恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-6


 フェデリコはろくに食事もとらずに書斎にこもり、一日中、暖炉の前の肘掛け椅子の中で丸くなって、回復の見込なく日に日に衰弱していくドラコを思っては、大きな虚無感と闘っていた。
 彼がこんなに落ち込むのは、愛する妻を病気で亡くして以来だった。

 ドラコとエマを結婚させたいというフェデリコの長年の夢は潰え、今となっては、ドラコが奇跡的に回復してくれるなら誰と結ばれようと構わなかった。

 アガサと子どもたちを始末するという非人道的な仕事を、フェデリコはよりによってレオナルドに頼んでしまったのだ。
 彼の邸の用心棒たちは、皆、忠実で素直だ。だから、フェデリコの言うことをなんでもやる。その点においてレオナルドは最も優れていた。
 ファミリーの幹部になる者は、忠実だが素直ではない。フェデリコが幹部として引き上げてきた者たちは皆、いざとなれば自分で判断ができ、ファミリーのためであれば、時にはフェデリコにさえ逆らうことのできる曲者たちだ。
 フェデリコは自分を全知全能の神とは思っていなかったから、幹部たちの独自の判断を時には容認してきたし、そうすることで、ファミリーは強く大きく育ってきた。

 あるいは、レオナルドではなく、他の幹部に命じていたのであれば、アガサと子どもたちはまだどこかで秘かに生かされていたかもしれない。
 フェデリコはそれをわかっていて、何でも言いなりになるレオナルドに命じたのだ。

 今、そのレオナルドが襟を正してフェデリコの書斎に入って来た。背後にアーベイとニコライ、そしてイデリコを伴って。

「今はどんな用事も聞かんぞ」
 と、フェデリコは不機嫌な猫のように毛を逆立てた。

 レオナルドはフェデリコの足元にきて跪くと、恭しく頭を垂れた。
「どうしても、お話ししなければならないことがあります」

 そうして語られたレオナルドの言葉に、フェデリコは耳を疑った。
 この哀れな用心棒は、恐れ多くもボスであるフェデリコに背き、アガサと子どもたちを殺さずに生かしておいた、と言うのだ。
 しかもレオナルドはこれまで一度だって嘘をつけるような男ではなかったくせに、そのことにおいては巧みに殺人を偽装し、フェデリコを欺いたのだ。

「今朝、病院でドラコの容態を聞いてきました。医師は、もう長くもたないだろうと言っています。せめて逝ってしまう前に、彼女に会わせてやりたいのです」

「私の命令に逆らい、私を欺いたのか、レオナルド、……お前が?」
 驚きとともに、強い怒りがフェデリコの中に沸きあがった。
 フェデリコは立ち上がり、暖炉の火かき棒を掴み上げた。

「ドン、お願いですから、冷静になってください」
「そもそもあんたは正気じゃなかったんだ」
 と、ニコライとアーベイが同時に口を開き、レオナルドをかばおうとして前に進み出てきた。
 フェデリコは火かき棒を振り上げて、それを制した。

「下がれ! お前たちは黙ってそこに立って見ていろ」
 フェデリコは右手に掴んだ火かき棒で左手の平を打ちながら、おどしつけるようにレオナルドの前に仁王立ちした。
「私の命令に逆らえば、ただではすまされないと思わなかったのか、レオナルド」

 レオナルドは跪いたまま、身じろぎ一つせずに答えた。
「罰は受けます。それで気が済むなら、私の命をとってください。ですが、彼女と子どもたちは見逃してほしいのです……」

 どうして、今までそのことに気づかなかったのか。このレオナルドという男にも、ファミリーの幹部を背負う素質があったのだ。
 愛情が、フェデリコの胸に込み上げた。

「まったく、どいつもこいつも、気に喰わない……」
 フェデリコは力任せに、暖炉の中で燃え盛る炎の中に火かき棒を投げつけた。
 薪が崩れて、火の粉が勢いよく舞い上がった。

 愛してやまないドラコは全く彼の言うことをきかず、意趣返しのつもりかノストラ―ドに特攻をして勝手に死にかけている。その上、腹心の部下と思っていたレオナルドからはこのような形で裏切られた。
 フェデリコは屈みこんで、レオナルドを抱き寄せた。

「絞め殺してやりたいほどムカつく奴だ! だが、」
 フェデリコの目から涙がこぼれた。
「忠実な部下は時に、主の愚かな命令に逆らうものだ。本当に、心から、お前を殺してやりたいが――、よくやったな、レオナルド」
 どうしてファミリーの男たちはこんなにもフェデリコを怒らせ、こんなにも愛しいのだろうか。
 畑仕事で日焼けして節くれだった、フェデリコのごつい手が、レオナルドの赤みがかったブラウンヘアをがしがしと撫でまわした。


 その時、書斎の扉の外で幹部たちが必死に誰かを説得するような大きな声がした。

「今度はいったい、どうしたっていうんだ?」

 扉が開いて、アリの巨体が背後にいる人影を隠すように視界を塞いだ。
「ボス、ただの侵入者です。心配ありません、我々で対処しますから」
「ちょっと、通してって!」
 アガサの声がして、アリが一瞬、やばい、という顔をした。
「貴女がここにいることがボスに知れたらまずい、すぐに天国に帰ってください」
 と、ルイスの声は筒抜けだ。
「レオナルドは無事なの? 彼は私を助けてくれたのよ、あの狸爺に、彼に手出ししないように伝えに来たの!」
 これにはさすがのアーベイも、フェデリコの反応を心配して視線を走らせる。ニコライはわざと大きく咳払いをして、彼女らの声が少しでも聞こえないようにした。
 他の幹部たちが口々に、黙れ、声を落とせ、静かに、とアガサをなだめ、もう庇い切れないぞ! とキレだす者までいた。


