恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 1−5


 パサデナにあるチェイス銀行はまだ開店前だったが、アガサが到着すると、支配人のアレハンドロ・ガレゴスが専用扉を開けて迎え入れてくれた。彼はスペイン系アメリカ人で、キリスト教徒だ。
 シャロームプロジェクトの活動が無名の頃から、アレハンドロはアガサの働きと熱意に賛同して、シャロームプロジェクトのための口座開設や基金設立のために協力してくれた恩人でもある。
 
「おはよう、アレハンドロ支店長。ご家族はお元気?」
 両手にジュラルミンケースを持つアガサを、行員スタッフが手伝って運んでくれた。

「お陰様で。妻と子どもたちが最近、子犬を買いましてね。私が家庭内ヒエラルキーの最下位に位置づけられましたよ」
「あなたが? そんなに上等なネクタイをしているのに。ご冗談でしょう」
 皮肉めいた口調で家族の話をしながらも、アレハンドロの目は幸せそうに輝いていた。彼は家族を深く愛しているのだ。

 個室に案内され、はじめにモスクワへの送金手続きをすませた。あらかじめ電話で要件を伝えてあったので、手続きはものの数分で完了した。
 続いてシャロームプロジェクトの顧問弁護士のハーヴィーが係員に案内されて入って来た。
「おはよう、ハーヴィー。今日も素敵なスーツね」
「それはどうも。見ての通り、弁護士は見た目で判断されるから、今日もビシっと決めているのさ。ところで、契約書を読ませてもらったよ」

 そう言いながら、ハーヴィーは会議用机のアガサの隣に座り、スーツジャケットの前のボタンを外した。

 アガサは『God Bless You』の店舗を1年間賃貸契約しようとしていた。
 すでに店を借りて改装作業もすませ、オープンしたのは数週間前のことだが、1年分の契約金を支払う前に、念のため弁護士に契約書を確認してもらったのだ。

「契約の内容には問題がないが、一つ言わせてもらいたい」
「なんなの?」
「もっと早く俺を同席させてくれれば、さらに安い金額で賃貸契約を結べた可能性があったよ」
「そのかわり高い追加料金をとるんでしょ?」
「まあ、そうだね」
 ダークブロンドの髪をオールバックに撫でつけたハーヴィーは、ふてぶてしくニヤリと笑った。

 アガサは30分で100ドルという高額な弁護士の相談料を記憶していたので、首を振った。
 顧問弁護契約のために、すでにハーヴィーには毎月1000ドルを支払っている。
 電話での相談や契約書のチェックは顧問契約料の中に含まれているが、立ち合いを求めると追加料金が発生するのだ。

 ハーヴィーはドラコが紹介してくれた弁護士だった。
 彼は大手法律事務所の敏腕弁護士で、有能らしいのだが、アガサは秘かに、実はハーヴィーもアルテミッズファミリーの一味なんじゃないか、と、勘ぐっている。
 ハーヴィーの着ているスーツはいつも上等すぎるし、太くて分厚いネクタイを巻いているのが悪っぽく見えるのだ。一見すると温和そうな外見をしているが、抜け目のない鋭い眼光も、どことなくドラコたちのもつ雰囲気に似ている。身長が高くて、デスクワークをしている弁護士のわりには妙に体つきがガッシリしているし。

 まあ、ただ稼いでいる優秀な健康オタクの弁護士なのかもしれないが……。

 ほどなくして、時間通りに3人の代表が次々に個室に案内されてきた。はじめに、GBYの店舗を賃貸してくれる不動産会社が、次に、店舗の改装を手がけてくれたリフォーム業者、そして最後に、GBYの商品を在庫管理しておく倉庫のオーナーが入ってきて、ハーヴィーの立ち合いのもと、正式な契約書へのサインと、現金での1年分の支払いを行なった。

 ハーヴィーはたまに代表たちに質問をし、間接的に釘をさすようなことを言ったが、手続きは概ね順調に進んで、1時間ほどで完了した。
「不動産がからむ契約ではトラブルが発生することが多いんだ。中には真っ当じゃない商売をしている者もいるから、これからも用心したほうがいい」
「有難う。次は事前に連絡するわ」
「そうじゃなくても、いつでも連絡してくれ。君の旦那になる男に、しっかり君の面倒を見るように言われているんだ。ところで明日、結婚式なんだってね」
 銀行の外に出ながら、ハーヴィーはわざとらしく首を傾げた。「おかしいな、招待されてないんだけど」、と。

