恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-13


 病室の床の上には、ニコライとレオナルドの手によって二人の男が組み伏せられていた。

 床の上で男たちは、「復讐をしてやる!」、と獣のように吠えたぎっている。
 ドラコはアガサのことが心配になり、部屋から飛び出して行こうとしたところをガインカルロ医師と、他3人の男性看護師によって取り押さえられ、ベッドに押さえつけられていた。ガインカルロ医師はあらかじめ用意しておいた鎮静剤を素早くドラコに投与した。

 ノストラ―ドファミリーの残党がドラコの命を狙ってやって来たということは、アガサと子どもたちにも危険が迫っているかもしれない。
 と、ドラコがそう思った、まさにその時、カフェテリアの方で銃声がした。

「アガサ……、はなせ! 彼女が危ない!」
「ダメだ効かない。追加の鎮静剤を、早く!」
 ガインカルロ医師が叫んだ。
 
 床の上では、ニコライに組み伏せられている男がバタバタと暴れて叫んだ。
「ノストラ―ドがこのまま滅びると思うな、殺してやる! 女も子どもも皆殺しだ!」
 ニコライはその男の頭を鷲掴みにして持ち上げ、床に叩きつけて黙らせた。男は頭から血を流して気絶した。

 直後、銃声がもう一発轟いた。カフェテリアの方から人々が悲鳴を上げながら逃げてくるのが廊下側のウィンドウごしに見えた。

「はなせ、行かせてくれ! ニコライ! アガサを」

 ドラコは看護師を蹴り飛ばして上半身を起こしたが、二本目の鎮静剤を打たれた。

 ニコライは素早く周囲に視線を走らせた。
 他に敵らしき影はない。
「レオナルド、ここを任せていいかい」
「はい、行ってください」
 レオナルドは、もう一人の男の方を締め上げて気絶させたところだった。
 ニコライは立ち上がって、病室を飛び出していった。

「アガサ……」

 ほどなくして、病室のウィンドウごしに、アガサが駆けてくるのがかすみゆくドラコの視界に映った。
 ドラコは彼女に手を伸ばしたが、その手は力なく宙をつかんで落ちた。

「こんなに鎮静剤を打つまで動き続けるなんて……」
 汗だくになったガインカルロ医師が、呆れたように患者を見下ろした。

 辺りは騒然となっていた。
「怪我人は?」
「病院スタッフと患者たちはみな無事です、ガインカルロ先生。カフェテリアで男と揉み合いになった女性を今、治療中です」
 緊張のため顔面を蒼白にした主任看護師が報告した。

 警察が到着し、病院に侵入してきた男たちを拘束した。もっとも、警察が駆けつけた頃には男たちは皆気絶して、結束バンドで両手を縛られていた。
 捕まることを覚悟で捨て身の襲撃をしてきたのだ。
 ニコライとレオナルドが銃を抜かなかったので、男たちは打撲や裂傷ですんだ。 「撃ち殺せばよかったのに」、と、後でエマは言ったが、瀕死のドラコの命を救ってもらったばかりだったので、ニコライとレオナルドは医者の見ている前で人を殺せなかったのだった。もちろん、あともう少し追い詰められていたら、躊躇なく銃を抜いただろうが……。

 病院への襲撃の報せを聞いたフェデリコは、その日のうちに全世界の新聞に、「沈黙の掟」の復活を呼びかけるメッセージを送った。

 ノストラ―ドファミリーは世界中に散らばっている。
 きっとまだどこかに、息を潜めて報復の機会を狙う残党がいるだろう。
 しかし、アルテミッズファミリーのドン、フェデリコは、彼らを世界の果てまで追いかけて根絶やしにしようとは考えていなかった。
 
 マフィアとして裏社会で生きるからには、失うこともあれば、奪うこともある。お互い様だ、と。
 それを分かったうえで、フェデリコは平和を求めたのだ。今回の争いで、互いのファミリーは多くを失った。もう十分だ。





 文字通りに致死量ギリギリの鎮静剤を打たれたドラコは、日付が変わった深夜に目を覚ました。
 ドラコの手の上にはアガサの手が重ねられていて、ベッドの端で開かれたままになっている聖書の横に頭を置いて、アガサは眠っていた。
 彼女が傍にいることに心から安堵したドラコは、アガサの手を握り返した。
 アガサが目を覚ました。

