恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-14


 ドラコはそれから二週間入院し、さらに一か月間は体を元通りに回復させるためにイタリアでリハビリに励んだ。
 フェデリコが『沈黙の掟』を宣言して以来、ノストラ―ドファミリーからの報復の動きは収束し、世界中から集められていたアルテミッズファミリーの幹部たちはしだいに、白雄鶏の邸からそれぞれの国に戻って行った。

 アガサはガインカルロ医師ととても仲良くなった。彼が地域の貧しい人々への医療のために私財と人生を捧げている熱心な医者だということがわかると、アガサは深く感銘を覚え、シャローム・プロジェクトがガインカルロ医師の働きを全面的に後押しするようにした。
 ピリポ教会のサムエル牧師は、以前から困っている人々を受け入れるシェルターの役割を教会にもたせていた。アガサと子どもたちも、それによって命を守られたので、アガサは今後もサムエル牧師の働きが継続し、さらに拡大するように支援することを申し出た。サムエル牧師はかねてからモスクワでのシャローム・プロジェクトの働きを耳にしていたので、ピリポ教会がシャローム・プロジェクトの輪に加わることをとても喜んでくれた。

 アガサは毎日のようにドラコの見舞いに訪れては、イタリアでのプロジェクトの進展を嬉しそうにドラコに報告した。
 時々、ドラコの見舞いよりもシャローム・プロジェクトの方に彼女が熱心になりすぎていると感じて、ドラコは盛大にイジケタ。

「可哀そうに、今日も一人でその不味そうな食事を食べているの」
 ドラコの食事の時間にアガサが来られないときには、エマが代わりにやって来た。
「教会で寄付金集めの炊き出しをするらしい。あの医者と、レオナルドも一緒に行ったよ」
 ほとんど形を失った野菜の和え物を気乗りしなさそうにスプーンで突きながら、ドラコは呟いた。
「俺のことは放ったらかしなんだ」

 子どものようにイジけているドラコを見つめてエマは、にんまりする。
「彼女と結婚すると決めたのはドラコでしょう。ほんっと、いい気味だわ」
「そういえば、アガサに言わなかったんだな。俺の過去の【不品行】については」
「ふひんこうって、……そんな言葉をどこで覚えたの?」
「毎日、繰り返し聖書を読まされているものでね」
 よくそんなことに耐えられるものね、この、ドラコが。信じられない、と、エマは心の中で思った。

「言おうとしたけど暇がなかったのよ。ノストラ―ドの男が銃を構えて迫って来たせいでね」
 本当は、その前からエマはもう、アガサの愛の深さを感じ取って、ドラコのことを貶めても意味がないと思ったのだったが、それはあえて口にしなかった。

「アガサのことを助けてくれて、有難う。おでこに、そんな傷までつくって」
 エマの額には、熱くなった銃口を突きつけられたときの火傷の痕が、今も消えずに残っていた。
「一生分の貸しよ」
「ノストラ―ドの連中はみな手練れだ。よく無事だったな、エマ」
「実は、ほとんどやられる手前だったの。アガサがあの男にとどめを刺したのよ」

 ドラコにはそれは初耳だった。
「……アガサが? もしかして、聖書でぶん殴ったとか?」
「いいえ、フライパンで。正確には、湯気のたつ大きな中華鍋だったわ。多分、厨房で調理中だったのを持って来たんだと思う。その中華鍋には、少し焦げたネギがついてたわ。アガサはそれで、私を組み伏せている男の頭を殴ったの」
 エマの話を聴きながら、途中からドラコは堪えきれなくなって笑い始めた。
「嘘だろ?」
「いいえ本当よ。2回も! 信じられる? あの華奢で、敬虔なキリスト教徒のアガサが、物凄く怖い顔で、それはもう容赦なく男の頭をカチ割ったのよ、こう!」
 ベッドの中で大笑いしているドラコの横で、エマはアガサの身振りを真似して見せた。
「そして男が完全に床の上に伸びてしまうと、言ったの。――ああ、神様、お許しください……」
「息が、息ができない……」

 ドラコが落ち着くのを少し待ってから、エマは言った。
「私は彼女にはかなわないわ、ドラコ。だから、あなたを彼女に譲ると決めたの。あんなに強くて愛に溢れた女性は、他にいないと思うから」
「有難う、エマ。愛しているよ、これからも、君は俺たちの大切な家族だ」
 ドラコはベッドから上半身を起こして、エマのおでこの傷にそっとキスをした。
 ドラコの方からエマに愛情のこもるキスをしてくれたのはそれが初めてだったので、エマは涙が出るほど感動した。





 ドラコが退院すると、アガサと子どもたちは先にロサンゼルスに帰って行った。
「お前さんたちならいつでも歓迎だから、またきっと顔を見せにくるんだぞ。上手い料理をたらふく食わせてやるから」
 と、意外にも一番別れを惜しんだのはイデリコだった。

 最後まで白雄鶏の邸に残っていたのは、ドラコとニコライだ。実はアーベイもドラコが完全に回復するまで残りたがったのだが、ベルリンにはアーベイの他に幹部の仕事をこなせる人員がいなかったので、向こうに残してきた仲間たちのために戻らざるを得なかったのだ。

 モスクワにはルイスがいるから、ニコライは自分の仕事を全部、部下たちに押し付けて、白雄鶏の邸でのんびり過ごす時間を楽しんでいるようだった。


「スパーリングに付き合ってくれ、ニコライ」
「ええー、またあ?」
 コニャックにホットミルクとシナモンスティックを入れた、ホットカクテルを片手に、ニコライは庭で静かに降り積もる雪を眺めていたのだが。
 退院してからというもの、ドラコはトレーニングを一日も欠かさず、格闘訓練をするときには、いつも相手を探してニコライの所に来る。邸の用心棒たちでは相手にならないのだ。

