恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 2−4
朝6時にドッグが迎えに来ても、ドラコはすぐに古城を出ようとしなかった。
「パパはどこにいくの」
しばらく会えなくなるから、パパとちゃんと挨拶をさせようとしてアガサは子どもたちを早めに起こし、広間に連れてきた。
「イタリアよ」
「またなの」
モーレックが眉をひそめた。子どもながらに、イタリアで経験したことがトラウマになったいるようだ。
「毎日必ず連絡をとりあうと約束してくれ」
ドラコに言われて、アガサがわずかに涙ぐむ。
「行ってほしくないなら、そう言えよ。君に離婚すると脅されたから、俺はイタリアに行くんだぞ」
「いいえ、あなたは行くべきだわ」
「俺に怒っていて、罰するつもりなのはわかってるよ」
「これを罰だと思っているなら、あなたはまだ罪の中にいるのね、ドラコ。私が怒っているのは、あなたが無責任な人だからよ」
ドラコとアガサの言い合いを見てモーレックは息を潜め、心配そうに二人を見上げた。
「俺はエマの面倒を見て、子どもの行先を決めてくればいいんだろ。わかってるよ」
まるでただの業務事項を確認するようにドラコが言うので、アガサはついに涙を流した。
「なんて酷い人なの。もしエマと私が逆の立場なら、私にもそういう振舞いをするってことなのね」
「はあ? 君とエマは別だろ。アガサ、俺は最初から、君しか求めてない」
キスをしようと身をかがめるドラコに、アガサは頑なに唇を引き結んで顔を横に向けた。
「アガサ……」
「もう出発しないと、飛行機の時間に遅れます」
ドッグが遠慮がちに、玄関から顔をのぞかせた。
「早く行って」
「……向こうに着いたら連絡するから。愛してるよ、アガサ」
だが、アガサは黙っている。
ドラコは傷ついたが、あくまでも冷静に、アガサの顔を覗き込んだ。
「愛していると言ってくれるまでここから一歩も動かない」
ドッグが困ったように時計を見つめている。
「愛してるから早く行って!」
その言葉を聞き終わるか否や、ドラコはアガサの顎をクイと掴んで、いささか強引にキスをした。
アガサは涙目で怒った顔をしているし、ドラコもムッとしている。
モーレックはそんな夫婦の足元に立ち尽くし、口をぽかんとあけて痛々しく事態を見守っている。
ドラコがくるりと背を向けて玄関から出て行くと、アガサの腕の中で、マリオがドラコを後追いして泣いた。
最悪の朝だった。
◇
「ママ、きょうはぼく、ママといっしょにいることにするよ」
朝食の席で、モーレックは遠慮がちに言った。
「あら、どうしてモーレック。保育園に行きたくないの?」
「パパがイタリアにいって、ママがさみしいとおもうから」
「ありがとう、モーレック。あなたがいてくれて、ママは本当に心強いわ。でも、保育園には行きなさい。ママも仕事があるから」
モーレックとマリオの通う保育園のストークス先生がドラコに熱を上げているので、アガサは近々保育園を代えるつもりだった。あるいは、ドラコがシッターさんを雇うと言ったが、まだどちらも宛がないので今日の所はいつもの保育園に世話になるしかなかった。どのみちドラコはいないのだから、ストークス先生のことは今は心配ないだろう。
「んまんまんまんま!」
ベビーチェアの中でマリオが怒ってテーブルを叩いた。
パパが行ってしまって機嫌が悪く、今朝はちっとも自分であむあむを食べようとしない。
アガサは辛抱強く、マリオの口にスプーンを運んでカボチャのスープを食べさせた。
子どもたちに食べさせて、着替えをさせて、保育園へ送り届ける。ママ一人だと大忙しだ。
ドラコは危険と隣り合わせの生活をしているので、いつ一人になっても二人の子どもたちを守り、育てられるように、アガサはいつも覚悟している。
覚悟はしているが、実際の子育ては目が回るほど大変なことだった。
早いところ良いシッターさんが見つかればいいが、客観的な監視の行き届かない密室で子どもたを預けるからには、よほど信頼できる人でなければ安心して任せられない。
焦らずに、慎重に決める必要があるから、しばらくはアガサ一人で子どもたちの面倒を見ることになるだろう。
