恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 7-1


 地中海に面する港湾都市サヴォナはノストラ―ドファミリーの領域だ。
 リグリア海岸を臨む高台の上に建つプリアマール要塞。
 はるか500年以上前に建設されたこの歴史的建造物こそが、ノストラ―ドファミリーが本土で活動するときのアジトだ。
 古代の軍事建築家によって設計された威厳ある石造りの構造は、まさしくノストラ―ドファミリーの軍事力と野心を反映している。
 
 地上のならず者たちはおろか、警察でさえ近寄ろうとしないこの場所に、今、漆黒のフェラーリが砦に向かって、石橋を走り抜けていった。
 外門を護衛していた数人がそれに気づいて、予定されていない訪問者の正体を確かめようと近づいた。
 フェラーリからゆっくりと降り立ったドラコは、前触れもなく突然に、護衛たちを撃ち殺した。

 ドラコはサイレンサーを使わなかった。
 自分が来たことを要塞にいる全員に知らしめるかのように、グロックの銃声を轟かせた。

 凶悪な殺人蜂の巣を叩くようなものだ。たちどころに城壁の中に男たちの怒号が飛び交い、あちこちで明かりが灯り始める。

 ドラコは両手に銃を掴んで、城の正門に続く石畳の道をゆっくりと進んでいった。





 ドラコがノストラ―ドファミリーのアジトに単独でのり込んでいった、その少し前。
 白雄鶏の館で夕食を終えたニコライは、とても寂しい気持ちになって、アガサの部屋に立ち寄っていた。
 今は誰もいないその部屋に明かりをつけて、辺りを見回す。アガサと子どもたちがいないだけで、その場所はとても味気なく、冷たく見えた。

 おそらく、ここを出ていく直前までモーレックを寝かせていたのだろう。ベッドの上には、子ども用の小さな毛布がよじれたまま置きざりになっていた。
 せめて苦しまずに、逝ったのならいいが。ニコライは静かにベッドに腰かけた。
 アガサはニコライの心を優しくしてくれる純粋な女性だった。モーレックは賢くて可愛らしい赤ん坊だ。チェスを教えたら、なぜかポーンという駒をとても気に入ったようで、手を放さなくなった。あの小さな手の力が、ニコライは忘れられない。そして裏切者のマリオの子の、マリオ。その名前をドラコがつけたと知って、ニコライはドラコの覚悟を悟った。

 どうして、純粋で善良な者たちが早死にするのだろうか。
 不意に目頭が熱くなり、視界が濁って、ニコライは指で目を押さえた。
 その時、ベッドの足元でバイブ音がした。
 ニコライは屈みこんで、そこにドラコの携帯電話が落ちているのを見つけて拾い上げた。着信画面には、見覚えのない番号が出ている。

 通話ボタンを押して、耳に押し当てた。相手が何も喋らないので、ニコライは首をかしげる。
「もしもし?」
『……、ニコ?』
 それがアガサの声だったので、ニコライはビックリして心臓が飛び出そうになった。
「アガサなのかい? もしかして、天国から電話をかけてきているの?」
『やっぱり、私が死んだと思っていたのね。あなたもグルなの? ニコ』
 アガサの声は、どこか切羽詰まっていて、疑心暗鬼になり、イラついているようだった。
「……、何のこと?」
 ニコライには何のことやらさっぱり見当がつかなかった。

「アガサ、今、どこにいるの?」
『それは言えない。私が生きていることが知れれば、レオナルドの命が危険なの』
「なんだって?」
『よく聞いて、ニコ。フェデリコさんは私を殺すように、レオナルドに言ったみたいなの。でも、レオナルドは直前になって考えをかえて、私たちを見逃してくれた』
 にわかには信じがたい話だったが、ニコライは冷静にアガサの言葉に耳を傾けた。
「じゃあ、子どもたちも無事なんだね」
『ええ、私たちは安全なところにいるから心配しないで。それをドラコにも伝えてほしいの。私たちの身に何かあったと知ったら、ドラコが何か無茶をするような気がして、とてもイヤな胸騒ぎがするのよ』
「わかったよ、アガサ。すぐに伝えよう。君とは、どうやったら連絡がとれる?」
『この使い捨て携帯電話を買ったんだけど、携帯での連絡は危険なのよね?』
 そのとおりだ、と、ニコライは思った。
「こうしよう。ガゼッタというタブロイド紙があるんだ。イタリア国内なら、どこででも手に入る。その広告欄を利用して連絡を取り合おう」
『わかったわ。でも、どうやって見分けたらいいの、まさか本名は使えないでしょう?』
「君の名前はニコラシカ、僕の名前はコニャックだ。誰か来た、切るよ」
 邸の用心棒たちが部屋に入って来たので、ニコライは怪しまれないようにスーツのポケットに電話を滑り込ませた。
 アガサを慕っていた用心棒たちも、ニコライと同じように彼女を悼むためにこの部屋を訪れたようだった。

