恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 2-6


 夕飯を終えてモーニングに餌をやり、夜のトイレ掃除をしてから、子どもたちと一緒に風呂に入って、寝かしつける。

 そうしてようやく一人の時間になると、アガサはできる限り残りの家事をすませた。
 洗濯や、次の日の子どもたちのお弁当の仕込みや、おやつの準備だ。それから簡単な掃除。
 買出しや本格的な掃除は、もっぱら終末にまとめて行なうことにしていた。そんなふうに家事をしながらも、アガサは頭の中で子どもたちのことや、大学での研究のこと、シャロームプロジェクトのことを常に考えていて、いざ手を動かすときに最大限効率よく成し遂げることができるように試行錯誤した。

 頭も体もフル回転で、一日中慌ただしく動き回って、ようやく夜の11時頃に寝室に戻る。
 アガサは一人で、夫婦の寝室に続く隠し扉に入った。今やその扉は開放しっぱなしになっている。
 せっかくだから、これからは一人でこの大きすぎるベッドに寝てみよう、と、アガサは思った。
 夫婦の寝室の方が、独身時代の寝室よりも子ども部屋に近い。

 部屋に入ると、新しい家具の木の匂いが心地よく鼻をくすぐった。
 夫婦の寝室の改装や、新しく取り入れた家具はほとんどすべて、ドラコが考え、選んだものだ。
 この城の雰囲気や、アガサの好みに合わせてドラコが選んでくれたそれらの家具は、とてもセンスが良くて、機能的だった。この空間に入るとアガサは自然と、リラックスできる。

 部屋の左側にアガサのためのウォークインクローゼットと、大きなバスルームに続く入口があり、右側にドラコのウォークインクローゼットと、書斎に続く入口がある。
 アガサはこれまで通り、独身時代に使っていた寝室を書斎として利用することにしていたので、夫婦の寝室にある書斎はドラコのものにした。壁一面の本棚と、座り心地のよさそうな大きな革張りのデスクチェアがあるクラシカルな執務部屋が、ドラコが一人でリラックスできる空間になればいい、とアガサは思っていた。

 ドラコは部屋のあらゆることに拘ったが、中でもウォークインクローゼットの作りにはとてもうるさかった。
 アガサが一番驚かされたのは、ネクタイを収納する大きな引出しだ。引出しを開くと中に小さな仕切りが数えきれないくらいあって、その一つ一つに綺麗に丸められたネクタイが入っているのだ。ドラコは、信じられないくらい多くのネクタイを持っていた。
 それに、スーツも。
 ドラコのウォークインクローゼットは整理整頓されて、あらゆるものがきっちりとあるべき場所にあった。

 一方、アガサの方はまだすかすかだ。
 置いているのは、結婚式に着たウエディングドレスと、子どもたちのタキシードだけ。それ以外の私物はまだ、独身時代の寝室のクローゼットに収められていた。あちらから移動することも考えたのだが、アガサのわずかなデニムやパーカーを豪華なウォークインクローゼットに移したとしても、ドラコのウォークインクローゼットに比べると見劣りするだけなので、このまま空にしておいた方がかえって見栄えがするようにも思われた。
 せっかく改装してもらったウォークインクローゼットを使いこなせずに申し訳ないが、ドラコはアガサのクローゼットを勝手に覗いたりはしないだろうから、しばらくこのままにしておくことにする。
 


 ドラコは夫婦の寝室の他にも、他に二つの部屋を改装した。
 一つは一階の図書室に続く廊下の途中にある、窓のない大きな半地下の部屋で、ドラコはそこをトレーニング用のジムにした。
 アガサは一度だけ中を見せてもらったことがあるが、危ないのでドラコが居ないときは立ち入り禁止らしい。

 もう一つは、二階にある縦窓が素敵なゴシック様式の広々とした部屋で、そこはビリヤード台とバーカウンターをしつらえた娯楽室に大改装された。
 アガサにはそんなものが私生活の中に必要だとは思えなかったが、古城には有り余るほどのスペースがあるし、ジムや娯楽室は子どもたちが大きくなったときに活用できるかもしれないから、特に反対はしなかった。
 ただ、ドラコとの結婚生活がもし終わりになったら、あれらはどうなってしまうのだろうか、とアガサは少し不安に思う。

 そんなことを考えながら、『 I♡Italy 』のロゴの入ったスペシャルラージサイズのTシャツを寝間着代わりに、アガサはぐったりとキングサイズのベッドに倒れ込んだ。
 一人では大きすぎるが、寝心地は最高だ。

 すぐにも眠りに落ちて行きそうだったが、いいところで電話が鳴った。
 向こうに着いたら連絡をする、とドラコが言っていたのを思い出して、アガサは受話器を取り上げた。

「はい、もしもし」
『ウィリアム・ジラードのことを聞いたよ』
 開口一番に電話の声はそう言った。もちろんそれはドラコだったが、会話が唐突すぎるのだ。
 アガサは一瞬考えてから、昼間、GBYでローガンから渡されたビジネスカードのことを思い出した。