幸い、カリフォルニア工科大学でのアガサの仕事は裁量労働制なので、決まった勤務時間はないから、子どもたちのために時間をやりくりしやすい環境にある。
そのかわり、一定の期間で常に成果を出し続けなければ次年度の契約を切られかねないのが研究職だから、決して楽ではないが。
子どもたちを保育園に送り届けてから、大学に向かい、来週から始める地球温暖化対策プロジェクトの詳細な計画をたて、学部長にメールで報告をすませる。
来週からタイの女子留学生アルパとともに新しくラボを立ち上げるので、彼女にやってもらうべき仕事の具体的な指示書を作成して、それをアルパにメールで送った。分からないことや、技術的に不安な作業があれば、あらかじめ連絡をしてくれるように伝えて。
すぐにアルパから返信がきた。
いくつかやったことのない実験の作業があるので、それを教えてもらいたいとのことだった。
プロのテクニカルスタッフなら、アガサが教える必要もないのだが、大学院生となるとそうはいかない。彼らはまだ学んでいる最中で、ほとんどの実験が未経験なのだ。かつてはアガサもそうだった。自分で調べてやればいい、と突き放すこともできるが、同じ実験でもノウハウが異なれば微妙な実験誤差になる。
メールの文面から、アルパは不安そうだった。
――プロトコルを送るから、予習をしておいて。大丈夫、初めての実験は私と一緒にやりましょう。
アルパに返信を送って、アガサは早々に大学を後にした。
今日は、シャロームプロジェクトの方でもやるべき仕事がある。
はじめに、ヘンリーおじさんのハーベスト牧場に向かった。
アガサは紅茶ほどコーヒーに詳しくはないが、ヘンリーおじさんの牧場で売られているコーヒーは大好きだった。
去年、ベガスの学会に向かう途中に、ドラコと一緒にコーヒーを買ったのもこの牧場の隠れカフェだ。
国際的な輸出関税の影響で、アメリカ国内の農業はどこも赤字続きだった。ヘンリーおじさんのハーベスト牧場も例外ではない。
土にも家畜にも丁寧に手をかけて、勤勉に働いているハーベスト牧場が経営の危機にあるので、アガサは農協に買いとってもらえずに捨てるしかなくなったハーベスト牧場の生産物を、シャロームプロジェクトのために買いとって活用することにしたのだ。
すでに、顧問弁護士のハーヴィーに契約書を確認してもらっている。
この日、買い付け契約をするのは、小麦粉と、牛乳と、卵だ。
それらをシャロームプロジェクトが運営するGBYで販売する。一部は各地の教会で行なう聖餐式のパンや、チャリティーの炊き出しにも用いる予定だ。
買い付けた食料は、なるべく良質な状態で保管できるように加工して、ハーベスト牧場とシャロームプロジェクトのロゴの入ったパッケージで包み、先日借りた、GBYの倉庫に大量ストックする手筈になっている。
「やあ、アガサ。待っていたよ」
擦り切れたオーバーオールに、ほどけかかった愛用の麦わら帽子をかぶるヘンリーおじさんは、まだ5月も上旬だというのにこんがりと日焼けしていた。
働き者の、節くれだった大きな手でアガサと握手をする。
アガサは契約書を出し、要点を丁寧に説明した。
契約は1年単位。国内の消費がだぶついたり、関税の影響で輸出がとどこおり、需要が落ちたときにシャロームプロジェクトが相場で買いとるというものだった。
「今年は長期契約をしている卸売り業者も買いとりをキャンセルしてくるほど、だぶついているんだ。本当に相場で買いとってくれるのかい? 聞いた話じゃ、他の農場はかなり買いたたかれているそうだ」
「多いときも少ないときも、農夫は等しく労苦するものでしょう。聖書には、その働きはとても尊いことだと書かれている。神様はいつも、必要なときに必要な分だけ糧を与えてくださるから、これはシャロームプロジェクトのために神様が特別に与えてくださった契約だと確信してるの。もちろん、相場で買いとるのが神の心にかなったことだわ」
「神は偉大だな……」
ヘンリーおじさんもクリスチャンだったが、アガサほど熱心なキリスト教徒ではなかった。
けれど、アガサが敬虔過ぎるほどのキリスト教徒だということはよく理解していたので、アガサの言った言葉を文字通りに受け止めて、契約書にサインをした。
