恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-3


 プリアマール要塞の外門に上る狭い石橋を疾走しながら、ニコライとアーベイはそれぞれに緊張を高めた。
 外門にはドラコのスーパーファストが停められて、その近くに3人の男の死体が転がっていた。
 激しい銃撃戦が繰り広げられていることを予想していた二人は、辺りがゾッとするほど静まり返っていることに違和感を覚えた。

 ニコライとアーベイは銃を抜き、慎重な足取りで門をくぐっていった。

「なんてこった、あいつ、一人で特攻しやがって……」
「一人でノストラ―ドの要塞に乗り込むなんて、自殺行為だ……」

 石畳の上を進むごとに、あちこちにノストラ―ドファミリーの組員たちの死体が横たわっている。どれもまだ、温かい。
 その中にドラコの死体がないことを願いながら、二人は鋲つきの重たい扉を押し開き、城の中へと入って行った。
 表よりもひどい惨劇の光景を目の当たりにして、アーベイは腕で鼻を覆い、ニコライは目をすがめた。

「これを、ドラコ一人がやったのか……?」
 辺りには血と硝煙の臭いが満ちていた。弾が切れたか、装填が間に合わなかったのかもしれない、ナイフで首を裂かれた遺体もあった。

「先へ進もう」

 ニコライが先に立って、点々と折り重なる血と死体の跡をたどって、階段を上って城の奥へと進んでいった。
 城全体が恐ろしく静かなので、少なくとも勝敗は決しているはずだった。ドラコが殺されたか、相打ちになったか、それはまだわからなかったが、これだけの数の敵を相手にして、無事でいるはずはない、と、ニコライは思った。





 明かりの消えた玉座の間で、ドラコは壁に背をもたれて、冷たい床の上に座り込んでいた。
 寝首を搔かれたノストラ―ドファミリーのボス、サルヴァトーレは、何が起きたのか分からないという顔をしながら死んでいった。
 親友のマリオと、殺された仲間たちと、……アガサ。
 仇をとってやった。

 黒く霞んでゆく視界の先に、自分の体から流れて広がっていく血だまりが見えた。その色が何色なのかも、もうわからない。

 会合でアリの口から、アガサと子どもたちの死を知らされたとき、ドラコの中でぷつりと糸が切れた。
 もう何も感じられなくなった。

 白雄鶏の邸を出る前に、最後にもう一度アガサがいた部屋に立ち寄って、彼女に電話をかけた。――おかけになった番号は電源が入っていないか、電波の届かない……、もう何度目かの虚しい機会音声を聞いて、ドラコは携帯を床の上に落とした。天国に繋がる番号は、何番だろう。アガサに聞いておけばよかった。

 もう生きている意味がない。色を失った、こんなに冷たい世界で、――君のいない世界で。
 薄れゆく意識の中で、ドラコはスーツジャケットのポケットから、アガサに贈った婚約指輪を取り出した。
――Dより親愛なるAへ、君は僕の世界の色そのものだ。

 何をしても守ると約束したのに、ごめん。

 そう伝えたいのに、きっと俺は地獄に堕ちて、君は天国にいる。子どもたちと一緒に。
 不意に涙がドラコの頬を伝い落ちた。
――アガサ、君が恋しいよ。

 そうしてドラコはついに力尽きて、冷たい闇の中へと意識を落としていった。





 ニコライとアーベイが血だらけになって倒れているドラコを見つけたのは、その直後だった。
 アーベイがドラコに駆け寄り、「まだ息がある!」と、叫んだ。

 ニコライが素早く携帯を取り出し、白雄鶏の邸にかけた。真夜中だったが、ワンコール目が鳴りやまないうちにレオナルドが電話に出た。
 簡潔に状況を説明し、病院の【手配】と、警察やマスコミへの対処、プリアマール要塞の後の始末を用心棒たちに指示した。このような緊急の対応には慣れているはずだから、彼らに任せておけば万事うまくやるはずだった。ドンへの報告も。

 アーベイが肩にドラコを担ぎ上げ、二人は急いで元来た道をアルファロメオに引き返した。
 車で4分のところにあるサヴォナの救急病院に駆けこんだときには、レオナルドから連絡を受けた病院スタッフがすでに救急搬入口に出てきて彼らの到着を待っていた。
 すぐさまバイタル確認用のモニターがつながれ、ストレッチャーに乗せられたドラコは、その直後に心停止した。
 ツー、という不気味な機械音が鳴り始めると、カラフルな診察衣をまとった医療スタッフが何人も駆け寄ってきて、そのうちの一人がドラコの上に跨って心臓マッサージを始めた。

