恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-10


 昨晩遅くにドラコが目を覚ましたことは、その夜のうちに白雄鶏の邸に連絡された。夜中から朝方にかけて、フェデリコとエマをはじめ、幹部連たちや邸の用心棒たちがかわるがわるに、ひっきりなしにドラコを訪ねてきた。皆がドラコの回復を喜び、様々な贈り物を持ってきてくれたが、ドラコが今会いたいのはただ一人、アガサだけだった。

 頭をスッキリさせるために痛み止めのモルヒネを切ったので、少しでも動くと全身に激痛が走った。
 人の話し声さえ痛く感じて、煩わしく、イライラさせられた。
 体中につけられた管も気に入らなかった。頭には脳波を測定するための電極、背中には痛み止めを再開できるようモルヒネのチューブが残されていたし、腕には点滴、手の甲と足にはバイタル測定用のコードが繋がれていた。尿カテーテルは真っ先に外してもらったが、ガインカルロ医師はその他の管はまだ外せないと言った。
 それでも、夜のうちはドラコは耐え続けた。
 朝になれば、アガサに会えると信じて。

 8時になると、食事が運ばれてきた。消化器官を徐々に慣れさせていく必要があるとの説明で、プラスチックの皿に盛られているのはどれもペースト状の流動食だった。そもそも食欲がないところに、そそらない食事が運ばれてきて、それを食べる様に強要された。どれも味が薄く、舌触りがねとっとして気持ち悪かった。
 あと1時間で一般の面会時間がはじまる。ドラコはそれだけを希望に、なんとか食事を食べ進めたが、食べ終わる頃にはどっと疲れて寿命が縮んだ気がした。

 一般の面会時間がはじまる朝9時になってもアガサは姿を現さなかった。
「彼女は子持ちだもの、そう身軽には動けないわよ」
 と、エマは言った。なぜかその言い方がとても気に障ったので、ドラコはエマを追い払った。誰にも病室に入ってきてほしくないと伝えた。

 見張り役のニコライだけが病室の外の扉の前に立った。

 廊下を人が通るたびに、ドラコはアガサの姿を探した。
 でも昼になっても彼女はあらわれず、また気分を下げる流動食がプラスチック皿にのせられて運ばれてくると、ドラコは不安になり始めた。
 昨晩のうちにアーベイから、ドンがアガサと子どもたちの命を狙った経緯は聞かされていた。
 ドンはそのことについてドラコに謝り、アガサとの結婚を認めると言ってくれた。
 だから彼女たちの身の安全は保証されたはずだが、ノストラ―ドの残党がどこかに潜んでいるかもしれないし、もしかするとファミリーの中にも彼女たちの命を狙う者がいるかもしれない、と、悪いことばかりが頭に浮かんだ。

 午後1時を目前にして、もしかしたらアガサが生きているというのは、嘘なのかもしれない、とまで思い始めた。

 バイタルを示すモニターが刻む音の間隔が早くなった。
 ドラコはイラッとして、手と足からバイタルモニターに繋がるコードを引き剝がして床の上に捨てた。ツー、という心拍停止の警戒音が鳴り、たちどころに医療スタッフが病室に駆けこんできた。

「ベータ波とデルタ波が上昇、強いストレスを受けて、興奮していますね」
 と、その医療スタッフが言ったので、ドラコは頭につなげられている電極も引き剥がして、投げつけた。

「もう待てない、退院するよ」
 ドラコはそう言うと、腕と背中に繋がっている点滴の管も乱暴に引き抜き、床の上に捨てた。血が垂れて、シーツを赤く染めた。
「ドクターを呼んで!」
 と看護師が叫んだ。
 ベッドから起き上がろうとするドラコを女の看護師が抑えようとしたが、ドラコは軽々押しのけた。ニコライが入ってきて押さえつけなければ、ドラコはベッドから抜け出していただろう。
「鎮静剤を!」
「やめろ、放せ!」
 大柄なニコライでも押し返されそうなほど、ドラコはすさまじい力で暴れた。
 ガインカルロ医師がシリンジに薬剤を吸い上げ、ドラコに近づいて来た。
「やめろ、わかった、わかった! わかったから、それを打つのを止めてくれ!」
 と、ドラコは叫んだ。

 床の上に散らばる電極の束や点滴の管と、零れる輸液、したたる血液。病室内は惨憺たる状況になった。
 ガインカルロ医師は鎮静剤を入れたシリンジを掲げてドラコに見せると、怖い目で患者を睨みつけた。