 パーキングスペースのザ・ビートルに向かいながら、アガサはハーヴィーにわびた。
「家族だけでシンプルにする、小さな式なの」
「なるほど、弁護士は離婚するときまで用なしってわけか」
「ハーヴィー……」
「冗談だよ。おめでとう」
 アガサをビートルまで送り届けると、ハーヴィーは笑いながらくるりと背を向けて、近づいて来た黒のベントレーの後部座席に乗り込んだ。
 今朝、ドラコが子どもたちを乗せて行ったのと同じような車だ。
 ここ最近、マフィアと関わり合っているせいで、アガサにはどうしても高級車が悪者たちの車に見えてしまう。

 アガサは走り去るベントレーを横目に見ながら、キャラメル色のずんぐりむっくりしたザ・ビートルに乗り込んだ。
 どんなに大金を右から左に動かそうとも、アガサは庶民の心を失わない。
 慎重な手つきでシフトレバーがニュートラルにあることを確認して、クラッチとブレーキを踏んでエンジンをかけた。道中の運転の安全をお守りください、と神に短い祈りを捧げてから、アガサは制限速度を守って大学に向けて走り出した。

 途中で、パサデナのイーストヴィラストリートと、ノースクレイグアヴェニューの角にある聖ダヴァール教会に立ち寄った。
 そこはアガサがドラコと一緒に毎週日曜日に通っている教会で、明日の結婚式が執り行われる場所でもある。
 アガサは閑静な住宅街に車を路駐すると、両開きの正面扉から入って、礼拝堂の後ろの献金箱に現金を入れて、すぐに出てきた。
 祈祷のための礼拝堂は24時間開放されているが、月曜の午前中は人が少なく、がらんとしていることが多いのだ。誰にも会わなくて好都合だった。多額の献金を誰がしたのか知られる心配も無い。

 ダヴァール教会のリック牧師と妻のマーガレット牧師夫人の間には、5人の子どもがいるので、ダヴァール教会にはまだ幼いモーレックやマリオを連れていても通いやすい雰囲気がある。ダヴァール教会にはいつも、家族の温かい愛が溢れている。

 礼拝は英語と日本語で行なわれるから、教会員の中にはロスに在住している日本人も多い。そこは日系のアガサにとっても親しみやすい教会だった。
 何より、リック牧師をはじめ、ダヴァール教会の信徒たちはシャロームプロジェクトの活動を応援し、いつも手助けしてくれる大切な神の家族だ。

 そういえば、アガサの両親が結婚式に来るのでドラコも最近、日本語を覚えようとしてくれている。
 だが、今のところドラコの日本語はアガサのイタリア語と同じくらい酷い。ドラコ本人も、今まで習得した言語の中で日本語が一番難しいと言っているくらいだ。

 明日、この場所で彼と結婚する。
 アガサは期待に胸を膨らませて、教会を後にした。





 午前中の用事をすませてカリフォルニア工科大学に到着したのは昼近くだった。会議は午後1時から始まる。
 専用のパーキングスペースに車を停めて、アガサは真っすぐにカフェテリアに向かった。

 食堂はすでに混み始めていたが、アガサは空いているテーブルを見つけて陣取った。
 席について食事を始めるとすぐに、聞き慣れた声が話しかけてきた。
「スーツを着ているなんて、珍しいですね」
 同じテーブルの向かいの席にハンバーガーの載ったトレーを置いて、グレッグが座った。彼は昨年までアガサと一緒にプラスチックのリサイクルの研究をやっていた大学院生だ。緑色だった髪が今は人工的な赤色にカラーチェンジしているが、相変わらずソフトモヒカンのように頭の中央で髪を逆立てた、パンクボーイ風の装いをしている。

「その頭はどうしちゃったの? トロール人形みたい。髪を触ったら願い事が叶うの?」
 アガサが手を伸ばすと、グレッグはその手をはたき落とした。
「やめてくださいよ。トロール人形? ……あなた、何歳ですかアガサ」
「失礼ね。研究は順調なんでしょうね」
「おかげさまで、元気にやってますよ。研究の方は、……まあ、進んではいます」
 プラスチックを有機分解して石油を精製する、というアガサの研究は、昨年、大手科学雑誌のネイチャーに取り上げられて一躍世間の注目を集めるところになったが、大学がアガサから研究を取り上げて、企業に売り渡してしまったのだ。そのせいでアガサは研究から遠ざけられて、アドバイザーの位置に追いやられた。
 アガサが直談判したので、大学院生のグレッグは研究チームに残され、そのテーマで卒論を書くことになっているはずだが、何かかんばしくない表情をしている。

