恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 1−6


 カリフォルニア工科大学から車で約30分走り、ロサンゼルスのダウンタウンの中心部にあるスキッド・ロウに向かった。
 そこはロサンゼルスで最も治安が悪く、路上生活者や薬物中毒者が多く、貧困に苦しむ人々やマフィアによって殺人、強盗、強姦、薬物売買などが日常的に行なわれている犯罪多発地区だ。全米で元もホームレスが多い地区と言われ、路上にはゴミが散らばり、いくつものテントが連なっている。

 バス通りのサン・ペドロストリートに面したビルの一階を借り切って、アガサは大規模に改装を施した。
 一面ガラス張りで、外から店の中が見渡せる開放的な店舗にした。
 店内の一角には職業斡旋のコーナーを設け、専任のスタッフを配置している。
 店で販売しているのは、水とお茶と牛乳、野菜や果物、米、小麦粉、卵やパンなどの健康的な食べ物で、すべて最小単位の個包装で陳列している。食べ物の他には、聖書と教会新聞、各種教会のお知らせ、職業募集案内、子どもたちの絵本、学習教材などを置いた。生理ナプキンやオムツ、絆創膏や包帯などの衛生用品も置いている。それと、粉ミルク。寒い時期になると、防寒着や毛布なども販売する。

 店内に陳列されている商品には、どれも値札はついていない。
 会計をするカウンターもない。
 
 客たちは品物をとったら、出入口に設置されている会計ボックスに、支払える分のお金を自由に入れることになっていた。
 開店当初は、品物だけとって、会計ボックスに何も入れずに帰る客が後をたたなかったし、時には会計ボックスを強奪されたことも、何度かあった。
 アガサは店を任せている従業員に、それでいい、といつも言い聞かせた。まず、与えるのだ、と。

 店舗の従業員の仕事は在庫のチェックと、品物の補充だが、何より重要なのは、訪れる客に必ず挨拶をして、いつも温かい言葉をかけることだ。訪れる客たちがどんな風に生活し、何を思っているのかを知り、対話することを、アガサはまず従業員たちに求めた。

 小さな変化はほどなくして顕れた。
 はじめのうち店をバカにして支払いをせずに品物を強奪していっていた客たちが、次第に、1ペニーでも手持ちの現金を工面して支払いをして帰るようになった。

 開店時間は朝の9時から夕方16時までだが、アガサは従業員たちに言って、閉店になっても店の鍵は閉めずに帰らせた。
 夜に店を荒らされても、翌朝には何事もなかったかのように店を片付け、時には修復し、品物を補充して開店し続けた。
 店内にはいつも讃美歌が流れ、一歩でも店に入れば店員がニコニコと話しかけてくる。調子はどう? 今日は何が入用? 新しい品物が入ったんだよ。
 次第に人々は気圧されて、むやみに店に近づくことがなくなっていった。

 その代わり、必要な物があるときに、なんとか少しでも金を工面して店にやって来るようになった。
 従業員たちはいつも変わらずに、優しく親切に、客たちに接した。

 アガサと同じ教会員で、警察官のノーランが街の巡回をするときに、よくGBYに立ち寄ってくれた。
 ドラコのさしがねで、たまにラットも店の様子を見にやって来た。
 店の経営を心配したダヴァール教会の教会員たちも、近くに来た時に寄ってくれ、何か買っては品物よりも多くの金を支払いボックスに投じて行った。
 そんな必要は無いとアガサが言っても、彼らはどうしてもそうしたいようだった。

 そうした人々の監視と優しい介入があって、地域の空気が少しずつ変わってきているのをアガサも店の従業員たちも感じ取っていた。

「おつかれ、ローガン。今日はクッキーを焼いてきたのよ」
 治安のこともあるので、店舗の従業員は全員男性だ。
 4人のうち二人がダヴァール教会の教会員で、他の二人はミッションスクールの学生だ。従業員は皆、熱心なキリスト教徒だ。
 路上に車を駐車して、アガサはGBYの店内に大きなボール紙の箱を運び入れた。中には手のひらくらいの大きさのチョコチップクッキーがどっさり入っている。

