恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 2-7


 ドラコがイタリアへ行った最初の一か月は慌ただしく過ぎた。
 アガサからのアドバイスの甲斐あって、エマは少しずつまともに食べられるようになり、妊娠中の自分の体との向き合い方を学んでいった。
 妊娠6カ月になったエマは、深夜に突然お腹を空かせて泣き出したり、むくんだ足の痛みに耐えかねてヒステリーを爆発させることがあったが、そういうことが起こることをドラコはあらかじめアガサから教えられていたので、文句を言わずにエマに夜食を作り、アルガンオイルで丁寧にエマの足をマッサージした。
 足のマッサージについては、ビデオチャットでアガサから熱心にたたきこまれた。
 アガサはいくつかあるオイルの種類を細かに解説し、妊婦の体の負担にならない、サラッとした使い心地の良い商品をすすめ、それを用いてビデオチャット越しに自分の足を用いてドラコにマッサージの仕方を教えた。

「わお、君の足って、綺麗だなアガサ」
「ありがとう。でも画面越しだからそう見えるだけよ」
「触ってみたい。つま先から舌を這わせて君を味わったら、どんな味がするんだろう」
「集中して、ドラコ!」
 はじめのうちドラコは卑猥な言葉を口にして面白がったが、アガサに本気で怒られると仕方なく心を入れ替えた。
 あなたには人を思いやる心が足りない、とか、父親になる自覚がない、とアガサから厳しく説教をされると、ドラコは本気で落ち込み、焦った。どうしてもいつかアガサとの間に子どもを授かり、その父親として、また夫として、アガサに立派だと認められたかったのだ。

 毎日、ロサンゼルス時刻の夜8時にドラコはアガサに連絡をした。
 その時間のイタリアは早朝の5時だったが、ドラコは苦にならなかった。
 アガサが子どもたちを寝かしつけて、一日のうちで唯一ゆっくりできるのが、その時間だったからだ。それより遅いと、アガサは疲れて眠ってしまう。

 シャロームプロジェクトや大学の仕事ばかりでなく、二人の子どもたちの育児で、アガサはいつも忙しかった。
 ドラコもイタリアから何度かベビーシッター紹介所から取り寄せた履歴書をアガサに送ったが、これぞ、という人材はなかなか見つからなかった。
 どうしてもの場合は、教会の婦人たちが子どもたちを見てくれることもあったが、彼女たちも自分の家庭や教会の奉仕活動で忙しく、毎日固定した時間でお願いすることは無理だった。


 その日、朝方までエマが腰の痛みを訴えたのでドラコは一晩中、エマに付き添って、体勢を変えさせたり、さすってやったりしていた。
 朝5時過ぎにようやくエマが眠りについたので、アガサに連絡するのがいつもより少し遅くなった。
 急いで自室に戻り、ドラコはタブレットからアガサに連絡をした。アガサはすぐには出なかった。もしかしてもう、眠ってしまっただろうか。一日に一度だけ話せる時間が、イタリアに来てからのドラコの慰めだったので、コールの回数が重なっていくにつれてドラコの心は沈んでいった。

 諦めかけたとき、呼び出し音が止まってタブレットに映像が映し出された。夫婦の寝室の天井と、窓が映っている。
『ごめん、寝てたわ……』
 アガサの寝ぼけた声だけが届いた。
「エマが眠らなくて遅くなったんだ。起こしてごめん、でも、少しだけ話したくて。……アガサ、君が映っていないんだけど」
『うう……』
 ベッドの上で寝返りをうつ音がして、アガサがタブレットを持ち上げた。
 画面に映し出されたアガサは肌が透けそうなほど薄いキャミソールを着て、ベッドにうつ伏せになっていた。
 押しつぶされた胸が、彼女の体の下で深い襟元から窮屈そうに溢れて、いまにも零れかかっている。
 ドラコは一瞬、言葉を失った。
「アガサ、もしかして今夜は俺にサービスをしてくれるつもりだったのか?」
 起き抜けの乱れた髪と、寝ぼけた顔のアガサが、画面の中で眉をひそめた。
「俺もさすがに、チャットセックスはしたことがないんだ……。けど、君がその気ならいいよ、喜んで」
『何のこと?』
 モニターの中のアガサが真顔になった。
「胸が見えてるよ」
 次の瞬間、アガサが引きつった悲鳴をあげてタブレットを放り投げたので、ドラコのタブレットにはまた寝室の天井が映し出された。
 慌ててベッドから飛び降りて、何かを身に着けようとしているようだ。
「夫婦なんだから、恥ずかしがらなくてもいいだろ」
『別に……、恥ずかしがってなんか……』
 襟首のピッタリしまったTシャツを着たアガサが再び画面に映し出される。
「なら、もっとよく見せて」
『パジャマに着替えようとして、途中で寝落ちしちゃったんだわ……』
 訳を説明するアガサの前で、ドラコはネクタイをするすると外し、シャツのボタンを外し始めた。

