恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2ndシーズン 1−1


 アガサは必死に走って逃げていた。

 中世建築の建物が並ぶ、細く入り組んだ石畳の道を、アガサは誰かに追われながら必死に駆け抜けている。
 ああ、これは最近よくみる夢だな、と、遠くの方で彼女の意識は思った。

 いつもなら追いつかれる前に目が覚めるのだが、その日は追いかけてきた影に手首を掴まれて体を押さえつけられた。
 恐怖に胸がすくみ、相手の顔を見上げた瞬間、唇の温かさが妙にリアルに伝わり、キスをされたのだと気づく。だがそれはドラコのものではない。
 
 アガサはハットして目を覚ました。

 見慣れた天蓋が視界に入り、ベッドの感触と窓から射し込む朝日にほっとする。恐怖と驚きから、アガサの心臓はまだドキドキしていた。
 あれは、ルイだった。
 ニューメキシコ州のサンタフェに住んでいた中学時代に、はじめてアガサが付き合ったイタリア人の彼氏だ。

 結婚式を明日に控えた今、何故こんな夢を見たのか。
 アガサはベッドから起き出して、自室のバスルームで汗に湿ったパジャマを脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。

 ルイと知り合ったのはアガサが中学2年生のときで、当時住んでいたサンタフェの教会で初めて会ったのだった。お互いにクリスチャンだったから、二人の交際は清く正しいものだった。手を繋いで図書館に行き、ほっぺにキスをする関係が中学を卒業するまで2年間続いた。中学を卒業するとアガサは日本に、ルイはイタリアに引っ越したので、それきりだった。その後、彼がどうしているのかは知らなかったし、向こうもとっくにアガサのことを忘れているはずだ。連絡先も、今どこにいるのかさえ分からない。
 もう10年以上も前のことなのに、なぜ今頃、ルイが夢に出てきたのだろう。

 時刻はまだ朝の5時だったが、アガサは着替えてキッチンに下りて行った。
 今朝のように追いかけられる夢を最近よくみるのは、結婚式の準備に追われているせいだと思っていた。多分、マリッジブルーだ。でも、突然夢の中にルイがあらわれて、キスをするなんて、全く意味が分からなくて、寝覚めが悪い。

 明日はいよいよドラコとの結婚式だというのに。

 アガサはキッチンのコルクボードにかかっているカレンダーのマル印を見た。両親と妹たちは、今日の夕方にロスに到着することになっている。
 今夜は家族そろって古城でディナーをする約束をしていて、ドラコと子どもたちはそこでアガサの両親と初顔合わせをるすことになるので、アガサも少しだけ緊張していた。母はアガサ以上にお節介だし、父はとても気難し屋だから、きっとドラコをドン引きさせるに違いない。妹たちが上手く両親をフォローしてくれることを願うばかりだ。
 家族にはドラコのことを電気の修理屋さんと伝えているし、子どもたちの出生については伏せて、養子縁組をしたことだけを伝えていた。つまり、アガサがマフィアと関わり合いになっていることや、子どもたちがマフィアの血を継いでいて命を狙われかねない存在であることは、家族には伝えていない。
 ドラコとも話し合って、余計な心配をさせないためにそれがいいだろう、ということになったのだ。

 薬缶をコンロにかけ、ティーポットにダージリンの茶葉を入れてお湯が沸くのを待った。

 窓から見える庭の草花が、むくむくと新緑をもたげている。植物たちの生命力を最も強く感じられる春は、アガサの好きな季節の一つだ。
 紅茶を入れる片手間に、アガサはコーヒーメーカーのタイマーを7時にセットした。ドラコはだいたい毎朝コーヒーを飲むから。

「おはよう、花嫁さん」
 その日は早く起き出してきたドラコが、ティーポッドにお湯を注いでいるアガサを後ろから優しく抱きしめて、頬にキスをしてきた。
「おはよう、花婿さん。今朝は早いのね」
 茶葉がポットの中でくるくると踊り、苦くも甘い香りがふわりと舞い上がった。
「今日は君の家族がくるから、少し早く仕事をすませるつもりなんだ。いい匂いだな、俺にもちょうだい」

 コーヒー派のドラコは、近頃たまにアガサと一緒に紅茶を飲むようになっていた。
 アガサは戸棚からソーサ―とティーカップをもう1セット取り出した。7時にセットしたコーヒーは後でボトルに入れればいい。

「よく眠れた?」
 ミルクたっぷりのダージリンティーを二人分注いで、その一つをドラコに差し出す。
「眠れたよ。そっちは?」
 アガサは一瞬、ルイの夢を見たことを話すべきかどうか迷ったが、言わないことにした。
「眠れてはいるけど、ちょっと緊張してるわ」
「明日の結婚式に? それとも、俺たちの新婚初夜に?」
 と、ドラコがからかうように言った。
「今夜のディナーによ。初めてうちの両親に会うでしょ、あなたは緊張しない?」
「全然」
 幸せそうに上機嫌でダージリンを味わっているドラコを見て、アガサは彼の図太い神経を羨ましく思った。

 思えば、ロスにある老舗の高級宝石店で二人で結婚指輪を選ぶときにも、専門のブティックに結婚式のドレスとタキシードを選びに行くときも、ドラコはいつも堂々としていて、高価な金額にも店員の態度にも一切、物怖じしなかった。カッコつけることも威張ることもなく、謙虚な好奇心をもってドラコは店員によく質問した。それに対してアガサが希望を言ったり、いくつかある選択肢の中から選んだりすることを、ドラコは楽しんでいるようでもあった。ドラコの方でも自分の好みや希望をはっきりと口にしたので、二人は変に迷うこともなく、短時間で、最善だと思える決断をすることができた。
 結婚式の準備はもっと大変なものかと思っていたアガサだが、噂に聞いていたより酷いものではなかった。
 もちろん忙しくて大変ではあったが、ドラコと一緒だと刺激的で楽しかった。

 ミルクたっぷりのダージリンティーを飲みながら、束の間の静かなひとときを二人で過ごしていると、ベビーモニターからモーレックの呼ぶ声がした。
 もうじき2歳になるモーレックは、ベビーモニターの存在に気づいて、今では朝起きるとベビーモニターからアガサに挨拶をしてくる。
「ちょっと行ってくるわね。朝食は7時でいい?」
「俺が作るよ。卵とベーコンでいい?」
「ありがとう。モーレックとマリオの分はスクランブルにしてね」
 チュッと軽いキスをして、アガサは二階の子ども部屋に向かった。





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