「店に来たお客さんに、よかったら差し上げて欲しいの。余ったら、『ご自由にどうぞ』、という札をかけて店の入口に置いて帰ってね」
「美味しそうだな。僕も一つもらっていいですか?」
「もちろんどうぞ」
 ローガンはミッションスクールに通っている20代の青年で、将来は牧師になるために勉強している最中だ。福音を伝えるために人と話すことが大好きな、とても人懐っこい性格の持ち主だ。

 小学生くらいの女の子が、ミルクと卵を持ってローガンの元にやって来た。
「やあキャシディ。お母さんは元気?」
 ローガンはにこやかに女の子に話しかけながら、ミルク1本と、卵3個をショップ袋に入れてあげると、アガサが持ってきたクッキーを3つ、紙ナプキンに包んで差し出した。
「今日はオーナーからの差し入れがあるんだ。大丈夫、ただのチョコチップクッキーで、僕も味見したから心配ないよ」
 キャシディは頷くと、クッキーの包みと買い物袋を受け取って、会計ボックスに25セント硬貨を一枚入れてくれた。

「卵、たった3つでいいの? もっと持って行っていいのよ」
 とアガサが声をかけると、キャシディは恥ずかしそうに首を横に振って、店から出て行った。

「あの子はこの近所に住んでいて、よく店に来るんです。母親は出産したばかりであまり体調がよくないらしく、キャシディが代わりに。まだ8歳です」
「キャシディは喋れないの?」
「父親が路上で撃ち殺さるのを目の前で見てしまって、以来、喋れなくなってしまったそうなんです。巡回で寄ってくれたノーランから聞きました。最近の話です」
 それを聞いて、近いうちに店に、花とキャンドルを置こう、とアガサは思いついた。
「あの子、遠慮しているみたいだったわ」
「お金が十分に払えないことを気にしているみたいです」
「次は上手く口実をつけて、彼女にもっとたくさん持たせてあげてくれない?」
 ローガンがニコリとした。
「わかりました」
「それから何かあれば、シャロームプロジェクトでは医療支援もしているから」
「はい、注意して見ておきます」

 それからアガサは店内をざっと見て回って、不足している商品がないかどうかを確認した。
 在庫チェック用のカウンターからローガンが思い出したように言った。
「そういえば、最近、黒のキャデラックがよく店の前に止まるんです。見張っているみたいな感じで。一度、後部座席からスーツ姿の男性が下りてきて、ミネラルウォーターを買ったんですが、驚いたことに会計ボックスに100ドル紙幣を入れて行ったんです」
 アガサには心当たりがなかったが、もしかしたらチャリティーに関心を持つどこかの金持ちだろうか。
「この店のことに興味があるみたいで、オーナーのことを聞かれました。それで、あなたのことを話したんですけど……」
「構わないわ。シャロームプロジェクトのパンフレットは渡した?」
「渡しました。すごく、興味をもっているようでした。【あなたに】」

 ローガンは少し心配そうだったが、アガサはあまり気にしなかった。
 GBYのような形態で営業している店は少ないから、きっとどこかのお金持ちが興味を示したのだ。資金繰りには困っていなかったが、一人でも多くの心がシャロームプロジェクトに向いてくれるのは有難かった。本当に関心があるなら、そのうち向こうから接触してくるだろう。

 ローガンに後のことを任せて、アガサは古城への帰途についた。





 スキッド・ロウから5番通りを北西に4分ほど行けば街の景色は一変し、高層の商業施設やオフィスビルが集まるビジネス街が広がる。
 ドラコは摩天楼の一角から、近くのビルのルーフトップバーで開催されているウエディングパーティーを眺めていた。
 街中に見せつけるような盛大な式だ。

 ドラコも、アガサのためにそんな式がしたかった。

 アガサは、結婚式はシンプルに家族や親しい友人だけを招いて教会で厳かにやりたいと言った。

 アガサとドラコのウエディングパーティーは、教会の前の小さな広場で地域の人々にお祝いのケーキと軽食を振舞うだけの、小規模なチャリティーイベントとして計画されている。それが彼女の望みなら、別にドラコはそれでも構わなかったが、しかし。
 本当は二人が夫婦になったことを世界中に知らしめるような、とびきり豪華で盛大な式を行うことを、ドラコはどこかで期待していたのだ。

