恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 2-11


 一度はアガサにドラコを譲ると決めたエマだったが、今は気持ちが変化していた。

 それでも妊娠が発覚した当初は、エマは自分一人で子どもを育てようと思っていた。
 ホルモンのバランスが崩れ、日に日にお腹が突き出てくると次第に、絶対に一人で子どもを産み、育てるのは無理だと感じるようになった。
 途端に、エマはドラコが恋しくなった。

 妊娠したことをすぐにドラコに伝えなかったのは、万が一にも、お腹の子を堕胎しろと言われるのが怖かったからだ。
 できればドラコとアガサが結婚する前に妊娠したことを伝えて、結婚式を中止してもらいたかった。でも、法律によって中絶が認められなくなる時期まで待っていたら、連絡するのが二人の結婚式当日になってしまったのは誤算だった。まさかドラコとアガサが、ほんの数カ月で式を挙げられるなんて思いもしなかったのだ。

 エマは、アガサのことは心配していなかった。
 アガサは敬虔なキリスト教徒で、命を重んじる人だから、エマにドラコの子どもができたと知れば、きっとドラコを諦めてくれるだろうと思った。
 手ごわいのはドラコの方だった。

 ドラコはイタリアに来てからもアガサと毎日連絡をとっていて、相変わらず、エマには見向きもしなかった。
 もちろん、ドラコは妊娠中のエマの体を気遣って、親切に助けてくれはする。しかし、それはエマに向けられる愛情からではない。アガサがドラコに教え、やらせているということくらい、エマにも分かっている。
 だからエマはいまだに言い出せずにいた。
――イタリアに残って、私と一緒に子どもを育てて欲しい。アガサとは別れて。

 臨月に入って、エマはとても気が立っていた。
 お腹の中の大部分を胎児に占領されて、絶えず息苦しく、手足はうっ血して、体の節々が痛んだ。
 愛して支えてくれる夫がいなければ、とても乗り越えられない。

「ねえ、ドラコ、体が痛くて眠れそうにないの。悪いけど今夜も、背中をさすってもらえない?」
 エマはその夜も、ドラコを自分の寝室に呼びつけた。
 アガサにどう言い含められているのかは知らないが、エマの頼みをドラコが断らないのは知っている。彼は愛する人に、すごく忠実だから。
 その夜もドラコは来てくれた。
 ドラコから触られるのは気持ちが良かった。彼は全身をマッサージしてくれる。
 マッサージには香りのないサラッとしたオイルを使用しているので、洗い流さずにそのまま寝ても気持ち悪くならなかった。

「ストレッチがいいそうなんだ。この前、アガサから聞いたんだよ」
 そう言ってドラコは、エマの体をベッドの上で転がして、強張った関節をゆっくりと伸ばしてくれた。
 終わった後は、枕やクッションをエマの背中や腰、足の間にあてがって、楽な体勢をとらせてくれた。
「どうだ?」
「ありがとう、少し楽になったみたい」
 エマはドラコにキスしたくなった。彼がエマの顔を覗き込んできたからだ。
 「少し熱い?」、と、ドラコは聞いて、窓を開けて秋の涼しい夜風を部屋に取り込んでくれる。
 臨月になって、体が火照りやすかった。

 エマのことをよく観察して、細かなところにも気を配ってくれる、なんて素敵な旦那様なのかしら、と、エマは思った。

 危険な仕事でドラコが無類のリーダーシップを発揮するのを、エマはこれまでに何度も見てきたが、こんなに甲斐甲斐しく女性の面倒を見れる人だとは、想像したこともなかった。
 エマはますます、ドラコを惜しく思った。
 そう思ったら、「ねえドラコ、この子が生まれたらあなたが父親になって」、と、気づいたら、エマはそれまでずっと願っていたことをつい口にしてしまった。

「悪いけどエマ、それはできないよ」
 と、ドラコの声が静かに返って来た。
 ドラコはエマのお腹にタオルケットを掛けながら言った。
「無責任だと言われるかもしれないが、エマが出産したら、俺はアガサのところに帰る。アガサを愛しているし、モーレックとマリオもいるから」
「けれど、生まれてくる子は、【あなたの子】なのよ、ドラコ。他の誰でもない、あなたの子だわ」
「俺はその子の父親にはなれない。……ごめん、エマ」

 エマはベッドの上で身をよじった。予想はしていたが、実際に面と向かって言われると涙が押さえられなかった。

「私一人じゃ育てられないわ……、私にはあなたが必要だし、子どもには父親が必要なのよ、ドラコ」
「君は一人じゃないだろ、エマ。ドンがいるし、邸の用心棒たちも助けてくれる」
「あなたじゃなきゃダメなの! ドラコ、あなたは生まれてくる赤ちゃんに、少しも愛情が湧かないの?」

 ドラコは答えなかった。
 そうだ、と、正直に答えるのは、あまりにも残酷だとわかっていたから。

「今すぐに決断をしないで、生まれてくる赤ちゃんをあなたの腕に抱いて見て。それから、考えてみてくれない」
 ドラコは無表情になって、しばし沈黙してから、口を開いた。
「わかったよ、エマ。でも期待しないでくれ。俺は、最低の人間だから」

 ドラコはそう言うと、部屋を出て行ってしまった。

 残されたエマは一人、ベッドの上で泣き崩れた。
 生まれてくる子どもを見たら、きっとドラコにも愛情が芽生えるはずだという希望にしがみついて、エマは泣き続けた。





 部屋から出ると、フェデリコがドラコを待ち構えていた。
「そもそもお前は、エマのワガママなど無視して、イタリアに来るべきじゃなかったんだ。アガサと結婚したのに、お前がいつまでもエマに優しくするから、あの子はつけあがり、お前への未練を断ち切れずにいるのだぞ。もっと非道になれ、このバカ者が」

