恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-8


 アガサはアーベイと、子どもたちとともに、ドラコの病室に入った。
 廊下からはまだ好機の眼差しを向けられるが、少なくとも会話だけは二人きりでできるようになると、アーベイは言った。
「アガサ、さっきエマが言ったことは気にするな」
「ドラコがエマと結婚すると言って、彼女と肉体関係を持ったこと? 気にするなというのは無理よ……」
「あれは、悪魔の取引だった。アガサと子どもたちを無事に見つけるために、ドラコはドンと取引をしたんだ」
「理由はどうあれ、彼はそんな取引をするべきではなかったわ。そんなことして欲しくなかった……。今すぐ叩き起こして、この件について徹底的に追求し、彼の回答如何によっては、聖なる鉄拳で永遠の眠りにつかせてやりたい気分よ」

 そう言って、アガサは抱っこ紐をほどいてマリオをアーベイにあずけ、肩から下げていたバッグの中から聖書を取り出した。
 エマが余計なことを言わなければ、と、アーベイはにがにがしげに、アガサと、ベッドで無防備に横たわるドラコとを交互に見つめた。例え奇跡的に目覚めたとしても、ドラコに待ち受けているのは愛する女性からの責め苦だろう。まさかその聖書で、今からドラコを叩くんじゃないだろうな、とアーベイは少し心配になる。
 このまま目を覚まさずに衰弱して死んだほうが、あるいは……。

 そんなアーベイの心配をよそに、アガサは神妙にドラコの眠るベッドの傍らに立ち、聖書のゼカリヤ書10章を朗読した。
――後の雨の時に、主に雨を求めよ。
 主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、
 野の草をすべての人に下さる――

 そうしてしばらくの間、アガサは神の救いと、祝福の記載を読み上げ続けた。
――「彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。主の御告げ」

 最後の一節を読み上げ終えると、アガサはベッドの傍らに跪いて手を組み、ドラコのために声に出して祈りを唱え始めた。
 それはどこまでも静かに、優しい声だった。

 子守歌のように聞こえたのか、マリオはアーベイの腕の中で、モーレックはカウチに座るアーベイの膝に頭を預けて、二人とも眠ってしまった。
 アーベイは起きていて、アガサの祈りに耳を傾けながら、心がやすらぎ、優しい気持ちになるのを感じながら目を閉じていた。
 
 目を閉じるとアーベイの脳裏に浮かぶのは、大洋で鋭い波しぶきが上がり、暴風が吹きすさぶ、暗く激しい嵐の光景だ。それは彼らが生きている世界そのもののように思えた。
 今その中を、1匹の光る蝶がひらひらと飛んでいくのが見えた。
 とても儚げで、弱々しい存在に思えるその蝶は、恐ろしい嵐の中を、風に煽られながらも、波に撃ち落されそうになりながらも、ひらひらと懸命に、空の彼方の光に向かって飛んでいく。
 アーベイは目を開いてアガサを見つめた。
 
 アガサが祈りを終えて立ち上がったのだ。
 
 アーベイはその時、病室の中の空気が、何か変わった気がした。
 訳もわからず鳥肌がたつのを感じ、アーベイがそのことについて何か言おうとしたとき、マリオが泣き出し、モーレックが目を覚まして、「ままあ、あむあむ」、と言った。

「もうこんな時間だわ。子どもたちにご飯を食べさせないと」
「送っていこうか?」
「大丈夫。近くだし、タクシーを拾うから」
 二人の子どもが同時にグズりだすと、会話もままならない。
 アガサは素早く抱っこ紐を装着すると、マリオとモーレックを抱き上げて、去り際に、明日も見舞いに来ることをアーベイに伝えて、足早に病室から出て行った。

 入れ違いに、廊下側から部屋の中を覗き込んだ看護師が何かにハッとして、どこかに走っていった。
 すぐに、その看護師はガインカルロ医師を連れて走って戻って来た。

「驚いたな、……何をしたんだ?」
 ガインカルロ医師が驚き怪しみ、鋭くアーベイを見つめた。
「……何が? いや、俺は何も」
 医師が何に驚いているのか分からず、アーベイは眉をひそめた。
 すると、ガインカルロ医師はモニターの一つを指さした。
「アルファ―波に反応がある」
「いいことなのか?」
「そうです。眠り続けていた脳が覚醒し、彼は今ここで起きている何かに安心し、心地よいと感じている」
 アーベイはようやく見出した希望を何としても手繰り寄せようとするかのように、素早くドラコのベッドに歩み寄った。
「ドラコは、助かるのか……?」
「まだ助かると断定はできませんが、――これはとても良い兆しです」
 バイタルサインを示す別のモニターでは、心拍と呼吸のレベルがほんのわずかに上昇していた。
「いいぞ、いい兆しだ……」
 黒縁の分厚い眼鏡の奥で、ガインカルロ医師の瞳は輝いた。