 眼下ののウエディングパーティーの主役となっている花嫁は、背中が広く開いた、肌の露出の多いウエディングドレスを着ていた。上半身が総レースで、幾重にも重ねられて膨らんだスカートの裾を長く引きずった、派手でセクシーなドレスだ。
 アガサなら、絶対に選ばなさそうなドレスだな、と、ドラコは思った。

 二人で専門のブティックに行ったときにアガサがオーダーしたのは、もっとシンプルでクラシカルなドレスだった。
 立て襟の長袖で、襟と肩の部分に少しレースがあしらわれているが、それ以外は体のラインにそった滑らかなAラインのシルクで、ドレスの裾はかすかに床に届く程度の長さだ。
 そんな地味なドレスでいいのかよ、と、ドラコは思ったが、出来上がったそのドレスを試着したアガサを見たときには、言葉を失った。――彼女はとても綺麗だった。
 アガサの選択には良識があって慎ましく、誠実な内面が表れていた。
 ドラコは余計な文句を言うのをやめて、アガサに合わせたクラシカルな黒のタキシードを仕立ててもらうことにした。
 黒のアスコットタイにシルバーのタイリングをつけると、世界一素敵な花婿になると、アガサは褒めてくれた。杉の葉を彫刻したシルバーのタイリングは、ドラコが贈った婚約指輪になぞらえて、今度はアガサがドラコにプレゼントしてくれた物だ。

 杉の葉には、『あなたのために生きる』という意味がある。
 それをアガサから贈られたことが、ドラコは嬉しかった。

 傾きかけた太陽の光を受けて、ルーフトップバーの新郎新婦はシャンパンを手に踊っている。とても楽しそうだ。
 ドラコとアガサの結婚式は、もっとシンプルで、厳かに、ほとんど誰の目にもとまらずに執り行われるだろう。
 それでも、ドラコはこの上なく幸せで、明日が待ち遠しい。

 全能の神の前で、愛を誓う。
 なんと突拍子もなく、恐れ多いことだろうか、アガサがドラコと共にそれをしてくれるとは。

 その時、オフィスのドアが強くノックされて、ドラコの思考は遮られた。
「ボス、たった今ラットから連絡がありました。メキシコからギャングのフロレンシアが戻ってきていると。明日、ロスで大きな麻薬取引があるようです」
「警察は何をやっているんだ?」
 ドラコは不機嫌に呟いて、オフィスに入って来た部下を振り返った。
「潰せ、この町にドラッグは入れさせない。マーモット、お前に任せるよ。フォックスと一緒に、奴らと話をするんだ。明日は結婚式だから、俺は動けないからな」
「でも、奴らと話すならボスが顔を出さないと……」
「ダメだ、俺は動けない。いざとなったら、取引の場所を警察に通報しろ。この際、手段は問わないさ」
「それが、今回はその警察の中に、手引きしている者がいるようで」
 役立たずどもめ、と、ドラコは内心で独り言ちる。

「だったらまるごと潰せ」
 ドラコはズボンのポケットから手を出して腕時計に視線を落とした。時計の針は間もなく16時を指そうとしている。
「今夜は妻の両親とディナーの約束があるんだ。そろそろ子どもたちを連れて帰る。わかってると思うが、今夜は連絡してくるなよ」
 と、ドラコはマーモットを睨んだ。実力はあるくせに、自分で判断しようとしない甘ったれの若造なのだ。きつく当たってやるくらいが丁度いい。

「フロレンシアは恐らく、ボスがいないと話し合いには応じないでしょう。向こうが撃ってきたらどうします?」
 間髪入れずにドラコは答えた。
「撃ち返せ。弾はたくさん持ってるだろ」
「はあ……」
 帰り際、マーモットが保険を掛ける様にドラコに言ってきた。
「携帯はいつでも繋がるようにしておいてくださいね、ボス」
 本当に甘ったれだな、とドラコは思う。ドラコがロサンゼルス支部に来てからこれでも大分マシになった方だが、ロスの支部員は全体的に甘ったれなアホが多い。

「わかったよ、マーモット。ただし、結婚式を邪魔したら、俺がお前を撃ってやるから覚えておけ。また砂漠をジグザグに走らされるのは嫌だろう」
 マーモットは猫のように毛を逆立てて縮みあがった。
 せいぜい本気にしていればいい。
 もちろん、ドラコは本気なのだから。





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