恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-12


 病院のキッズコーナーには絵本や積み木の他にも様々なオモチャがあったが、モーレックは子ども用の小さな椅子に座り、ニコライの方はカーペット敷きの床の上にあぐらをかいて、二人は木製のチェス盤を挟んで静かに向かい合っていた。
 他の子どもたちが騒いで走り回っている中、モーレックとニコライだけがジッと動かずにチェス盤を見つめているのは、他の大人たちにはとても風変わりな光景に映った。

 アガサは愛し気に、そっと二人に近づいて、盤面を見た。そしてニコリとする。

「あと一手でモーレックの勝ちね」
 
 途端にモーレックが、「ままあ、だーめ!」、と口をとがらせ、ニコライは口髭を手で覆ってアガサを見上げた。

「うそだろ、僕は1歳の子に負けるのかい?」

 ニコライの顔には面白がる気持ちと同時に、子どもに負けることへのショックがありありと共存していた。

「手加減をしてくれたんでしょ?」
「いいや」

 ニコライはナイトを動かし、苦し紛れの反撃の一手を打った。
 モーレックは小さな手でルークをつかむと、それを迷わずキングの横に上らせた。ビショップとルークでキングの逃げ道を塞ぎ、キングが反撃に出れば、モーレックのポーンがいずれにしろキングにとどめを刺す位置に控えていた。――チェックメイトだ。

「ああ、本当に負けた……」
 ニコライが両手に顔をうずめた。
 モーレックが嬉しそうにアガサを振り返った。まるで、いまの見てた?、と言うように。

「すごいわモーレック。チェスの相手には常に敬意をはらって、最後にニコライおじさんとちゃんと握手をするのよ」
 盤面越しに小さな手と握手をしながら、ニコライは言った。
「こんなに小さな子がチェスを覚えるのもすごいけど、まさか初戦で負けるとは思わなかったよ。この子は、……」
「ええ、モーレックは賢いのよ」
 アガサは何でもないことのように言った。
「もういっかい」
 と、モーレックが言ったので、「もうお昼の時間です」、と言って、アガサはチェス盤を片づけさせた。

「僕がモーレックにチェスで負けたことは、内緒だからね」
「もちろんよニコ。モーレックの相手をしてくれてありがとう」
 アガサは落ち込むニコライに感謝を述べ、片手を彼の背中に回して優しくハグをした。

 ニコライと一緒にカフェテリアに移動し、少し空いてきたテーブルを見つけると、アガサは子ども用の台つき椅子にモーレックを座らせた。
「お腹が空いたでしょう、モーレック」
「うん」
 除菌シートでモーレックの両手を綺麗に拭きとってやってから、バッグからストロー付きのボトルを出してモーレックに渡す。
 モーレックはすぐに、チューチューとそれを飲んだ。
「まりおは?」
 アガサの抱っこ紐の中で指しゃぶりをしている弟が気になるのか、モーレックが聞いた。
「マリオはさっきミルクを飲んだわ。パパの部屋でね。あ、おやつがまだよね。これも一緒に食べて、モーレック」
 バッグの中から小さなタッパーを取り出し、蓋をあけてモーレックのトレイに置いた。中に入っているのは、きゅうりと、人参と、大根の野菜スティックだ。

「それが子どものおやつ? 本当に?」
 テーブルを挟んで向かいに座っているニコライが目を丸くする。

 アガサが、「そうよ」、と答えた。
 モーレックがすぐにきゅうりを手づかみして齧るのを見て、ニコライは、「ふうん」、と頬杖をついた。

「子どものおやつって、てっきりビスケットやチョコレートなのかと思ったんだけど、それ、ただの野菜スティックだよね」
「お塩とかつおぶしでちゃんと味付けしてあるし、モーレックは人参が苦手だから、これだけは特別に蜂蜜とバターで味をつけてる。あなたも食べてみる?」
 アガサがそう言うと、モーレックが迷わず、一番大きい人参スティックを掴んでニコライに差し出した。
 ニコライはテーブルごしに身を乗り出して、モーレックの手から一口食べた。
「うん、美味しいけどさ」
「モーレックはまだ1歳なのよ、ニコ。チョコレートは食べられないし、ビスケットは、市販のものは添加物が心配だから与えていないの」
「もしかして君たち、生活が苦しいの?」
「なんですって?」
 唐突な質問に、アガサが破顔してニコライを見つめる。その間にもモーレックは最初のきゅうりのスティックを口に詰め込み、次に大根のスティックを手に掴んだ。
「ああ、モーレック、焦って食べないの。ゆっくりしないと、おえってなっちゃうから」
 まだ口にきゅうりをもぐもぐしているのに、大根スティックに噛り付こうとしているモーレックの手を、アガサが押さえた。
「ごっくんしてからよ」
 母子は見つめ合って、不意にニコニコする。

