恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 2-9


 地球温暖化に対する新しい仮説の立証と、異常気象に対抗するというアガサの研究は順調に進んでいた。
 実験の人手が足りず、いつも追い立てられるように忙しかったが、タイの留学生アルパは勤勉で真面目だったので、アガサの助けになってくれた。
 アルパは自分でもよく勉強したが、分からないことは潔く、分からないから教えて欲しい! とアガサを頼ってくれるので、むしろ話が早かった。変なプライドをもって知ったかぶりをされるよりも、ずっといい。アガサはアルパに研究のノウハウを一からたたき込んだ。
 その甲斐あって、アルパは覚えがよく、少しずつ早く、丁寧に仕事をこなせるようになっていった。

 シャロームプロジェクトの働きも神の祝福と喜びに満たされていた。
 ファミリーサポートチャリティーで集めた寄付金を利用して、キャシディの母親は少しの間、専門の施設で心と体のケアを受けることになった。シャロームプロジェクトは、子どもたちと一緒に過ごせるグループホームを立ち上げたのだ。パサデナにあるダヴァール教会に近い閑静な住宅街に、アガサは大きな不動産を借入れ、そこにサポートスタッフを配置して、一時的に保護が必要な家族を受け入れて必要なケアを受けられるようにした。子どもたちはそこから、学校や幼稚園に通うこともできる。
 やがてグループホームから家族が自立していこうとするときには、アガサは必要なら職業斡旋を行なうことも忘れなかった。
 シャロームプロジェクトのために働き手はいくらでも必要だったし、一度助けられ、恵まれた者は、同じようにまた誰かを助けることができるということを、アガサは知っていたからだ。

 古城では、モーレックとマリオが健やかに育っていた。
 兄弟は近頃、『チョコレート』という食べ物があるらしいことを嗅ぎつけて、執拗なまでに興味を示している。
 3歳になったら食べることができる、と説明するアガサに、「まちきれないよ、ぼく」、とモーレックは言い、マリオはあくまでも、自分はもうあむあむができると主張した。

 あらゆることが順調に進んでいるかのように思われたが、アガサの心だけはここ何日かずっと沈み込んでいた。
 赤ちゃんが産めない体になってしまったことがショックだった。
 ドラコにはいつ、どんなふうに伝えたらいいだろうか。
 自分自身の中でもまだ咀嚼できていない悲しい事実を、アガサはまだ誰にも伝えられずにいた。

 手術のために入院したら、いつものように連絡がとれなくなるから、ドラコにはその前に伝えなければならない。
 妻として誠実でありたかったから、ドラコに嘘はつきたくなかった。
 子どもを望んでくれているドラコは、きっと失望するだろう。でも、エマがドラコの子を産んでくれる。
 やはりドラコはイタリアからは戻らないかもしれない、と、アガサは改めて覚悟した。
 誰だって、自分と同じ血が流れる子どもが欲しいだろうから。

 エマがドラコの子どもを身ごもってくれてよかった、と、アガサは思った。
 少なくともドラコの遺伝子は、エマという素晴らしい女性によって継がれていくのが、せめてもの救いだった。

 アガサにはすでに、モーレックとマリオという可愛い子どもたちが与えられているではないか。
 神のなされることはすべて、時にかなって美しいのだ。アガサはモーレックとマリオの存在を、神に深く感謝した。

 そうして何日か、ゆっくりと時間をかけて少しずつ、アガサは自分の身に起こったことを受け入れられるようになっていった。

 手術の日が迫っている。
 今夜ドラコに伝えよう、と、アガサは決心した。





 その頃イタリアの白雄鶏の邸には、年に一度のアルテミッズファミリーの会合のために、世界中から幹部たちが集まっていた。
 会合では、イタリア全土のマフィアが一堂に会するインコントロについて話し合われた。
 驚くべきことだが、昨年、アルテミッズファミリーと衝突して壊滅状態に追い込まれたノストラ―ドファミリーも、新たなボスを据えて再決起し、平和的にインコントロに出席させてもらいたい、と、申し出てきていた。
 ノストラ―ドファミリーが『沈黙の掟』を再び守り始めたので、フェデリコはその申し出を聞き入れた。

 イタリア全土の組織間投票で、会を非暴力のうちに、平和的に開催するために、インコントロにはある異例の制約が設けられることになった。
 武器の持ち込みは禁止。
 そして、妻帯者は妻を同伴させる、という二つの制約だ。
 血の気が荒く、喧嘩早い男たちが集まれば、いつ殺し合いが始まるとも知れない。だからどの組織も大切な妻たちを同伴することで、互いの理性を保とうとする狙いがある。
 しかし、それは裏を返せば、互いの弱みをさらけ出すということにもなる。