 ニコライは男たちにその場を譲って部屋を出ると、ドラコの部屋に向かった。
 だが、ドラコはいなかった。念のため部屋を調べてみたら銃が一つも見当たらなかった。
 つまり、フル装備で出かけたということだ。

 まさか、何らかの手掛かりを得てドラコは真実を知り、ドンに手をかけるつもりでは……、そう思ったニコライは慌てて部屋を飛び出した。
 ニコライはリビングのテラスから、ドンが一階の書斎のテラスにいるのを見つけた。
 ドンは娘のエマと同じ毛布にくるまって寝椅子に横になり、仲睦まじく何かを楽しそうに話していた。子どもの名前は、とか、結婚式は、という単語をかすかに聞き取って、ニコライの胸はムカついた。

 リビングに戻ると、アーベイが近づいて来た。
「バーで一杯やらないか? しっぽり飲みたい気分なんだ」
 ニコライはその誘いにはのらずに、代わりに、「ドラコを見なかったかい?」、とアーベイに聞いた。見ていない、というので、ニコライはアーベイの腕を掴んだ。
「ちょっと、一緒に来てくれ」
 他の幹部たちは今回の件では信用できなかったが、アーベイのことは信じられた。

「どうしたっていうんだ? 俺なら、愛する女と子どもを失えば、部屋に引きこもって虚しく泣いているか、あるいは、自分が生きていることを呪って自殺の方法でも考えている頃だと思うね。いずれにしても、ドラコは今は一人でいたいはずだ」
 アーベイ自身も今回のことではまいっているようで、ゾッとするようなことを言うのだった。
 ともかく、ニコライはアーベイとともにガレージに行き、ドラコのフェラーリがなくなっていることに気づいた。

「まずいな……」
 ニコライの顔が強張る。
「どうしたんだ?」
「銃は持っているかい、アーベイ」
「ああ、いつも持ってる」
 アーベイは腰のホルスターに入っているワルサーをニコライに見せた。
「5分後にここに集合、フル装備で」
「わけを説明してもらおう」
「詳しくは車で話すよ。アーベイ、今は誰も信用できない」
 アーベイは訝しんだが、ニコライの緑がかったグレーの瞳がこれ以上ないくらい冴えていた。こういう目をするときのニコライが確信的で、正しい、ということをアーベイは経験的に知っていたので、「だからお前はロシアの変態だなんていう異名を与えられるんだぞ」、と嫌味を言いながらも、アーベイはニコライに従った。

 きっちり5分後、ニコライとアーベイはアルファロメオに乗り込んで、白雄鶏の館を出発した。
 曲がりくねった道を猛スピードで下っていくニコライの運転は荒かった。
「こんなに飛ばす必要があるのか!? 目的地に着く前にブドウ畑に突っ込んで肥やしになるのはごめんだぞ」
 と、アシストグリップに掴まりながらアーベイが毒づいた。

「アガサは生きていたよ、アーベイ」
「……、なんだって?」
「さっき、彼女と話した」
 ニコライはアガサから聞いた話を余すことなくアーベイに打ち明けた。

「あのオヤジもついにもうろくしたのかね、堅気の女と、あんな幼い子どもたちを殺そうとするとは」
「ドンは、ドラコとエマのこととなると、見境がなくなるからねえ。親心なんだろうが、確かに、今回はやりすぎだと僕も思う」
「アリからの報告を聞いた限りじゃ、サヴォナでノストラ―ドに見つかって殺されたように思えた」
「きっとドラコもそう思ったはずだ。でも、今になって思い返してみるとドラコは、そうなるように、ドンが仕組んだんだと考えたに違いない……」

「俺だったら、ドンを殺す」
「ドラコはそうしなかった。単独でノストラ―ドに乗り込み、おそらく――死のうとしている」
 ニコライの言葉を聞いて、それは十分にあり得る話だ、とアーベイは思った。
 アーベイ自身も、かつて事故で妻と息子を失ったときには、殺した相手に復讐して、自分も死にたい気持ちになったものだ。そんな彼を思いとどまらせてくれたのが、かつての仲間たちだった。今度は自分が、ドラコを思いとどまらせる番なのかもしれい。
――ノアと、ヘンリーと、ジョナスだ。ただの部下なんかじゃない、お前の大切な家族だと、知っているよ
 不意にドラコの優しい声が脳裏をかすめ、アーベイの胸をしめつけた。

「もっとスピードは出ないのか!?」

 すでに危険なほどスピードを出しているニコライの横で、アーベイがもどかしそうに怒鳴った。





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