「おやつに野菜を与えるなんて、ロシアでもあまり聞かないからさ。もしかして、ドラコは十分なお金を君たちに与えていないのかい?」
「まさか! お金なんてもらっていないわよ」
 モーレックが大根スティックを齧り始めた。
「え、だけど、子どもを育てるにはお金がかかるだろ?」
「それはそうだけど、私だってちゃんと仕事をしているし、お金には困っていないわ。彼からお金をもらう必要はないの」
「……そう」
 ただ、イタリアに来るための飛行機と車の手配はドラコがしてくれて、お金も出してくれたことを思い出して、アガサは付け加えた。
 そんなのは当たり前だよ、と、ニコライは思ったが、口にはしなかった。

 ニコライが心配そうにしているので、アガサはさらに言った。

「実はね、私のためにお金を使わないで欲しいって、以前にドラコに言ったことがあるの」
「どうして?」
 ニコライは不思議に思った。男なら、本当に好きな女性には自分の金を使いたいはずだ。

「その時はまだ彼と知り合ったばかりだったから、怖かったの。彼、私のためにベガスで高級ホテルのペントハウススイートをとったり、誕生日のお祝いだと言ってフランス料理のお店を貸し切りにしたのよ。信じられる? 知り合ったばかりなのに。そんな風に無頓着にお金を使う人は、きっと悪い人だと思ったから、控えて欲しくて……。それで言ったの、あなたのお金は使いたくないって」
「ドラコは何て?」
「すごく怒って、アクセルを踏み込んだわ……」
 アガサから当時の話を聞いて、ニコライは笑った。

 アガサの話に真剣に耳を傾けてから、ニコライは聞いた。
「今でも彼を悪い人だと思っているの?」

「いいえ」
「じゃあ、ドラコと結婚するんだね?」
 ニコライはアガサの薬指から婚約指輪が外されていることに気づいていた。
「それは、わからないわ……」
「エマのことなら、」
 と、ニコライが口を開きかけたとき、ちょうど二人の元にエマがやって来た。

「アガサと二人で話がしたいの。席を外してくれる、ニコライ」
「それはどうかな」
「もちろんよ」
 大丈夫だから、と、ニコライに微笑みかけ、アガサはエマに席をすすめた。
 ニコライは何か言いたそうにしたが、しぶしぶ席を立ち上がり、「先にドラコの病室に戻っているからね」、と囁いてカフェテリアから出て行った。

「あなたに謝らなければいけないと思っていたのよ、エマ」
 最初に口を開いたのはアガサの方だった。
「私たちはあなたの気持ちにもっと配慮すべきだった。ごめんなさい、エマ、あなたがドラコのことを愛しているって、私、気づかなかったの。彼との婚約は保留にしたから」
 と、アガサは言った。

 エマは驚いた。
 ドラコの過去の女性遍歴や、ドラコが自分とどんなふうに愛し合ったかを赤裸々に語って、アガサにドラコを諦めさせようと意気込んでやってきたのに、出鼻を挫かれてしまったのだ。

「どういうこと? ドラコとの結婚は諦めるの?」
「実は、そうすべきかもしれないと思っているの」
「ドラコのことを愛していないの?」
「もちろん、愛しているわ。けど、結婚しなくても愛は変わらないし、結婚はこの地上でだけ成立する神の契約だから。私たちの愛が永遠に続くものなら、天国でまた愛し合えばいいと、私は思うの」
「天国でセックスするってこと?」
 エマには意味がわからなかった。

「違うわよ、エマ」
 アガサは優しく微笑んだ。
「私たちはみな、そこで幼子(おさなご)のように愛し合うの。肉体から解き放たれて、霊は一つになる。永遠にね――」
「そんなことを言うなんて、正気とは思えないんだけど……。ドラコは、あなたから捨てられたら、『海に飛び込んで死ぬ』とまで言ってたわよ」
「勝手に言わせておいて。口だけよ」
 アガサはそう言ったが、エマにはそうは思えなかった。