『何をしてるの?』
「見せあいっこしよう」
 ドラコがシャツを脱ぎ捨てた。
 カシャッと、タブレットから電子的な音が鳴った。
『スクリーンショットを撮ったわよ』
 と、アガサ。
「ああ、その手があったか、なんでさっき思いつかなかったんだろう」
『ふざけるなら切るから』
「待って、わかったよ。そっちに帰ってから生身で味わわせてもらうのを待つことにするから……、あ、アガサ! 切らないでくれ、って」

 それからアガサがエマの様子を心配して尋ねてきたので、ドラコは話して聞かせた。
 妊娠6ケ月ともなると、子宮が大人の頭よりも一回りも大きくなり、さらにお腹が突き出て、体の重心が変化してくる時期だ。歩き方や姿勢も否応なしに変化して、腰や背中に痛みが出やすくなる。温めたりストレッチすることで多少は改善できるが、くれぐれも無理をさせないように、とアガサはドラコに伝えた。エマは強い女性だ。そのエマがそんなに苦しみを訴えるということは、妊娠期間中は想像もできないくらい大変にちがいない、と、アガサは思った。

 ドラコの方は子どもたちの様子を訊ね、マリオが一人歩きできるようになったことや、モーレックが庭で三種類のトマトを育て始めたことを知った。パパが戻ったら、家族みんなで食べるのだという。
 子どもたちの成長を間近で見られないことを、ドラコは切なく思っている。
「俺がいなくて寂しがってる?」
『最初の頃よりはだいぶ慣れてきたみたいよ』
「ああ、アガサ……、子どもたちにちゃんと俺のことを話しておいてくれよ。愛してる、って」
『わかってる』
「そういえば、あのいけ好かない金持ちとはどうなってるんだ?」
 ドラコがよく気にして聞いてくるのは、PR会社のCEO、ウィリアム・ジラードのことだ。
『昨日、ハーヴィーと一緒に彼と会ったわ』
「聞いたよ。ジラードからディナーに誘われたことを、俺に言うつもりはあるのか?」
『ないわよ。断ったから』
「そうしたら次はランチに誘われただろ」
 どうしてそれを知っているのかと不思議に思いながらも、アガサは誤解がないようにドラコに説明した。
『それも断ったわ。でも、変な意味はないと思う。ジラードは今度、チャリティーパーティーを開いてくれることになっているの。集めたお金はシャロームプロジェクトに任せるつもりみたいだから、きっとその前に、私のことを知りたかったんじゃないかしら』
「俺には、そのチャリティーパーティーすら、君に近づく口実に思えるね」
『こういうことに関してはあなたは【とても】心配性だし、私は【ちょっと】疎いということは自覚しているわよ。だから、ウィリアム・ジラードと会うときにはいつもハーヴィーか、ミシェルに同席してもらっているわ。お願いだから、彼のところに【刺客】を送り込むようなことはしないでね、ドラコ』
 アガサは釘をさした。
「何のためのチャリティーなんだ?」