「起きたの?」
「無事で本当に良かった、アガサ」
「ガインカルロ先生が、あなたはまた、しばらく目を覚まさないかもしれないって言ってたわ。深刻らしいの」
「俺は死ぬのかな」
「そこまでは言っていなかったけど、胸の中で出血があるって。あんまり暴れたから、塞がりかけてた肺の傷がまた開いたのかもしれないって」
「明日死ぬとしたら、今日俺と結婚してくれる?」
「バカなことを言わないで、絶対に安静にすると約束して」
「アガサが俺の傍にいると約束するなら、ちゃんと医者のいうことをきくよ。……エマとは話したのか」
「うん」
「それで?」
「また暴れたら困るから、無事に退院したら話すわ」
「俺のことが嫌いになったんだな……」
 ドラコの目に涙が浮かんだ。エマに赤裸々に過去の女性遍歴を暴露されて、アガサから愛想を尽かされたに違いないと思ったのだ。
「永遠にあなたを愛してるわ、ドラコ。たとえ、結婚しなくても、たとえ、今夜あなたが死んでもね。目を閉じて」
「どうして」
「キスをするから」
 ドラコは涙を呑み込んだが、目を閉じると頬に涙がこぼれた。
 アガサの両手がドラコの頬を包み込み、唇がそっとドラコの瞼に落とされた。
 ふとあることに気が付いて、ドラコはアガサの両手を掴んだ。
「エマと和解するまでは、キスもお触りも愛しているも禁止じゃなかったのか」
「やっと気づいたの?」
 アガサがクスっと笑った。

「意地悪だな、てっきり、君に嫌われたかと……」
 アガサはドラコに顔を寄せて、あなたがあんまり悪い患者だと聞いたから、少し懲らしめようと思ったの、とクスクス笑った。
「朝になったら、白雄鶏の館に帰ることになったの。その前に私にあの指輪を返してくれる?」
「ちょっと考えさせてもらってもいいかな……」
「ドラコ……」
 今度はアガサが不満そうに顔をしかめて、ドラコが笑った。
 それから二人は見つめ合って、どちらからともなく顔を寄せてキスをした。とろけるような、長くて甘いキスを。

 アガサが先に離れたので、ドラコは名残惜しそうに溜息を洩らした。
「手を出して」
 ドラコは枕の下から裸の指輪を取り出すと、「そんなところにしまっていたの? それ、とても高価な指輪でしょう」、と、アガサがドン引きしているのも構わず、彼女の左手薬指にそれを嵌めた。

「アガサの左手に嵌められてないなら、こんなの1ペニーも価値がない」

 無駄にならなくて良かったよ、と、ドラコは呟いた。

「もしアガサに捨てられたら、その指輪と一緒に地中海に身投げしようと考えてたんだ」
「本気じゃないでしょう?」
「試してみたい?」
「いいえ。でも、あなたはモスクワの運河でとっても上手い泳ぎをしていたから、地中海でもなんとか生き延びるんじゃない」
「そういうところ、ほんと冷たいよな……」

「ねえ、いちゃつき終わったんなら、ちょっと手を借りてもいいかな」

 暗い病室の奥で、ニコライの声がした。
 ニコライはカウチで、モーレックと赤ん坊のマリオをそれぞれ片方ずつの腕に抱えて眠っていたのだ。

「なんか、温かいものが漏れてきて、危険な臭いがするんだ」
「大変……」
 アガサは慌ててニコライの腕の中からマリオを抱え上げた。
「ああー、うんちが漏れてる!」

 アガサが素早くマリオの着ているものを脱がし、慎重にオムツの交換と清拭作業にとりかかっている間に、ニコライは、彼の胸の上でまだぐっすりと眠っているモーレックの体をそっとずらして、上半身を起こし、ベストとシャツを脱ぎ捨てた。

「そんなに小さな体から、どうしてオムツから溢れるほどの物が出るのか不思議だよね」
「ごめんね、ニコ」
「いいけどさ。どうせ、このスーツはもうダメだったよ、君の【夫】になる予定の人が、僕のスーツを先に汚したからねえ」
 アガサが除菌シートを渡すために、ニコライを振り返って、驚いた声を上げた。
「わお、あなたって、逞しい体をしているのね、ニコ」
「おい、君の【夫】になる予定の人が、すぐここにいるんだけど」
 と、ドラコがすかさず釘をさす。