「10分後、ジムで。先に行ってアップしてる」
 有無を言わせず、ドラコは立去って行った。
 ニコライは小さくため息をつく。

 ドラコが退院した最初の頃でこそ、ニコライは体力の落ちているドラコを押さえつけることができたが、最近では逆に押されっぱなしなのだ。本調子のドラコには、体の大きなニコライでもかなわないのだ。
 ニコライは名残惜しそうにホットカクテルを飲み干すと、また、溜息をつきながら邸に戻った。
 

 邸の地下にあるジムに行くと、ドラコは鉄棒にぶら下がって懸垂をしていた。広い肩幅と、厚い胸板、必要なだけバランスよく鍛えられた柔らかな筋肉には、強さと柔軟性の両方が兼ね備えられている。動くたびしなやかに浮き上がる曲線が、とてもセクシーだ。男から見ても、ドラコはいい体をしているよ、と、ニコライは思う。

「ご希望は?」
「何でもありの三本勝負」
「素手かい?」
「武器を使ってもいいぞ。俺は素手でいい」

 ニコライはゲンナリして、床の上に足を開き、ストレッチを開始した。
 ドラコが今日のようなスパーリングオーダーをしてくるときは、大抵、本気のときなのだ。怪我をしないようにしっかり体をほぐさなければ。

 十分にストレッチをすませると、ニコライはトカレフTT-33(の模擬拳銃)にビービー弾を込めた。
「そんなオモチャを持ち出して、どうするつもりだ?」
「化け物相手に素手でやり合うつもりはないからね」

 二人はジムのスパーリングコートの上で向かい合った。
 ニコライが銃を構えると、ドラコは距離をとって3歩離れた。と見せかけてニコライの体の中央を目掛けていきなり突進した。
 パン、パン、パン!
 ニコライが放ったビービー弾はいずれもドラコの体からわずかに外れて、パチパチと空を切って壁に当たり、床に転がった。
 ドラコがニコライの手首を弾き、反対の手でニコライの顎を掴み上げた。トカレフは一瞬で床の上に転げ落ち、二人はそのまま揉み合いになる。体の大きなニコライがドラコの体を持ち上げ、放り投げた。

 ドラコは床の上に倒れ落ちるが、その勢いのまま回転してすぐに上体を起こした。そこに、ニコライがすかさず蹴りを入れる。ドラコはその蹴りを両手でガードすると、そのまま引き寄せて、今度は逆にニコライを蹴り倒した。膝を抱え込まれ、馬乗りに抑え込まれてニコライは身動きがとれなくなる。

「ギブ、ギブギブギブギブ、ドラコ!」


 その日、ニコライは健闘したが、結局一本もとれずにドラコに完敗した。
 スパーリングを開始してから一時間後、二人は汗だくになってジムの床の上に横になっていた。

「もう、すっかり怪我の後遺症はないみたいだね」
「長かったよ。かなりキツかった」
「それは僕の方だと思うんだけれどね……。ロスにはいつ帰るの」
「明日帰る」
「そうか」

 これでやっと、お役御免なんだね、とニコライは思った。ドラコはロサンゼルスに帰り、ニコライもモスクワに帰る。またそれぞれの支部へ。

「家族が離れ離れになるのは、寂しい気もするけれど、また会えるからね」
「ファミリーの会合はこれからも年に1度はあるし、ドンがイタリアンマフィアを一堂に会する大がかりなインコントロを計画しているからな」
「そうだね。厄介なことにならなければいいんだけどね」
「厄介なことになるに決まっているだろ。イタリア中のマフィアが顔を突き合わせて、仲良く酒が飲めるわけがない」
 ノストラ―ドファミリーが事実上の壊滅状態となった今、イタリアのマフィアたちは国内での力の均衡を今後どのように分配していくかを話し合いたがっていた。そのため、これからは年に一度、平和的に交渉をして、様々な問題について折衝する機会を設けようというのだ。
「嫌そうだね」
「しばらくは、アガサとの新婚生活を楽しみたい。それに、子どもたちには、俺がパパだと教えないといけないし」
 ドラコは起き上がり、ニコライに手を出した。
「あのくらいの子どもは本当に薄情なんだよ。しばらく見ないとすぐに俺の顔を忘れてしまうみたいなんだ」
 ドラコの手を借りて、ニコライも立ち上がる。
「パパも楽じゃないんだね」

「ありがとうニコライ。アガサと子どもたちに良くしてくれて」
「当然のことをしたまでさ」
 二人は胸を打ち付けて、互いの背中をたたき合った。

「モーレックにチェスで負けたんだって?」
 途端に、ニコライが皿のように目を丸くした。
「ひどいな、アガサから聞いたんだね!?」
「いや、モーレックから聞いた」
 あの、天使のように可愛い顔をしたモーレックが。
「あの子は賢すぎるよ、ドラコ。将来が心配になるくらいだ」
「アガサは普通に育てるつもりみたいだ」
「うん、そうなんだろうね。けど、ブラトヴァの血を受け継ぐモーレックと、ノストラ―ドの血を引くマリオの子だ。この先もまたいつ命を狙われるとも限らない……」
「分かってるよ、ニコライ。今度こそ俺が、必ず守るから」
 もちろん、ドラコは守り切るだろう。ニコライはその言葉を信じている。

「困ったときは、いつでも連絡してくれ」
「頼りにしてるよ、ニコライ。じゃあな、お前も元気で」

 ドラコはニコライの背中をもう一度ぽんと叩いて、部屋に戻って行った。
 二人が白雄鶏の館で顔を合わせたのはそれが最後で、次の日には、それぞれ挨拶もせずに、自分たちの家に帰って行った。また、いつものように。





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