恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-7
アーベイとアガサがサヴォナの救急病院に向かっている頃、ジョーイとエマがドラコの病室に見舞いに来ていた。
エマは毎日やってきて泣き、ドラコの手を握って話しかけ、全く反応を示さずに眠り続けるドラコにキスをした。
あんなに美人なガールフレンドがいるのに、脳波もバイタルも全く変化しないとは、彼の魂はもうここにはないのかもしれないな、と、ガインカルロ医師はウィンドウごしに悲し気に見守った。
患者は肺と肝臓を撃たれ、腹部にはホロウポイント弾を喰らっていたので、多くの臓器が傷ついていた。
出血性ショックで何度も心臓が止まったが、ガインカルロ医師の医療チームは優秀だったので、手術は成功した。術後の感染症も抑えて、患者は肉体的には経過良好だった。問題は、脳への血流が戻らないことだった。あの患者には、思考や判断、精神活動を司る前頭前野への血流がほとんど認められないのだ。
だから、あのガールフレンドがどんなに触れても温もりは伝わらず、話しかけても声は届かない。
あの患者は孤独な暗闇の中にいて、そこから救い出すのはもはや医療の領域ではない、とガインカルロ医師は感じていた。
ジョーイは少しも回復の兆しを見せないドラコと、それにすがって泣き続けるエマを眺めては、現実を受け止められずにいた。
アガサという女が白雄鶏の邸を去り、ノストラ―ドに殺されたというシナリオはよくできていた。口には出さないまでも、他の幹部連もジョーイと同じように、そうなるようにドンが裏で手を回したと想像したはずだ。
会合でアリから彼女たちの死を知らされたとき、これで良かったんだ、とジョーイは思ったが、果たして。そんな風に思ったのは、ドラコが今までに誰にも見せたことのないような表情をあの女にはするから、嫉妬したからじゃないのか。胸糞が悪い。
今は、本当にこれで良かったのだろうかという気がしてならない。
俺は絶対に恋なんかしないぞ、と、ジョーイは思った。
ドラコは完璧なボスだったのに、恋をしたせいで破滅に向かったのだ。あんな女と出会わなければ良かったのに。
「エマ、そろそろ戻ろう」
そう言って、ジョーイは病室のカウチから立ち上がった。
人工呼吸器が取り外された後、ドラコは集中治療室から別の個室に移されていた。術後ケア病棟で、いつ急変してもおかしくない患者がガラス張りの個室に隔離されて、24時間モニターされているうちの一つだ。ガラス張りなのでプライバシーはなく、医療スタッフたちがいつでも、廊下側から患者の様子とバイタルをチェックすることができる。
エマはその日も、人目をはばからずにドラコの唇にキスをすると、ジョーイと一緒に病室を出た。
「今晩の見張り役は誰だっけ?」
「アーベイだ」
ジョーイがそう答えたとき、廊下の先からちょうどアーベイが歩いてくるのが見えた。一人ではない。腕に小さな幼児を抱え、その隣に……
ジョーイは驚いて息を呑んだ。
隣ではエマが、「アガサ……」、と声を漏らす。
「ラザロのように蘇ったのか……?」
ジョーイは本気でそう思ったのだった。
「バカね、そんなことあるわけない。【生きていた】のよ」
と、エマが肘でジョーイを小突いた。その声色には嬉しいというよりも、忌々しい、という感情があらわれていた。
アーベイがエマとジョーイに簡潔にこれまでの経緯を説明し、「ドンも承知のことだから」、と最後に付け加えた。
フェデリコが承知していることなら、と、ジョーイは納得したが、エマはドラコの病室の前に立ちはだかって、イヤな顔をした。
「何をしに来たの?」
「見ての通り、お見舞いに来たのよ。ドラコの調子はどうなの?」
アガサはガラスのウィンドウごしに見て、ドラコはただ眠っているだけなのかと思った。
「何も知らされていないのね」
冷ややかな口調でエマが言った。
「眠っているみたいね、また後にした方が良さそうね」
「ええ、そうしてちょうだい」
と、エマが必要以上に強い口調で言った。アガサが首をかしげる。どうしてエマがそんなに怒っているのかがわからなかったのだ。
「エマ、ドラコにアガサを会わせるのは、ドンが望んでいることなんだ」
アーベイがエマとアガサの間に割って入った。
しかしエマはさらに語気を荒らげて喚き散らした。
「どうして? 私は認めない。彼が死にかけていた時に、何日も行方をくらませていたくせに、今更出しゃばって出てこないで!」
エマの声は廊下中に響き渡ったので、騒ぎを聞きつけたガインカルロ医師が駆けつけてきた。
「どうされましたか? 何か問題でも?」
「この女を追い出して!」
と、エマが叫ぶ。
「ここは病棟なので、もう少し声を落としていただかないと……」
そう言いながら、ガインカルロ医師は抱っこ紐の中に赤ん坊を抱えたアジア系の女性に目を留めた。
「失礼ですが、あなたは?」
「彼の婚約者です」
アガサは自分よりもずっと背の大きい黒髪の医師に、左手の婚約指輪を見せた。
「なんと、これは気まずいな……」
ガインカルロ医師は困ったようにアガサと、エマを見比べた。
「こちらが婚約者だとすると、あなたは?」
と、ガインカルロ医師はエマに訊ねた。
「私が、彼と結婚するのよ」
と、エマは言った。
「でもあなたは、彼女のように婚約指輪をしていないようだ」
「でも、彼は私と結婚すると言って、つい数日前に私と寝たわ!」
「なんですって?」
アガサの表情が驚きと困惑に、強張った。
周囲の医療スタッフたちや、他の患者の見舞い客たちがチラチラとこちらを見ている。
「エマ、今それを言わなくてもいいだろうが……」
アーベイがエマを睨みつけた。だが、エマは一歩も引かない。
「いいえ、今だからこそ、はっきりさせておきたいわ。彼は私のものだって!」
「ドラコと話をさせて」
と、アガサは冷静に言った。
すると、エマは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「話をするなんて無理よ。彼は永遠に目覚めないんだから」
「どういうことですか?」
アガサはわけがわからず、医師を見上げた。
ガインカルロ医師はドラコの容態について、ゆっくりと、丁寧にアガサに説明してくれた。
その間にアーベイがジョーイに目で合図を送り、先輩幹部の意図を察したジョーイはエマを病院から連れ帰った。
エマが素直にそれに従ったのは、ドラコの状態がそこまで悪いことを初めて知ったアガサが、とても傷つき、悲しい顔をしたのを見て、満足したからだ。
ガインカルロ医師は全ての説明を終えると、励ますようにアガサの肩に手を置いた。
しかし彼女の黒い目を覗き込んだ時、他の者と違って、そこに絶望の色が浮かんでいないことにガインカルロ医師は気づいた。
彼女は泣くことも、恐れることもなかった。
むしろ、その瞳の奥に揺らぐことのない愛情を見て、ガインカルロ医師は驚いた。アガサは彼に礼を述べると、気丈にも笑顔をつくって見せてくれた。その瞬間、ここ何日も目の前でなすすべもなく衰弱していく患者に無力感を抱いていた彼自身が、どうしてか励まされ、心が軽くなるような気がした。
あの死にかけの患者の婚約者だというこの小柄なアジア女性は、一体何者なのだろうか。
ガインカルロ医師は純粋にアガサに興味を抱いた。
◇
次のページ 第7話8