 フェデリコに胸を小突かれて、ドラコはムッとした。

「こっちは新婚初夜に離婚すると脅されたんですよ。俺はただ、アガサに許してもらいたいから……、まったく、俺はいつも、アガサを人質にとられているみたいだ」
 今度はフェデリコが素早い手の動きでドラコの頭を叩いた。
「ようやく気付いたか、大バカ者め。半端は許さん。エマとのことはお前が望んでいなかったことだから、今回のことは私にも責任がある」
 フェデリコにされるがままやり込められて、ドラコはふてくされた。
「エマには私から話そう。もし、あの子がお前なしに赤ん坊を育てられないと言い張るのなら、赤ん坊は養子に出す。お前はそれで異論はないだろうな」
「ありません」
「よろしい」
 エマはまだ若い。この先きっと誰か別の男を見つけて、また子どもをつくるさ、とフェデリコは言ったが、それが本心かどうかはドラコにも分からなかった。
 手に負えない娘に苛立ってか、あるいは、生まれてくる初孫を手放すことが本当は辛いのか、フェデリコは刺々しくドラコの前から立去って行った。
 もしかしたら、ドラコに失望したのかもしれない。
 だが、それ以上にドラコは自分自身に失望していたので、今さら他人にどう思われようと気にもならなかった。





 早朝の5時を待って、ドラコはアガサに連絡をした。アガサはすぐにタブレットに応答した。
 ドラコは早速、エマやフェデリコと話したことをアガサに伝えた。何かが心に引っかかっていて、アガサと話せば、問題を解決できるような気がした。

 アガサはドラコの話にジックリと耳を傾けてから、言った。
「ドラコ、あなたは何も心配しなくていいのよ」
 タブレットの画面の中のアガサは、とても優しく微笑んでいた。

「私はどこにも行かないし、何があっても私のあなたへの愛は変わらないから。だからあなたには、――いつも心から正しいと思える決断をして欲しい。たとえ私と離れることになっても」
 
 ドラコはあくまでもエマの子どもの父親になるつもりはないと断言し、エマが出産を終えたらすぐにロサンゼルスに帰るとも言ったが、ドラコの中にほんの微かに迷いが生じていることを、アガサは見逃さなかった。おそらく、ドラコ自身もそれに気づき始めている。
 エマを家族として大切に思っているし、初めて生まれてくる血のつながった我が子に、ドラコは愛情を感じ始めているのだ。
 ドラコは本当は優しくて、心の正しい人だ。だからアガサは、ドラコを好きになったのだ。
 エマとその赤ちゃんを見捨てるはずはない、と、アガサは思った。

「あなたを誇りに思うわ、ドラコ」
 そう言って、アガサは本当に嬉しそうに涙を浮かべると、ある提案をドラコにもちかけてきた。

「今すぐに決断をしないで、あなたはもっと時間をかけて自分自身の心と向き合ってみるべきだわ、ドラコ。エマとのことや、生まれてくる赤ちゃんのことは、今は焦って決める必要はないんじゃないかしら。だからこうしない? 赤ちゃんが生まれてくるまで私たちは少しの間だけ連絡を控えて、あなたは試しに、本当に子どもの父親になるつもりで毎日を過ごしてみたら。それでも、あなたの気持ちが変わらないのだったら、その時はロスに帰ってきたらいい。私はいつもあなたを待っているから」

 ドラコははじめ反対したが、そのようにすることは【私たち】のためにも必要なことだと、アガサから何度も優しく説得されて、とにかく試してみることになった。

「これを乗り越えたら、きっとすべてが上手くいくわよ」
 と、アガサは言った。
 どうしてそんなことを言うのかドラコには不思議だったが、アガサには確信があるようだった。

「明日から夜8時の定時連絡を気にせずにグッスリ眠れるのね。最近ずっと寝不足だったから、よかった」
 そんなことをアガサが呑気に口にするから、ドラコは大袈裟に眉をしかめた。
「俺を君の人生から締め出そうとしていないか?」
「締め出せるものですか。図々しくも、あなたは私の人生のほとんど真ん中に居座っているのよ、ドラコ」
 いつもは素っ気ないくらいなのに、今日はアガサが巧みに愛情表現をしてくれるのが、ドラコには嬉しかった。
「ど真ん中じゃないのか」
「それはモーレックとマリオだから」
 ドラコは苦笑する。
 なるほど、子どもたちが相手となるとドラコに勝ち目はない。

「愛しているよ、アガサ。何かあったら、いつでも連絡してくれ」
「わかってる。そっちもね。愛してるわ、ドラコ」

 いつもの通り、アガサから通話を切った。ドラコはいつも、アガサが切るまで待っている。

 アガサは結局、手術や入院のことをドラコに話さなかった。

 話せばきっと、ドラコの悩みをもっと増やしてしまったことだろう。今は何よりも、エマや生まれてくる命に対して芽生えた愛情を、ドラコに大切にしてもらいたかった。
 かつてドラコが、『そんな子ども、生まれてこなければいいのに』、と、冷淡に言ったときは、アガサはドラコにとても失望したし、自分のことのように悲しかった。
 でももう、あの時の彼とは違う。
 ドラコは新しい命をエマとともに愛するだろう。
 アガサはそれを自分のことのように心から喜び、神に感謝した。これで、よかったのだ。





次のページ2-12