 アガサを呼び戻すべきだろうか、あるいは、白雄鶏の邸に連絡をするべきか。
 アーベイは少し悩んで、結局、誰にも連絡をしないことにした。希望をもちすぎて、後でまた失望するのは悲しいと思ったからだ。
 今夜は注意して様子を見ようと、ガインカルロ医師も言った。





 冷たい暗闇の底で、ドラコは自らの息を数えながら、意識が終わるのを待っていた。
 何も見えないし、感じないから、彼にはそれしかすることがなかったのだ。吸って、吐いて、永遠に、繰り返される、そんなふうに、――多分、まだ息をしているんだと思う。
 終わりの見えない暗闇に退屈して、嫌気がさして、そうだ手放してしまおう、数えるのを止めてしまおう、と、ドラコは思った。
 そのとき、1匹の蝶がドラコの視界を横切った。
 光を見たのは久しぶりだ。
――アガサ

 遠い意識の彼方で、ドラコ自身の声がした。
 視界が開けて、目から頬に、温かいものが伝い落ちるのを感じた。

「アガサ……」

 白い天上が見え、一定のリズムを刻む静かな機械音が聞こえ、消毒薬の臭いがした。
 ドラコは自分が病院にいるのだとわかった。――死ねなかったのか。
 彼女のいない孤独な世界に取り残された感覚に、ドラコはまた絶望した。――死にたかった。
 ドラコはまた目を閉じて、暗闇の底に戻ろうとした。

「……ドラコ!」
 不意に名前を呼ばれて目を開くと、すぐ目の前にアーベイの顔があった。
 なぜ、そんな皺くちゃな顔で泣きながら見下ろしてくるのか、ドラコは不思議に思う。だが、思考がうまく働かない。やけにボーっとする。

「死なせてくれ」
 朦朧とする意識の中で、ドラコは呟いた。
「ダメだ、生きるんだ」
 アーベイが強い口調で言った。
 それに対し、ドラコは弱々しくまた呟く。
「最悪な日々を終わらせたいんだ」
「たしかに最悪な日はあるよ。だからって、人生のすべてが最悪なわけじゃないだろう」
 アーベイがドラコの顔を両手で包み込み、額を押し当てた。無骨だが、温かい手だった。
「アガサは戻って来たよ。子どもたちと一緒にな。お前だけがあの世に行ってどうするんだ、ドラコ」
「そんな嘘は、」
「嘘じゃない。アガサは今日、お前のベッドの傍らで聖書を読み、お前のために神に祈っていた。生きているんだよ」
「……どこに、」
 ドラコの目が見開かれ、上半身を持ち上げて部屋の中を見回そうとした。

「動くな! 手術は成功したが、傷は深い。絶対安静だと医者が言っているんだ」
「彼女に会いたいよ、アーベイ」
 子どものように泣きすがるドラコを、アーベイは必死に押さえつけた。
「アガサは明日、また見舞いに来ると言っていた。だから、今は動くな。すぐに医者を呼ぶから……」

 アーベイが呼び出しボタンを押すと、当直のガインカルロ医師が飛んできた。

「なんてことだ、まさか本当に目覚めるとは!」
 と、ガインカルロ医師は医者にあるまじき悲鳴を漏らすと、慎重に、ドラコの意識レベルを確認した。
 そして、ドラコの意識がまだ朦朧としているのは痛み止めに点滴投与しているモルヒネのせいだと判断した。
 モルヒネを切れば全身に激痛が走ると説明したが、頭をハッキリとさせたいというドラコの希望を聞いて、ガインカルロ医師はすぐにモルヒネを停止した。
 まだ油断はできない。今はとにかく、患者のしたいようにさせ、生きる希望を持たせることが先決だった。

「彼女は? 彼の婚約者は?」
「アガサだ。明日、また見舞に来るはずだ」
「それは良かった。是非、そうしてもらってください」

 ガインカルロ医師は希望に満ちた笑みを浮かべた。





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