「緊急手術だ。輸血、あるだけ持ってきて!」

 ベテランの医者が指示すると、何人かのスタッフが素早い動きで別の方向に走っていった。
 そうするうちにもストレッチャーは運ばれていき、手術室と電光掲示されている扉の向こうに吸い込まれていった。

「あなたたち、怪我は?」
 呆然と立ち尽くすニコライとアーベイに、看護師が声をかけてきた。
 見ると、二人とも血まみれだった。

「いや、僕たちは大丈夫だ。これは全部、彼の血だよ」
 それだけの血が自分たちの体についていることが信じられなかった。こんなに出血して、生きていられるのか……。
「ドラコ……」
 二人は祈るように手術室の扉を見つめた。

 1時間もしないうちに、フェデリコとエマが病院に駆けつけてきた。
 ドラコはまだ手術中で、たまに出てくるスタッフは、皆、深刻な顔をしていた。
 手術は8時間にも及んだ。
 術衣の胸元を大きく汗で濡らした黒髪の医師が出てきて、手術中にドラコが2回も心停止したことを知らせた。
 今はなんとか手術で一命をとりとめたが、複数個所を撃たれて主要な臓器のほとんどが傷ついているので、回復の見込は極めて低いとの説明だった。奇跡的に回復したとしても、心停止していた時間が長いので、脳や、その他の神経器官に障害が出る可能性が高いとも言った。最悪の場合、目覚めることなく、死ぬまで人工呼吸器に繋がれることも想定されていた。

 なんとかドラコを助ける方法はないのか、と、フェデリコは医師に詰め寄ったが、聡明で優秀なその担当医は、希望的見解は語らなかった。
「我々は最善を尽くしました。あとは患者自身の生きる意志が、奇跡を起こすことを願うしかありません。私の印象では、……」
 と、ガインカルロという名前のその医師は、慎重にその先の言葉を継いだ。
「大変申し上げにくいのですが、生死をかけた厳しい手術をしているときに、我々は患者に呼びかけます。戻ってこい、生きろ、と。それはある種、医療の力を越えた、魂の力を信じているからでもあるのですが、彼には生きようとする意思が感じられませんでした。どうして彼が死にたがっているのかはわかりませんが、正直に申し上げて、彼がいま生きているのは奇跡だと思います」

 ガインカルロという名前には、イタリア語で『神の優しい贈り物』という意味がある。
 親からそのような名前を与えられ、育まれた男が、医師となり患者と向き合っている。彼から語られた言葉を、フェデリコは重く受け止めた。

 救急治療室のベッドに横たわるドラコを見下ろし、フェデリコは心を落とした。
 私のせいだろうか。
 はじめてニューヨークのストリートで見た、小さな少年の顔が、疑わし気にフェデリコを見ている。深く澄んだ青い目をしたその少年はとても可愛らしかったが、酷く傷ついた目をしていた。
 誰のことも信用せず、周りのすべてを敵だと思っているのに、本当は好奇心が強くて、世界と関わりたいと切望している少年。
 フェデリコにはそんなふうに見えた。

 フェデリコはわざと、その少年の前で財布を落とした。
 少年はすぐに財布を広い、フェデリコを呼び止めて、それを放り投げてきた。
 礼を述べると、少年は子どもながらに目をすがめて、「どうしてわざとそれを落としたの」、と聞いてきた。
 思わず口元がほころんだのを、フェデリコは今でもよく覚えている。ドラコは賢い子どもだった。

――「これを君にあげようとしたんだよ」
――「どうしてそんなことをするの」
――「ただ恵んでやるのでは君の自尊心を傷つけるかもしれないと思ったし、多分、君はそれを受け取らないだろうと思ったからだ。そうだろ?」

 あの時から、フェデリコはドラコのことを我が子のように愛し、育ててきた。
 目の前で生命維持装置に繋がれているドラコは死人のように青ざめて、少しも動かなかった。
 フェデリコは後悔した。
 あのガインカルロという医師の言葉は、的を射ていた。

 ドラコを追い詰めてしまったのだ。

 これまで何一つだってフェデリコに求めることのなかったドラコが、初めて連れてきた女性を、おそらくはドラコが最も大切にしている存在を、フェデリコは奪ったのだ。そうしてエマとの結婚を強引にすすめさせようとした。

「ドラコ、すまない。私が間違っていた……」

 この子を取り戻すために何ができるだろう、と、フェデリコは考えたが、死んだ人間をあの世から呼び戻すことなど、彼にできるはずがなかった。
 もしあの娘が生きていたなら――。
 あの娘がここにいて、ドラコに呼びかけたなら、あるいはドラコは目を覚ますのではないか、と、フェデリコは思った。

 なんて愚かなことをしてしまったのだろうか……。
 後悔してもしきれずに、フェデリコは苦悶した。





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