「ごめん、ちょっと想像と違ってたから、ビックリして……」
「僕の体? ……どんな想像をしていたの?」
「もうちょっと、脂肪層が厚いのかなって」
 ニコライは聞いたことを後悔した。
「僕がデブだって思ってんだね? これでもちゃんと鍛えてるんだからねえ、全部、筋肉だよ、ほら」
「ええ、そうみたいね。だから驚いたの」
 アガサはニコライの男らしい上半身を直視しないように視線をそむけて、バッグからシャツを取り出して、それをニコライに差し出した。
 ニコライはそれを受け取って広げて見て、あからさまにイヤな顔をした。『 I♡Italy 』、と胸に大きくプリントされたスペシャルラージサイズのTシャツだったからだ。
「……、これは?」
「お土産屋さんで買ったの。パジャマの代わりにしようと思って。どうぞ、それを着て」
「有難いけど、これは……」
「あなたのセクシーすぎる体はこれ以上見られないわ、ニコ、遠慮しなくていいからはやくそれを着て!」
 ドラコが興味深そうにこちらを見物している。ニコライは仕方なく、Tシャツを裏返しにして着た。

「着た?」
「うん」
 アガサはおそるおそるニコライの方を振り向いた。アガサが着るとちょっとしたワンピースのように着れるそのTシャツも、ニコライが着るとちょうど良いサイズだった。
 アガサは眉を顰めた。
「どうして裏にして着たの? 他の人が見たら、変に思うわよ」
「その方がましだよ。ダサいって思われるよりはね」
「え、ご当地ものの限定Tシャツの、どこがダサいの。可愛いでしょ」
「ダサいよ。この際だから言わせてもらうけれど、ニースで君が着ていた『 I♡LA 』もやばかったよ。あんな服は燃やしてしまうべきだ」
 アガサはぽかんと口を開けて、それから、ニコライの膝を軽くたたいた。もう冗談ばっかり、と言って。

 二人のやりとりの一部始終を眺めていたドラコは、引っかかるものを感じた。
 アガサはニコライの裸を見てセクシーだと言ったが、ドラコはアガサから一度もそんなことを言われたことがない。ドラコだって、ニコライと同じように鍛えているのに。

「俺の体を見たときはどう思った?」
 と、ドラコは聞いてみた。

 これは、応え方を間違うとまたドラコが不機嫌になる流れだな、とニコライは早々に察し、「席をはずそうか」、と言ったが、「そこにいて子どもたちを見ていて」、とアガサに言われたので、立去る機会を逸してカウチにとどまることになった。

 アガサはマリオに新しいオムツをはかせて、予備の肌着に着替えさせると優しく言った。
「初めてあなたの裸を見たときは、肩からドクドク血を流していたでしょ、ドラコは。すごく顔色が悪くて、冷たくなっていて、死にかけていたわよね」
「君は赤く熱したスプーンを俺の肩に押し当てたよね。覚えてるよ。だから俺のことは魅力的に見えなかったって言うのか?」
「いいえ、まさか」
 アガサは大袈裟にかぶりを振った。
「その後に濡れたパンツを脱ぐように、何度も言ったでしょ」
「うん」
「あなたは少しも気づかなかったわけ? 私があなたの可愛いお尻を見たがっているんじゃないか、って」
「冗談だろ?」
「冗談なものですが、私の可愛いお尻さん」
「……、まだ見てないだろ、俺の、お尻は」
 ベッドに近づいてくるアガサを、ドラコは警戒して見上げた。
「直接は見ていないけど、こんな鍛え上げた上半身をしている人は、きっと素敵なお尻をしているはずだ、って思ったのよね。実際、あなたはスーツの上から見てもなかなかいいお尻をしているしね」
「もういい、やめてくれ……」
 ドラコが毛布を引き上げて、ベッドに横になった。
「恥ずかしがらないでよ、私の、可愛い、可愛いお尻さん」
 アガサがドラコの耳元で囁くので、ドラコは毛布を頭まで引き上げた。
「やめろって、ニコライが聞いてる……恥ずかしいよ」

「はいはい、そうやっていつまでもバカみたいにイチャついていればいいよ。僕はひと眠りさせてもらうからね。お気に入りのスーツは台無しになるし、こんなダサいTシャツを裏返して着なきゃならないし、今日は僕の人生の厄日に違いないね」
「あなたのお尻も褒めてほしいの、ニコライ」
「勘弁してくれ……」
「どうかしてるぞ……」
 と、ニコライとドラコがほとんど同時に、呆れたように文句を言った。





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