恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-5


 イタリアのタブロイド紙ガゼッタには、簡単に広告を申し込むことができる。直接電話をかけてもいいし、店頭で頼んでいもいい。支払いを現金でするなら店頭での申し込みが必要だ。
 昼までに申し込んだ広告は、その日の夕方には刷られて市場に出回る。
 アガサは夕方になると毎日、教会の近くのジェノバ通まで歩いて行き、自転車をおしてガゼッタ紙を売りに来る少年からそれを買った。一部3ユーロだ。

 ニコライは毎日、広告欄にメッセージを載せてくれた。彼らの間でだけ伝わるような詩的な表現で。

 はじめは、ドラコが怪我をして病院に運ばれたこと。
 次の日には、ドラコが一命をとりとめたこと。
 そして、入院はあともう少し長引きそうだということ。――ニコライは、ドラコが危篤状態であるということをアガサには伝えていなかった。
 4日目には、差し迫ったノストラ―ドファミリーの脅威は去ったが、まだ油断はするな、ということ。そして、ドラコが寂しがっているということ。
 5日目には、白雄鶏の館の全員が無事であること。そして、ドラコがとても寂しがっているということ。

 アガサは6日目の朝にはじめてガゼッタに広告を打ち、病院にお見舞いに行きたいと伝えた。
 7日目にはニコライから【手配する】と返信があった。

 8日目の今日、ガゼッタの広告欄に目を通したアガサはハッとした。
 今夜、レオナルドがフェデリコの命令にそむいてアガサたちを見逃したことを告白しようとしているようだ。
 何か考えがあってのことなのだろうが、アガサはレオナルドの身がとても心配になった。

 アガサはジェノバ通を走って教会まで戻った。
 車から飛び降りたときに打ち所が悪かったらしく、走るとまだ下腹部に切れるような痛みがでた。最初の数日間は、生理が終わったばかりだというのに、ひどい出血があった。病院に行った方がいいかもしれない、と思ったが、パスポートの提示やクレジットカードの利用で居所が知られてはまずいと思ったので、様子を見ることにした。
 幸いにも出血は数日でおさまったので、アガサは自分の体のことは後回しにした。今は子どもたちを守ることが優先だ。


 ピリポ教会は周囲を林に囲まれた六角形の建物で、ジェノバ通に面する門をくぐって私道を進んだ先の、奥まったところに建っている。
 教会に帰るとアガサは急いでサムエル牧師に事情を説明し、フェデリコと話をするために白雄鶏の館に出向くと伝えた。

「しかし、そんなことをすれば、貴女も危険なめにあうかもしれませんよ」

 アガサはそれを承知で、さらにサムエル牧師にお願いした。

「もし、私の身に何かあったときには、モーレックとマリオをお願いします」
「アガサ、考え直しなさい。誰もが貴女のように良い母親になれるとは限らないのです。この子たちには貴女が必要だ」

 心は揺らいだが、アガサにはどうしても、自分が白雄鶏の館に行ってレオナルドをとりなさなければ、という気がした。
 そのような強い思いが胸に込み上げてくるとき、きっとこれは神の導きなのだとアガサは思った。

「神が、私にそこに行けと命じておられるような気がします。レオナルドのために」

 サムエル牧師はハッとした。
 アガサの背後で、礼拝堂のステンドグラスから射し込む夕日の中に、翼を持つ白い天使の姿を見た気がしたのだ。

「私を行かせてください」

 鳥肌が立つのを覚えながら、サムエル牧師はアガサを見つめた。そこに恐れや迷いはなく、ただ確信だけが見て取れた。
 信仰によって神が遣わす者を、サムエル牧師にはとどめることはできなかった。

――ああ、神よ。このアガサという女性は何者なのでしょうか。このように弱く儚い者を、神であるあなたが遣わされるとは。

 数分後、アガサはモーレックとマリオをサムエル牧師に預けるため、身支度を整えて礼拝堂に降りてきた。教会の外にはすでにタクシーが到着していた。

「モーレック、よく聞いてね。ママはこれから、あのお屋敷に戻って、レオナルドと一緒にフェデリコおじさんと話をしてくる」
 モーレックはアガサの腕の中で、真剣な表情でそれを聞いていた。
「あなたと、マリオはサムエル牧師のところでお留守番をしていてね。いい子に――」
 アガサはモーレックのおでこにキスをして、サムエル牧師に渡そうとした。サムエル牧師が手を伸ばしたが、モーレックは今までにないくらいの強い力でアガサの首にしがみつき、「もれも ままといっしょにいく」、と言った。

「危険なのよ、モーレック」
 アガサの声がふるえ、涙が浮かんだ。
「マリオと一緒に、サムエル牧師と一緒にいてちょうだい。お願いだから」
 アガサは首に巻きついたモーレックの小さな腕をほどいて、サムエル牧師に渡した。
「いやだ! ままといく、いっしょ、いっしょ ままあああ!!」

 モーレックがサムエル牧師の腕の中で暴れ、ママに向かって手を伸ばして泣き叫んだ。
 アガサは背を向け、教会の出口に向かって歩き出したが、モーレックが泣いて懇願する声に胸が張り裂けそうになり、足をとめた。
 子どもを捨てることなどできるはずがない。でも、モーレックはアガサに捨てたられたと思うかもしれない。
 もしかしたら戻って来られないかもしれないと思いながら、我が子を置いて行くことなどできなかった。――ああ、神様。

 アガサは引き返して、サムエル牧師からモーレックを抱き上げた。
 すでに顔をくしゃくしゃにして発作を起こすように泣きじゃくっているモーレックが、また強い力でアガサの首にしがみ付いてきた。
 愛しい子、私の息子――。
 この子を守り、私も死ぬわけにはいかない。

 アガサは覚悟を決めた。

「この子を一緒に連れて行きます」

 サムエル牧師は憐れみのこもる眼差しでアガサを見つめ、ただ、貴女たち家族のために祈りましょう、と言って、アガサとモーレックを抱きしめ、短い祈りを捧げた。
 全能なる神の右手によってこの家族を守り、祝福を与えたまえ、と。

 
「まりおも」
 と、モーレックが言った。
 イタリアに来てから、モーレックはマリオのことを弟として意識するようになったようだ。
 ママやパパと同じように、いまやモーレックにとってはマリオも、一緒にいることが当たり前になった家族の一員なのだ。

「ええ、そうね。マリオも一緒に、家族一緒に行きましょうね」

 サムエル牧師の傍らで、マリオを抱きかかえていた牧師夫人のイレーネが、抱っこ紐をアガサにつけるのを手伝ってくれた。
 牧師夫人のイレーネはとても優しい人で、教会にかくまわれている間ずっと、アガサたちの生活に不自由がないように心を配り、女性ならではのきめ細やかさで彼女たちの体調を気遣ってくれた。
「無事を祈っているわ。うちのバカ息子をよろしくね……」
 イレーネ牧師夫人はそう言って涙をこぼした。

「いってきます」
 アガサはイレーネ牧師夫人に心からの感謝を述べると、子どもたちを連れてタクシーに乗り込んだ。
「クーネオにあるワイナリー、白雄鶏の館までお願いします」
 地元の運転手はぎょっとして一瞬だけアガサを振り返ったが、何も言わずにゆっくりと走り出した。





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