「それと、うちでヤギと鶏を飼いたいと考えているんだけど、買いとらせてもらうことはできる? そっちは、バイオマスの研究のために必要なの」
「研究で動物を殺すのかい?」
「まさか! 家畜の糞尿を発酵させてガスエネルギーを得るのよ。その他にも、ヤギは庭の草を食べてくれるし、ミルクも搾れるから、子どもたちに飲ませたいの。鶏は卵を産んでくれるでしょう。少しでも自活できれば生活が助かるし、子どもたちに毎日新鮮な卵を食べさせてあげたいの。あ、でも、クリスマスの時期には鶏は何羽か減っちゃうかもしれないけれど……」
ヘンリーおじさんは笑った。
「なるほど、そういうことなら、うちの家畜を分けてあげよう。飼育できる環境はあるのかい?」
「前にヘンリーおじさんの所の家畜小屋を見せてもらったことがあるでしょう。それを参考にして、今、うちの庭に建設を進めてるの、これよ」
アガサは鞄からタブレットを取り出して、古城にある庭の様子と、そこに建設中の家畜小屋の写真を見せた。
「ほお、すごい広い庭だな。話には聞いていたけど、大自然の中に住んでいるようだね」
「そうなの。管理を怠るとすぐに草木に家が浸食されそうになるわ」
「広さは十分だし、家畜小屋も申し分ない、いいだろう」
「ありがとう、助かるわ。ヘンリーおじさんの所に負けないくらい、可愛がるつもりよ」
詳細は後日また打ち合わせることにして、アガサはとりいそぎの約束をとりつけた。
アガサは、もう少し子どもたちが大きくなって手がかからなくなったら、他にも乳牛や豚や羊を飼って、ほとんど自給自足ができる生活にすることを夢見ていた。
「そういえばアガサ、去年、カリフォルニア州全域の電力会社を統合した、マーモット&フォックス社を知っているかい?」
去年、ロサンゼルスでも新聞を騒がせていた巨大企業だ。
カリフォルニア州にはそれまで民間の電力会社が5つか6つあって、どれも評判があまり良くなかった。電力供給が不安定で、料金が高く、古い送電設備の更新を怠っているせいで、あちこちで火災事故を発生させていたのだ。それらの電力会社をたった1年で統合し、一躍優良企業に変貌させたのがマーモット&フォックス社だった。
「もちろん名前は知ってるけど、その会社がどうかしたの?」
「今年の初めにうちの経営が差し押さえられそうになった時、マーモット&フォックス社からある男が来て、農場経営を株式形態にするよう勧めてこられてね。もう後がなかったから神にもすがる気持ちで言われた通りにしたら、なんと、マーモット&フォックス社がすぐに多額の株を買いとってくれたんだよ。それでこの農場はなんとか首の皮が繋がったんだが、今まで全く接点のない会社が、うちのような赤字続きの農場株を買ってくれるなんて変な話だ。それで、もしかしてシャロームプロジェクトの、君の知り合いなのかと思ったんだ」
アガサには全く心当たりがなかったが、念のため聞いてみた。
「相手は名のった?」
「ああ、確か……ヤコブソン。そう、ドラコ・ヴィクトル・ヤコブソンという名前の男だった」
アガサはとっさに、左手の薬指にはめている結婚指輪に視線を落とした。
【電気の修理屋さん】とは聞いていたが、ドラコがマーモット&フォックス社に勤めているという話は、初耳だった。
「シャロームプロジェクトとは関わりのない人だわ」
とだけ、アガサは答えた。
かつてアガサはハーベスト牧場のことをドラコに話したことがある。
――経営はかなり厳しいみたいだけど、土づくりから動物の世話まで、心をかけて丁寧にやっている牧場だから、潰れてほしくないな
と。
もしかするとドラコは、それを覚えていて、ハーベスト牧場を助けてくれたのかもしれない。
そう思うとアガサは胸が熱くなった。
本当は今すぐに、彼は私の夫だと、胸を張って言いたかったが、アガサはヘンリーおじさんにそれ以上は何も言わなかった。
ドラコがアガサに言わなかったということは、言う必要がないことなのだろう。
そもそも、――ドラコはもう、イタリアから戻らないかもしれないのだから。
アガサはヘンリーおじさんからコーヒーを3つ買って、別れの挨拶をすると、次にスキッド・ロウにあるGBYに向かった。
◇
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