっとして、一言物申してやろうと進み出たが、その時いきなり杖の老婆に抱きつかれた。

「ああ、大丈夫ですか?」
 骨と皮だけの痩せた老婆は少しの衝撃でポッキリ折れてしまいそうなので、ドラコは優しく抱きとめた。が、次の瞬間、老婆はあろうことか、ドラコのお尻を撫でてきた。
「ちょっと……」
 ドラコが慌てて身をひくと、老婆は年甲斐もなく頬を桜色に染めてウィンクして言った。
「いいお尻ね、坊や。これで寿命が一年は延びた気がするわ」
 こっちは寿命が三年は縮んだ気がした。

「あら、美味しそうな子がいるじゃないの」
 と、老婦人たちが続々と集まって来たので、ドラコはリック牧師を盾にして身の安全を確保しなければならなかった。
 アガサは遠くの方で笑っているだけで、全然助けてくれようとしない。そればかりか、他の老人たちと楽し気に会話している。

 今夜は夫婦の愛をジックリ再確認する必要がありそうだな、と、ドラコは思った。





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