「私の許可なく一歩でもベッドから出てごらんなさい。次は容赦なくこれをあなたに打ちます。次に婚約者がきたときに、また眠っていたくはないでしょう?」
 ドラコの弱点をついた、意地悪な言い方だった。この医者は本当に怒っているのだ。
「返事は?」
 と言われ、ドラコはベッドのテーブルの上の盆を床の上にぶちまけた。

 ガインカルロ医師がまたドラコを睨む。ドラコも反抗的に医師を睨み返した。
「いつ退院できる?」
「私には患者の命を守る権限が与えられている。君が『良い子』になるまでは、退院は認められませんね」
 それからガインカルロ医師は威厳に満ちた態度で病室から出て行ったが、去り際に、「また暴れたら次は拘束しますよ」、と警告することを忘れなかった。

 ドラコが床に流動食をぶちまけたので、ニコライのお気に入りにスーツが汚れた。
 ニコライはこれは自分の手には負えないと判断し、すぐにレオナルドに電話して、アガサを連れてくるように頼んだ。
 




 そんな騒ぎがあったとは知らずに、昼の1時過ぎにアガサは病院に到着した。
 ドラコはウィンドウごしにすぐにアガサに気づいたが、病室に入る前にガインカルロ医師がアガサを呼び止めた。
 医師と目が合い、ドラコは両手を小さく上げて抗議した。するとガインカルロ医師は人差し指をドラコに向けて、ベッドから出るなよ、とでも言いたげに怖い顔で睨んできた。

 レオナルドに抱かれたモーレックがこっちを見ている。心配そうな顔をしている。
 マリオは抱っこ紐の中だ。アガサは、医師の話に真剣に耳を傾けていて、まだこっちを見ない。

「あの医者、わざと長話をしているんじゃないか。担当を変えてもらいたい」
 誰に、とでもなくドラコが文句を言うと、見張りのために病室内のカウチに座っていたニコライが、
「医者の方も患者を選べないんだろうねえ。可哀そうに」
 と、むしろガインカルロ医師の方を哀れんで言った。

 ようやくアガサが病室に入ってくると、ドラコは胸が締め付けられて、彼女から少しも目がそらせなくなった。
 話したいことがたくさんあったのに、言葉が詰まって出てこない。

「二人で話をしたいなら、僕がモーレックを預かろうか」
「ままといっしょ」
 と、モーレックはすかさず警戒したようにアガサの足にしがみついた。
「ままっこだなあ。カフェの横のキッズコーナーに、チェスがあったよ。よければ、この前の続きをやれるけど?」
 ニコライの誘いに、モーレックは目を輝かせてママを見上げた。
「いってきていいわよ、モーレック。バッグの中にジュースとおやつが入っているからね」
 アガサはニコライに子ども用のバッグを渡した。ニコライはそれを受け取ると、片腕で軽々とモーレックを抱え上げた。
「ありがとう、ニコ。……そのスーツの汚れ、どうしたの?」
 ニコライはベッドのドラコに視線を投げた。
「不機嫌絶頂の彼が昼食をぶちまけたんだ。ほとんど全部僕にかかったんだよ、ひどいよね」
 アガサは哀れむようにニコライの腕をさすり、彼らを病室から送り出した。

「そうだ、ドラコがベッドから降りそうになったら、すぐに医者を呼んでね。致死量ギリギリの鎮静剤を打ってもらうことになっているから」
 そう言ってニコライは面白そうにアガサにウィンクした。


「これでやっと二人きりで話ができる」
 ニコライがいなくなると、ドラコは言った。
「お医者様の言うことをちゃんと聞かなきゃダメじゃないのドラコ。昼食を一口も食べなかったそうね。だから、夕飯はちゃんと食べる様に【見張って】くれって、ガインカルロ医師に頼まれたわ。あなたは酷く手のかかる患者だって」
「病院は嫌いなんだ」
「子どもみたいなこと言わないで」
 アガサは抱っこ紐をほどいて、マリオをカウチの上に寝かせた。
 マリオはご機嫌で指しゃぶりをしている。そろそろミルクの時間だ。手早くオムツを替えて、ウエットティッシュで手を消毒し、持参した魔法瓶のお湯を哺乳瓶に注ぎ入れてミルクを作る。ドラコは愛し気にその様子を眺めていた。