『親を犯罪で失った孤児や、片親を失って生活が困窮している家庭へのファミリーサポートチャリティよ。実は、GBYによく来てくれるキャシディという8歳の女の子がいるんだけど、彼女は、今年のはじめにお父さんを失ったの。道端でギャングに撃ち殺されたそうよ。キャシディの母親は二人目を出産したばかりで、そんな時に突然にご主人を失ったから精神的にひどく落ち込んで、今は働くことができない状態なの。だからキャシディは道でゴミを拾う仕事をして小銭を稼ぐと、GBYに来て、母親とまだ生まれたばかりの赤ちゃんのためにミルクや卵を買って帰って行くの』

「国の支援は? 生活保護や福祉局の助けがあるはずだろ」

『残念ながら、現在のアメリカでは、その恩恵に預かれるのはほんの一部の幸運な人たちだけ。キャシディのところには父親の死亡保険金が出ているけど、二人の子どもを養っていくには十分なお金ではないの。リサーチ会社に調べさせたら、不幸な犯罪に巻き込まれて親を失い、貧困に苦しんでいる家庭は、カリフォルニア州だけでも数千世帯もあるの。隠れた貧困、そういう家庭を支援する必要があるわ。子どもたちがちゃんと学校へ通い、安全な家で、餓えることなく生活ができるように』

 アガサの試算では、一世帯で一人の子どもを育てるのに必要な生活費と、医療費や学費などの金額は、大学卒業までおよそ10万ドル、その金額を目安にカリフォルニア州に数えられる約3000世帯に支援したとして、支援金だけでざっと3億ドルが必要だった。ただし一世帯に子どもが一人とは限らないから、実際にはもっと必要だろう。
 さらに、支援に必要な書類の申請や、その他の事務作業、各家庭の面談やアフターケアに携わってくれるスタッフを雇用するために、必要経費として年間2億2千500万ドルが必要になる見込みだ。あわせて5億2千500万ドル。日本円にしておよそ600億円だ。

 アガサはざっと試算したその巨大な額をドラコに伝えたが、いとも簡単にドラコは言ってのけた。

「俺が全額出すから、ジラードとチャリティなんか開くなよ」、と。
 アガサは呆気にとられながらも、丁寧にそれを断り、説明した。

『問題を提起し、みんなで協力して取り組むことにチャリティーの意義はあるのよ。お金だけが必要なわけじゃなく、人々の関心を集めて、みんなでこの問題を解決する社会の仕組みを作っていくことが真の狙いなの。そうじゃなければ、一度きりの慈善活動で終わってしまうわ。その点、ジラードのPR会社のノウハウは強みになると思う』

「持続的な慈善とやらのために、ジラードが君との肉体関係を求めてきたらどうするつもりだ」
『私は結婚しているし、彼もそのことを知っているのよ、ドラコ。仮にそんなことがあれば、多額の賠償金をとって、そのお金も全額チャリティに寄付するわ』
「冗談じゃない。金を払って君と寝られるなら、ジラードは喜んで支払うはずだ。俺だってそうする」
――俺だってそうする、とドラコが言ったのをアガサは聞き流すことにした。ドラコの軽口をいちいち相手にしていたらキリがない。

『彼のことがどうして分かるの、ドラコ』
「わかるから」
『その言い方はやめて、ドラコ、モーレックが真似するの。『わかるから』、って。あなたと口調もまんまそっくりなのよ』
 可愛いやつめ。
 アガサは生意気になって来た息子に少し腹をたてているようだったが、ドラコはそんなモーレックを愛おしく思った。
『とにかく、チャリティーはやるつもりよ』
「いつ?」
『金曜の夜』
「週末の夜にドレスアップして酒を飲むのか、【夫】の同伴もなしで」
『顧問弁護士と税理士同伴でね』
「子どもたちは?」
『その夜はミシェルがうちに来て子どもたちの面倒を見てくれることになっているわ』
 ドラコはそれでもまだ不満だったが、アガサが推し進めようとしている慈善活動を止めることはできなかった。

「愛してるよ、アガサ。また明日」
『おやすみ、ドラコ。私も愛してるわ』

 アガサがタブレットの通話を切るのを待ってから、ドラコはベッドに横になった。
 一晩中、エマの相手をしていたからクタクタだ。
 少し仮眠をとろう。
 ドラコは目を閉じて、アガサのキャミソール姿を思い浮かべた。





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