「卒論は進んでいるんでしょ?」
「ええ、進んではいますよ。けど、企業は利益重視で、なんていうか、あなたと一緒に仕事をしていた時の方が楽しかったですよ、アガサ」

 プラスチックを分解する微生物は特許を取得し、プラスチックのリサイクルは人工的な石油生産の巨大ビジネスに発展しようとしていた。ただし、まだ効率が悪い。アガサは研究チームのアドバイザーとしてその件について意見を求められ、すでに3つの発展的手法を提案している。グレッグもそれを知っていたので、どれも面白いアイディアだからすぐに試す価値があると思ったが、企業側はコストや効率を優先に考えるあまり、手をこまねいている状態なのだ。そこには、純粋な研究者の好奇心や探求心がない。

 アガサなら、小規模でも足掛かりとなる判断データを得るために、すぐにいろいろ試しただろう。

「のろまなんですよ、奴らは」
 と、グレッグはぼやいた。
 そうは言っても、大企業が巨額の資金を投じて進めているプロジェクトなので、プラスチックのリサイクル事業は何らかの形で近々、社会に貢献するだろうが。グレッグは、研究の進展の遅さに退屈していた。

「それで、今日はなんでそんな恰好をしているんですか、アガサ」
「新しい研究のプロジェクト会議なのよ。学部長はまだ、私を地球温暖化とリサイクルの研究分野に縛り付けておきたいみたいなんだけど、プラスチック分解の研究アドバイザーとしての仕事はひと段落して、新しい研究を始めてみてもいいんじゃないかって言ってくれてるの」
「次は何を研究するんですか?」
「地球温暖化ではなく、地球砂漠化だという説を立証し、近年の異常気象の解決のために生物工学的にアプローチしてみるつもり」
「それは随分、大がかりなプロジェクトですね。具体的にはどんなふうに?」
「実は、サブデータはもうとってあるの。メタンガスを発生する微生物の挙動からヒントを得たんだけど、熱を生み出すものは、熱を奪うこともあり、その逆もあるの」
「まさか、それを地球規模で」
「バタフライエフェクトって聞いたことがあるでしょう、グレッグ。小さな蝶の羽ばたきが、めぐりめぐって竜巻を起こすこともあるのよ。私が集めたサブデータによると、原理的に可能だと考えられる。これを本格的な研究で実証できれば、世界規模で異常気象の解決に乗り出すことができるわ」
 アガサが楽しそうに語る、その大きな夢みたいな研究の話に、グレッグは鳥肌が立った。
 予算も人員も限られていた地味なリサイクル分野の研究で、彼女は諦めずに頑張って、今や大企業がこぞって欲しがるような素晴らしい可能性――プラスチックを石油に変えるという可能性を切り拓いたのだ。

 そんな彼女なら、きっと地球温暖化の謎も解決して、異常気象を克服する手段を見出すだろうという気がした。

「あ、そろそろ時間。行かなくちゃ」
「応援しています。頑張って、アガサ」
「ありがとう、グレッグ。もし困ったことがあったら、いつでも私の所に来るのよ。あなたが無事に博士課程を修了して卒業することが、私のミッションの一つでもあるんですからね」
 そうは言ったが、実際、グレッグは見た目に反して優秀な学生だったので、アガサはあまり心配していなかった。





 カリフォルニア工科大学の生物工学部学部長のゲーブルハウザー教授は、アガサの研究コンセプトを最初のうち半信半疑で聞いていたが、古城のバイオプラント槽の中にいる微生物たちから収拾したサブデータを示しながらアガサが熱心に研究の可能性について説明するのを聞いて、ついに、プロジェクトを承認して予算をあててくれた。

 ただし、予算は1年単位で最小限とし、来年以降の研究予算は最初の1年の成果を見てから決めると言われた。

 アガサはせめて優秀なテクニカルスタッフを3人つけて欲しいと頼んだが、先行している他の研究で手いっぱいなので人手が足りず、大学院1年目の学生がたった1名だけ、アガサの研究のためにあてがわれることになった。
 今回は、タイから留学してきている女子学生だ。
 真面目そうではあったが、どことなく頼りない雰囲気の、おっとりした学生だった。

 今週中にアガサが研究計画と指示書を作り、来週の月曜日から二人でラボを立ち上げることにしてその日は別れた。


 どっと疲れて、アガサはザ・ビートルに乗り込んだ。

 またしても、である。

 予算は最小限、アシスタントは素人一人。それでも研究への情熱は失っていない。
 
 アガサは車の中で神に感謝の祈りを捧げ、『God Bless You』に向かった。





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