恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 2-12


 アガサはドラコに告げないまま入院し、手術を受けた。
 破裂していた左側の卵巣が他の臓器に癒着していたので、手術は当初予定していたよりも長引いた。
 医師は壊死した部分を綺麗に取り除き、腹腔内を念入りに消毒したことを、麻酔から目覚めたアガサに説明してくれた。
 ただし癒着が激しかったので、まだ腹膜炎を起こす危険性があり、入院期間は一週間に延長された。

 アガサは自分のことよりも子どもたちの様子が心配だった。
 そのことを打ち明けると、モーレックとマリオは院内の保育施設でお利口にしている、と、医師から褒められて、アガサは子どもたちのことを誇らしく思った。
 手術の前に、モーレックは何度も、「マリオはぼくがみているから、だいじょうぶだから」、と言ってアガサを心配させまいとしていたし、いつも甘えん坊でママから引き離されるとすぐに泣き出すマリオは、保育室から出ていくアガサを見送るときもモーレックと手を繋いで、泣くのを我慢しているようだった。
 早く元気になって、あの子たちを安心させてあげたい。


 ベッドから起き上がることを許可されると、アガサは病室にある洗面所に自分の足で向かった。
 鏡の前でシャツを持ち上げてみると、左の下腹部の皮膚が手繰り寄せられて縫合され、10センチくらいの引きつった傷になっていた。中華まんじゅうの閉じ口みたいで、酷く不格好だ。

 子どもが産めないうえに、傷のついた体になってしまったことを、アガサは残念に思った。
 いつか最愛の人に、傷のない綺麗な体を捧げることを夢に見ていたから。
 しかし不思議とアガサの心は穏やかで、平安に満たされていた。
 アガサは静かな病室のベッドに横になり、深い眠りについた。
 窓から射し込む秋の木漏れ日がキラキラと、優しくアガサの頬を撫でた。





 エマは予定日より3週間も早い土曜の夜に陣痛を起こした。
 その痛みに耐えかねて、エマは力の限りドラコにしがみつき、この世にある知りうる限りの悪態をつきながら病院に運ばれて行った。
 病院に着くと、エマはあっけなく出産した。
 産婦人科医が言うには、初産とは思えないほどのスムーズな出産だったそうだ。

 とりあげられた赤ん坊は男の子だ。
 名前はまだつけられていなかった。
 エマの出産に立ち会ったドラコは、すぐに赤ん坊を抱かせてもらうことができた。
 我が子を抱けばドラコの気持ちが自分に向くと期待したエマだったが、その驚くほど小さくて、皺が寄った、はかない存在の重みを腕に感じても、ドラコは驚くほど無表情で、ただ色を失った瞳を曇らせた。
 その時ドラコの目から涙が零れ落ちたが、それが喜びの涙ではないということは、周囲にいた誰の目にも明らかだった。


 生まれてきた子には何の罪もないのに、ドラコはその赤ん坊を見ると悲しくなった。――可哀そうに。
 こんな形で生まれてこなければ、きっとこの子は喜ばれ、愛されただろう。
 命の尊厳は認める。しかし、ドラコはやはり失望していた。
 無性にアガサを恋しく思い、今こそ跪いて彼女に許しを請うて、急いで彼女の元に帰りたいと思った。だけどそう思うことはとても無責任なことで、こんな俺を、きっとアガサは愛してくれないだろう。

「やっぱり俺は、この子の父親にはなれないよ、エマ。ごめん……」
 ドラコはエマに赤ん坊を押し付けると、こらえきれなくなったように病室を飛び出していった。

 携帯を取り出し、震える手で泣きながらアガサの携帯電話の番号をダイヤルする。
 無責任に子どもを捨てたと言って、軽蔑されるとしても。
 たとえ帰る場所を失うとしても、もうイタリアに留まることはできなかった。

 無機質な機械音性が、アガサの携帯の電源が入っていないことを知らせてきた。

 ドラコは逸る気持ちを必死におさえながら、古城の固定電話にかけた。
 辛抱強く、しばらく鳴らし続けるが、応答はない。
 イタリアは夜の9時だから、ロサンゼルスは土曜の昼間だ。子どもたちを連れてどこかに出かけているのだろうか。

 ドラコは電話を切って、深呼吸をした。
 一体、どうしてこんなことになってしまったんだろうか。
 生まれて初めて本当の恋をして、ようやく結婚したのに。これから幸せな新婚生活を送るはずだったのに。
 ドラコはもう半年もアガサに直接会っていないし、ここ一週間は声さえ聞いていなかった。自分を見失いそうだ。
 今すぐに、アガサの声を聞きたい。

『もしもし』
 ラットはすぐに電話に出た。
「アガサと連絡がつかないんだ。どこにいるか知っているか」
『どこに、って……病院に入院しているんじゃ。……え! もしかして聞いていなかったんですか?』
 驚いた声が返って来て、ドラコは言葉を失った。
 入院て何だ。そんなの聞いていない。

『毎日連絡を取り合っていると言っていたから、てっきりアガサから聞いているかと。……すみません、ボス。アガサは今、ロスのパームデザート病院に入院しているんです』
「いつから、なんで……」
 ドラコの声がざらついた。
『僕も詳しくは聞いていないんですが、古い怪我の治療のために手術が必要になったそうです。アガサは先週から入院しています。僕には大したことのない手術だから、モーニングの世話だけ頼むと言ってたんです。見舞の必要もないからって。予定通りなら明日、退院するはずです』
「モーレックとマリオは誰がみてるんだ」
『子どもたちはアガサと一緒にいます。病院の中に保育施設があるらしくて、そこで』
 ドラコは困惑した。
 アガサはどうしてドラコに何も知らせなかったのだろうか。何かあったら、いつでも連絡すると言ったのに。

『今から様子を見てきましょうか』
「頼むよ、ラット。そしてすぐに俺に連絡を寄越すようにアガサに伝えてくれ」
『わかりました』

 それからドラコは一人で白雄鶏の邸に戻り、他には何も手がつかずにベッドに座り込んで、連絡を待ち続けた。
 病院にいるならきっと大丈夫だと信じたかったが、ドラコは心配で、次第に恐怖を募らせていった。
 アガサに何かあったら、どうしよう。
 何も言わなかったのは、簡単には伝えられないほど事態が深刻だからなのかもしれない。

 そのうちドラコは居ても立っても居られなくなって、ベッドの前で跪いて両手を合わせた。
――神様、彼女がいなければ俺は生きていけません。どうか俺から、彼女を取り上げないでください。

 その数分後にはロサンゼルス行きの一番早い飛行機のチケットをとって、ドラコは空港に向けて車を走らせていた。





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