 アルテミッズファミリーの幹部たちの多くが、これには反対した。ドラコもだ。

 ファミリーの中には、夫がマフィアに関わっていることを知らずにいる、善良な一般人を妻にもつ幹部もいるのだ。
 イギリス支部の紳士ベドウィルと、上海支部の双子の兄チェンがそうだった。
 ドラコの妻アガサは、ドラコの【稼業】を知っているが、ドラコは無暗にアガサを危険と隣り合わせになる場所に連れ出したくはなかったから、反対した。
 アガサのことを良く知るニコライとアーベイも反対した。それから、イデリコも。
 イデリコはアガサを気に入っていたが、マフィア同士の鬼気迫る駆け引きの場に、彼女はそぐわないと考えていた。アガサは危うすぎる。

 12人いる幹部のうち半分がインコントロに妻を同伴するという制約に反対を表明したが、しかし。
 今やイタリアの一大勢力となったアルテミッズファミリーが連合の決定に背いて妻を同伴させないというのは、他の組織の手前、あまりにも体裁が悪い。

「これはすでに決定された事項なんだ」
 イタリア本部の幹部、ジョバンニとアレサンドロは繰り返した。
「イタリアのマフィアは、今後は暴力では問題を解決しない。この不文律を正式な掟とするため、我々の妻はその担保としてインコントロで示されなければならない」
「平和のためなんだ」

 すると、燕尾服を気品高く身に纏うベドウィルが、イーグルの彫刻が施されたシルバーのステッキに両手をかけながら重苦しく口を開いた。
「イタリア本土ではそれで平和が保たれるかもしれない。しかし、我々の妻の顔や名前が、イタリア国外のマフィアに漏らされないという保証はないではないか」
 
 フェデリコが応じた。
「インコントロに加盟するイタリアのマフィア連合は、等しく秘密保持契約を結ぶことになった。――血の契約だ。裏切れば、他のすべての組織が敵となるだろう」
「しかし、もし裏切られたら? 他のすべての組織に、我々が貶められるかもしれません。家族を人質にとられて」
 チェンが言った。

「その心配がないように、インコントロで我々の力を示すのだ。――裏切りは決して許さない、我々こそが全イタリアマフィアのルールだとな」
「ドラコ、君の意見は。アガサをインコントロに連れてくることには反対だろう、それとも、君はエマを代わりに連れて行くのかね?」
 ベドウィルに問われて、ドラコはすぐに答えた。
「アガサを連れて行くよ」
 と。
「もちろん、誰にも手出しはさせない」
 そう言って、ドラコは去年の出来事を思い出させるかのように、ドンであるフェデリコに意味深な笑みを向けた。
「インコントロに参加して、俺たちが堂々と妻を同伴しているのを見れば、俺たちが【何も恐れてはいない】ことをイタリア中のマフィアが知るだろう。連中も愚かではないはずだ。下手なことはしてこないさ。もちろん、させる気もない。ただし、」
 と、ドラコはそこで言葉を切ってから、少し考え、そして困ったように言った。
「ただし、アガサを連れて行けば面倒なことにはなるだろうな。きっと、アガサはインコントロの席でも聖書を配り、罪を悔い改めて教会に行くようにと、手当たり次第に悪者たちを脅し、神の国に引きずり込もうとするだろうから」
 実際、去年アガサが白雄鶏の邸に来た時には、幹部を始め邸の用心棒たちの全員が、アガサから聖書をプレゼントされていた。罪を悔い改めなければ地獄に堕ちると脅されて。
 それを思い出して、円卓を囲む幹部たちは皆一様に笑みを浮かべた。
 アガサならやりかねない。いや、きっとやるだろう、と皆が思った。

「そうか、ドラコが言うなら、私も賛同しよう」
 ベドウィルが折れた。
「仕方ないなあ。まあ、うちのワイフは君のところよりはましだから、何とかなるとは思うが。わかったよ、決定に従おう」
 チェンも同意した。
「ニコライとアーベイは?」
「ドラコの判断を支持するよ」
「同じく。だがいざというときには、ファミリーの妻たちを守ってやらねばならんぞ」
「もちろんだ、アーベイ。我々のものは、我々が守る。――コーザ・ノストラ」
 ドンであるフェデリコが会合の葉巻を掲げると、円卓を囲む他のすべての幹部たちも一同に紫煙の立ち上る葉巻を掲げた。
――『コーザ・ノストラ』

「イデリコもそれでよいな?」
「ああ、兄者。異論はない」
「アリもそれで問題ないか?」
 最後に、ジョバンニがシンガポール支部のアリに問いかけた。アリも妻帯者だが、インコントロでまだ何も発言していなかったのだ。
 巨体のアリは、彼専用の大きなアームチェアの中でゆったりとふんぞり返って、ニヤリと笑った。
「うちの嫁は俺より強いから、まったく問題ないよ」
 
 幹部たちは、アリが恐妻家であることをよく知っていたので、それ以上は誰も何も言わなかった。
 かくして、来年の夏に開かれるインコントロにはファミリーの妻たちを同伴することが正式に決定した。





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