「じゃじゃ馬のような女だな……、通しなさい」

 フェデリコが皮手袋を嵌めた手で、暖炉の中から赤くなった鉄の火かき棒を掴み上げ、反対の手で苛立たし気に、クイクイと招く仕草をした。
 それを合図にアリが仕方なく脇に避けると、顔を真っ赤にしたアガサが書斎に入って来た。その後ろに上海支部の双子の兄弟チェンとフォンがいて、チェンは子ども用のバッグを肩から下げ、フォンの方はモーレックを抱いていた。二人とも、とても迷惑そうな顔をしている。

 部屋に入ると、まず真っ先に赤く燃える火かき棒を持ったフェデリコと、その横で跪くレオナルドを目にして、アガサは息を呑んだ。

「ご慈悲を!」
 と、アガサは叫んだ。
「私がこれでなにをするというんだ?」
 フェデリコは片手で火かき棒を持ち上げて、反対の手でそれを紳士らしく指して見せた。
 アガサは疑うような目をフェデリコに向けて、「突くとか?」、と、やや自信がなさそうに答えた。

「熱した火かき棒を突きさすとは、恐ろしいことを考えるものだな……」
 フェデリコは呆れたように、火かき棒を暖炉のホルダーに戻した。

「レオナルドとは話がすんでいる。殺しはしないさ」
 アガサはレオナルドと視線を合わせ、彼が微笑んで小さく頷いたのを見て、涙ぐんだ。
「よかった……」

 皮手袋を外してマントルピースの上に置くと、フェデリコはゆっくりとアガサに近づいて来た。

「ところで、君はどうしてここに戻って来たんだね、アガサ。私に命を狙われたことは、もう知っているんだろう? ここに戻れば危険だとは思わなかったのかね。おまけに、その幼い子どもたちまで連れてくるとは、私も甘く見られたものだな……」
「あなたを甘くみたりしていませんわ、フェデリコさん。むしろ、ドラコが尊敬し仕えている方として、信頼しています。――あなたの良心を」
「ほお、良心とな」

「私は暴力や殺人には反対です。でもドラコや、彼の仲間たちと関わるようになってみると、彼らには注目すべき正しさと良心があることを知りました。皆、同じ一人のボスに仕え、彼を尊敬し、彼に学んでいるように見えました。フェデリコさん、あなたに」
 アガサは抱っこ紐の中のマリオを抱え直して、先を続けた。
「だから、自分の命を危険にさらしても私と、私の子どもたちを救ってくれたレオナルドを、あなたはきっと許してくれるはずだと、説得しに来たんです」

 でも、……と、アガサは書斎の中を見回して気まずそうに顔をしかめた。
 ニコライ、アーベイ、イデリコ、そしてレオナルドが何とも言えない表情でアガサのことを見ている。
 廊下側には、アリとルイス、双子のチェンとフォン、それに、イギリス支部の紳士ベドウィル、イタリア支部のジョバンニとアレサンドロが、皆一様にアガサに戸惑いと憐れみの視線を注いでいた。

 フェデリコはそのとき、その場にいる皆が彼女を慕い、心配していることに気づいた。

「私の出る幕ではなかったようですね」
 と、力なくアガサは呟いた。

「君を殺そうとした、私を憎んでいないのか」
「貴方を許します、フェデリコさん」

――稀なる者。多くの人間の心を見抜いてきたフェデリコの鋭い目にも、アガサは異質に写った。
 何か大きな力が彼女を守り、動かしているのだと感じた。神、という存在が実在するなら、それなのかもしれない。

 ドラコがこのような女性を選んだことを、フェデリコは今になって褒めてやりたくなった。

「ドラコを、本当に愛しているんだね?」
 唐突にフェデリコに問われて、はい、と、アガサは答えた。
「ドラコが金持ちで、ハンサムだからかな?」
 と、フェデリコがわざと意地悪な顔をした。わかりやすい引っ搔け問題に、思わず頷いて見たくなるのを抑えて、アガサは言った。
「彼と一緒なら、世界の見え方はもっと面白く、困難を乗り越えるのもさほど苦じゃないと思えるからです」

 それを聞いて、フェデリコはデスクの引出しから指輪のケースを取り出した。

「病院に運ばれたとき、ドラコがずっと手に握りしめていたものだ。一度は、私が君から奪い取った物だが、これを君に返そう」
 血の付いたケースを開くと、ドラコから贈られた婚約指輪が入っていた。
 ドラコが、それは二人の繋がりで、愛の証だと言ったその指輪を、アガサは震える手で左手の薬指にはめた。彼女にとってもそれは、ドラコから初めてもらった大切な贈り物だ。

「あの子に会いに行ってあげておくれ。きっと、寂しがっていると思うから」

 アガサは勢いよくフェデリコの胸に飛び込み、短い間ギュッとハグすると、皆に挨拶をしてすぐに邸を出て行った。
 病院まではアーベイが車で送ってくれた。

 アガサが白雄鶏の館に突撃してきたことで、フェデリコの魂は救われ、レオナルドは慰めと安らぎを得た。
 だが、ドラコがもう目覚めることがないと知って、この後にアガサがどんな悲しい思いをするのか……。
――ああ、神よ。
 
 邸に残された幹部連とフェデリコは、祈り心でアガサを見送った。





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