「彼はGBYの活動に関心を持ってくれているみたいで、よく店に来てくれているらしいわ」
『もう会ったのか?』
「いいえ、一度も。フライトはどうだった?」
『惨めに泣き通しだったよ、君に追い出されたんだから。……ジラードに会うのか?』
「多分そのうち会うことになるんじゃないかしら。GBYやシャロームプロジェクトの活動に参加したいというなら、拒む理由はないから」
『金が必要なら俺が寄付するから、ジラードと会う必要は無いよ』
「お金の問題じゃないのよ。神の国の働きに参加したいという心が大切なの。もしかして、ウィリアム・ジラードは危険な人なの?」
『ラットのリサーチによれば、彼はクリーンなビジネスをしているみたいだ。映画や小説などのエンタメ分野でミリオンヒット作を手がける世界的なPR会社のCEOで、やり手で、ハンサムで、独身で、今付き合っている彼女もいない。――俺にとっては危険な相手だな』
「私は【あなたと違って】身持ちは堅いのよ、ドラコ。それに、既婚者よ」
『……、やっぱり俺のことを責めているんだな』
「責めてないわよ。それより、エマの調子はどうなの?」
『最悪だよ』
「良くないの?」
 そこで、アガサはハッとして、急に早口でまくしたてた。
「彼女、イタリアの病院で私を守るためにノストラ―ドと揉み合いになって、お腹を蹴られたの。もしかしてそれが影響しているんじゃ……ドラコ、どうしよう!」
 アガサは心配になって、受話器を強く握りしめた。
 あの時アガサが逃げ遅れたせいで、もしエマと赤ちゃんに何かあったら。

『いや、お腹の子は順調らしい。そうじゃなくて、エマは今、気が立っていて、史上最悪に嫌味なワガママま娘になっているんだ。腰が痛いと常に文句を言って、俺に八つ当たりをしてくる。むくみが酷くてゾウみたいだし、貧血があって眩暈がするらしく、何をするにも一人じゃできないから、始終手を貸してやらなきゃならない。重たいんだよ。あと、食べ物……何を食べても気持ち悪くなるらしく、吐きまくってるらしい。しかも、それらの苦しみは、全部俺のせいだと責めるんだ。イタリアに到着してまだ数時間だが、すでに数えきれないくらいの呪いの言葉を浴びせかけられているよ。もう、帰りたい。妊婦がここまでイラつく存在だとは想像もしてなかったよ。アガサ、聞いているのか? 俺がこんな目にあって、どうせいい気味だと思っているんだろう』

 アガサは真剣に話を聞きながら、ドラコと結婚する前に予備知識として頭に入れておいた情報を探っていた。
 そして、ドラコが言ったエマの一つ一つの症状について、どう対処すべきかをドラコに伝えた。

 腰の痛みを和らげるマッサージや、体勢の取り方。貧血やむくみを緩和する食事と、吐き気がひどいときに食べられそうな食事のリストや、食べ方の工夫などを、親身になってドラコに教えたのだ。
 アガサがとても熱心に、詳細なアドバイスをしてきたことに驚いて、ドラコは怪訝に思った。

『なんでそんなに詳しいの』
 つっけんどんにドラコに問われて、アガサは我に返り、赤面した。
「それは……、私もいつか子どもを授かるかもしれないから……、いろいろ勉強してるのよ」
『いつか授かる子どもって、俺との子ども?』
 もちろんそうだったが、アガサはドラコに、素直にそうだとは答えられなかった。
『意地悪だな……』
「さっき私が言ったことを、ちゃんとエマにやってあげてよ」
『アガサ、俺も子どもがほしいよ。君に結婚を申し込む前からそう思ってたんだ、いつか、君と俺の子どもがほしい』
 アガサは、ドラコにそう言ってもらえて嬉しかった。
 でも果たして、これからエマとの間に生まれてくる子どもに対面しても、ドラコが同じことを言ってくれるかどうかは疑問だった。
 
『……アガサ?』
「もう寝なくちゃ」
『わかった。愛してるよ、アガサ』
「私も愛しているわ、ドラコ。おやすみなさい」
 アガサは涙をこらえて電話を切った。

 悲しいのは、どんなにドラコのことを愛していても、彼と一緒にいることが今は正しいと思えないことだった。
 最終的には、アガサは夫であるドラコの判断に従うつもりでいる。だからもし、ドラコがエマとエマの子どもを選ぶなら、アガサは潔くドラコを諦めるつもりだ。
 エマに生まれてくる赤ん坊には父親が必要なのだ。アガサにはそれがよくわかる。
 それに、まだドラコは知らされていないのかもしれないが、エマもそれを望んでいるのだ。





 イタリアの白雄鶏の邸で、ドラコは電話を手に持ったまま放心していた。
 妊婦のケアに関するアガサの知識の多さには驚かされた。彼女がそこまで真剣に子どもをつくることを考えてくれていたのが嬉しかった。
 アガサの子どもは、きっと可愛いだろうな、と、想像しただけで胸が苦しく、焦がれる。
 ドラコは静かに吐息して、彼女との幸せな未来を想像した。――アガサが恋しい。今すぐあの古城に戻って、彼女を抱きしめたい。

「ドラコ、手を貸してちょうだい」
 お腹を膨らませたエマが、ノックもせずにドラコの部屋に入って来たので、ドラコの思考は突然に打ち切られた。
「生まれてくる赤ちゃんのために、必要な物を買いに行きたいのよ。動けるうちに」
 ドラコはイタリアに着いてからまだ一睡もしていなかったが、快く応じた。
 いつかアガサが妊婦になったときに彼女をちゃんと支えられるように、立派な夫になりたかった。
 エマの相手をすることはそのための予行練習だと思えば、苦にもならない。

「車を出すよ」

 ドラコはエマの手をとって、一人で歩くのも辛いとアヒル歩きをしているエマの体を支えた。





次のページ2-7