「ドンが君たちに何をしたか聞いたよ。危険な目にあわせてすまない」
「いいのよ、多少は覚悟していたし、レオナルドが助けてくれた。でも、やっぱり、子どもたちを傷つけられるかもしれないと思ったときは、とても恐ろしかったわ」
 アガサは腕に抱いたマリオにミルクを与えた。
 吸い口を食みながら喉を鳴らして、マリオはしきりにアガサに何かを話しかけているようだ。二人は見つめ合って、母子にだけわかる会話をしているように見えた。

「車から飛び降りたって聞いたよ。レオナルドがフェデリコに報告したそうだ。怪我はなかったのか?」
「命に関わるような大怪我はしなかったけど、一歩間違えば危なかったと思うわ。私、必死で……。ドラコ、あなたはノストラ―ドファミリーの要塞に一人で攻め入ったんですってね。どうしてそんな無茶なことをしたの? 最後に話したとき、無茶なことをしないでと言ったのに」

「アガサを失ったと思ったから、仇をとって、俺も死のうと思ったんだ」

 淡々と語るドラコの言葉に、アガサは耳を疑い、深刻な表情になって顔を上げた。

「死のうとしたの? どうして……」
「生きている意味がないと思ったから。もう終わりにしたかったんだ、こんな世界で一人で生きるのは」
「そんなふうに考えるのは間違っているわ、ドラコ」
「そうかな」
 ドラコの目には、初めて会ったときと同じように悲しみが満ちていた。アガサいない世界で生きることを考えるのは、ドラコには今でも辛すぎた。

「だって、あなたにはエマがいるでしょう」
 と、アガサは言った。
「……、エマ?」
 まるで初めて聞く名前であるかのように、ドラコは首をかしげた。
 アガサは決心して話を切り出すことにした。
「エマから聞いたのよ。あなたは、私が白雄鶏の邸を出た後にすぐ、エマと結婚すると言って、彼女と、……関係をもったんでしょ」
 涙が溢れそうになるのを、アガサは必死にこらえた。でも、努力も虚しく涙は零れた。

「アガサ……」

 ドラコはベッドの背もたれから体を起こし、足をおろした。

「ダメよ! ベッドから降りないで」
「そっちに行きたいんだ」
「待って待って、私がそっちに行くから」

 アガサは慌ててカウチから立ち上がり、マリオを抱いたままベッドサイドの椅子に移動した。

「ほら、足を戻して、横になって」
 アガサが片手を添えて、ドラコの体を元の通りベッドに戻すと、毛布を掛け直してくれた。

「君を愛しているんだ、アガサ」

 アガサはドラコから目をそらして、マリオに集中した。

「他には何もいらない。アガサ、こっちを見ろよ」
「エマのことはどう思ってるの」
「あれはドンとの取引だったんだ。邸に帰るとアガサがいなくて、一晩中探したけど見つからなくてパニックになった。あのときは、そうするしかないと思ったんだよ」
「それはドラコとフェデリコさんとの間で交わされた取引で、エマは関係ないでしょ。彼女はあなたを愛しているのよ、ドラコ。あなたと結婚できると思って、あなたと関係を持ったはずだわ」
「頼むよアガサ、こっちを見てくれ」
 アガサは顔を上げた。

「エマを傷つけるとは、少しも考えなかったの? あなたの軽薄な行ないのせいで」
「君のことしか考えられなかった。あの時は、他の誰が傷ついても構わないと思った。けど、……俺が間違っていたんだな」
「そうよ、あなたはそんな取引に応じるべきじゃなかった。エマのためにも、私のためにも」
「ごめん」

 二人は互いに目に涙をうかべて、見つめ合った。

「俺のことを、まだ愛してる?」
「あなたが死んだとしても永遠に愛しているし、今は、あなたを殺したいほど怒っているわ。まさか、婚約中に他の女性と関係をもつとはね。もし私が同じことをしたら、どうするつもり?」
「相手の男は誰だ? 殺してやる」
「ダメよ、そんなこと。暴力で解決するのじゃなく、ちゃんと和解をするの」
「どういう意味?」
「私たちは、エマと和解をしなければいけないわ、ドラコ。彼女が許してくれるまでは、私たちの婚約は保留にしましょう。お触りもキスも愛しているもなし。これは、一度あなたに返すから」

 アガサはそう言って、左手の薬指から指輪を外してドラコに差し出した。

 絶対に彼女が欲しい、と、ドラコはその時改めて確信した。彼女を生涯愛し抜き、彼女の愛に浴したい。

「わかった」

 ドラコはアガサから指輪を受取り、真剣な顔で頷いた。

「浮気するなよ」
「あなたに言われたくない」





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