「ドラコと離れて、悲しくないの?」
「悲しいわ」
「それなら、」
「エマだって悲しいでしょ。ドラコがあなたにしたことは、許されないことだと思う。その責任はとるべきだわ。ドラコを失うのと同じくらい、あなたのことも友人として失いたくないのよ、エマ。だから、あなたの考えを聞かせてほしいの。そうすれば完全に決意できるから。ドラコとはもう話したんでしょ?」

 エマは、アガサをまじまじと見つめた。どうしてだか、この小柄なアジア人の女性にはかなわない気がして、エマの瞳に涙が込み上げてくる。

「エマ……」

 アガサがエマに手を伸ばした、その時、病室の方で銃声が轟いた。
 カフェテリアで誰かがトレイを取り落とし、静寂が訪れる。直後、再び銃声が二発鳴って、辺りは騒然となった。

「ドラコ……」
 アガサとエマは同時に顔を見合せた。
「私たちのことはいいから、すぐに行って」
 と、アガサが言った。

 エマは立ち上がり、駆けだした。病室にはレオナルドとニコライがいるはずだから、きっと大丈夫だと思うが、万が一ということもあるかもしれない。エマの心は不安で震えた。
 混雑するカフェテリアの出口で、一人のスーツ姿の男とすれ違った。
 その男の横を通り過ぎるときに、微かな硝煙の臭いがした。スーツジャケットの腰元が膨らんでいる。――銃だ。

 エマが肩越しに振り返ると、アガサがモーレックを抱き上げようとしているのが見えた。
 皆が避難しようとカフェテリアの出口に殺到する中、その男は、真っすぐに彼女たちの方に向かって歩いて行く。
 このまま見なかったことにすれば、アガサとあの小さな子どもたちは撃ち殺されて、……それでドラコは私のものになるだろうか、と、ふとエマは思った。

 男が腰から銃を抜き、アガサに向かって構えるのが見えた。

「伏せて!」

 理屈ではなく体が勝手に動いて、エマは後ろから男にとびかかり、銃を持つ男の腕を両手で掴んだ。

パーン!

 男の持つ銃がカフェテリアの天井を撃ち抜いた。
 エマは男と揉み合いになり、首を捕まれ、腹部を蹴りあげられた。それでも、銃を持つ男の腕にしがみ付き続けた。

「逃げて、アガサ!」

パーン!
 銃弾がアガサたちのいるテーブルに当たり、食器が砕けた。
 エマは床に組み伏せられ、首を締め付けられた。顔を殴られ、銃口がエマの頭に向けられる。すでに二発発射している銃口は熱くなり、額に押し当てられると肉が焦げた。
 エマは必死に抵抗して手足をバタつかせたが、男は強かった。
 死を覚悟した、その時、エマを組み伏せた男が頭を揺らし、力なく倒れた。
 何が起こったのかわからず、喘ぎながら見上げてみれば、そこにアガサがいた。その手には、湯気の立つフライパンが握られている。

 床に倒れた男が汚らわしい言葉を口にしながら起き上がろうとしたのを見て、アガサは男の頭をもう一度フライパンで殴った。
 全く容赦のない、見事な一撃だった。
 男は今度こそ完全に意識を失ってバッタリと倒れ、動かなくなった。

「ああ、神様、お許しください……」
 アガサは手にしていたフライパンを床に放り投げると、一瞬、天を仰ぎ、それから我に返ってエマを助け起こした。

「エマ、可哀そうに」
 アガサはエマの乱れた髪を手で直し、エマをギュッと抱きしめた。
「あなたを失うかと思った……」
 エマを抱きしめるアガサは震えていた。エマも、震えていた。

「子どもたちは?」

 アガサが抱っこ紐をしていないので、エマは急に心配になった。

「ままあ……」

 見ると、テーブルの足元で床の上に座るモーレックが目に大粒の涙を浮かべていて、その小さな膝の上ではマリオが暴れて泣いていた。子どもたちは割れた食器の破片の中にいた。
「大変! テーブルの下に隠れていてと言ったのに……」
 アガサはすぐに子どもたちに駆け寄り、抱き上げた。

 病院の警備員が駆けつけてきて、床の上で伸びている男を取り押さえた。
 当たりは混乱に満ちていたが、カフェテリアから出ると、病室の方でひときわ大きな騒ぎが起きているらしいのがわかった。

「ドラコたちは無事かしら……」
 エマとアガサは不安に顔を見合せて、ドラコの病室に向かった。





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