恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-9
リビングの幹部連が座るテーブルは、一番の上座が空いたままになっている。そこはフェデリコの席だからだ。
上座の右手側に、フェデリコの弟のイデリコが座り、その下にイタリア本部の幹部であるジョバンニとアレサンドロ。彼らはフェデリコとイデリコの従弟にあたる。その隣に、上海を取り仕切る双子の兄弟チェンとフォン――チェンには夜明け、フォンには風という意味があるらしい。そして一番端に、イギリス支部を古くから守っている紳士、ベドウィルが座っていた。彼はとても謙虚なので、好んで下座に座っている。
上座からみて左手側に、ドラコ、エマ、ニコライ、アーベイが並んで座り、最近幹部に仲間入りしたニューヨーク支部のジョーイと、モスクワ支部のルイスが続いていた。
上座のフェデリコと向かい合うように一番の下手に座っているのは、シンガポール支部を任されているアリという男だ。シンガポールは、中華系、マレー系、インド系と様々な民族が住まう他民族国家だが、彼はマレー系だ。アリというマレー系の名前には、「優れている」、という意味がある。
幹部になってもう長いアリが一番下手に座っているのは、彼の体がとても大きいからだった。
慎重は2メートルを越え、腕もお腹も足も、はちきれるばかり豊かな肉で出っ張っていた。
フェデリコが一度だけ、テーブルに座るアリを見て、『一番遠くに座っているのに一番近くにいるように感じる』、と愛情を込めて口にしたことがあった。幹部たちは大笑いしたものだが、アリはそんな巨体をしているのに実際動くととても素早かったし、頭脳も明晰だったから、皆、彼のことを他の仲間たちと同じように畏れ敬い、大切に思っていた。
アルテミッズファミリーの幹部は全部で12名だ。エマはドンの娘であって、食卓を共にする家族ではあるが、幹部ではなかった。
皆が食事に集中していたこともあり、昼食の席での会話は少なかった。
昨晩のコンコルゾについては誰も言及しなかったし、ドラコが勝利したので、アガサや子どもたちのことについても、もう誰も余計な口を挟むつもりはなかった。
あとは彼らのドン、フェデリコが決めることだったからだ。
真っ先に皿を空にしたイデリコが、食後のエスプレッソを求めてキッチンに立った。
行ってみると、全員分のカップと、ミルクと砂糖がすぐに使える様にトレイの上に準備されていて、あとはエスプレッソマシンのボタンを押すだけの状態になっていた。
気の利いた女だな、と、イデリコは思ったが、口には出さなかった。
用心棒たちの分も含めて、イデリコが全員にエスプレッソを入れた小さなカップを回してやると、その食後の一杯を口につけて、男たちは至福の溜息を洩らした。
何人かの者たちは、昼食のおかわりを求めて自らキッチンに立った。
こんなに美味い食事は久しぶりだった。
あの女には、後で礼を言ってやらなければいかんな、と、イデリコは心の中で思った。
二日酔いでムカムカしていた胸がスーッと溶けて、気持ち悪さが体から抜けていくのが感じられた。
◇
ジョーイは昼食を綺麗に平らげたが、他の幹部たちのようにおかわりはしなかった。それをすれば、【彼女】を認めてしまうような気がしたからだ。
対面的にはジョーイはアガサに対して人懐っこく、穏やかに振舞っているつもりだったが、内心では彼女のことをまだ受け入れられずにいた。なるほど、料理は美味い。それは確かだ。だが、家庭的な女ならどこにでもいる。
チェスの世界チャンピオンであるイデリコに簡単に勝利したアガサは、そうだな、認めよう、きっと賢い女性なのだろう。
だが。と、ジョーイは思った。
――あの女にボスはもったいない。
ジョーイはドラコのことを今でも自分のボスとして、心から慕っていた。
両親が何日も家に帰らず、食うに困ってストリートで男娼をせざるを得なかった10代のジョーイを救い、守ってくれたのがドラコだった。
ドラコはジョーイに【真っ当な商売】を教え、身を守る術を教え、ダメな家族から引き離し、彼をファミリーの仲間に迎え入れてルールを教えてくれた。今のジョーイがニューヨーク支部を任される幹部にまで昇りつめたのは、すべてドラコのお陰だった。
完璧な男には、完璧な女が似あう。
例えばエマのような――、と、ジョーイは食事の間中ずっと考えていた。
いずれはドラコがエマと結婚し、アルテミッズファミリーの次期頭首を引き継いでいくものとばかり思っていた。
それなのにドラコは、背の低い、アジア人の、パッとしないデニムとコットンシャツの女に、何故か夢中なのだ。
これは何かの間違いで、ドラコの一時の気まぐれに過ぎないとジョーイは考えたかったが、アガサの左手薬指にはめられている指輪を見ると、激しく胸が騒いだ。
――まさか、本気じゃないですよね、ボス。あの女はダメです。
◇
食後にドラコは真っすぐにアガサの部屋に行き、ノックもせずに中に入ると、スーツジャケットを手近な椅子の背にかけて、許可もなくベッドの上に倒れ込んだ。
窓際のダイニングテーブルで食事をしていたアガサとモーレックがそれに気づき、「ぱぱ?」、とモーレックがママに確認している。
アガサが何かをモーレックに耳打ちした。
「俺のことをちゃんとパパだと教えてくれてるんだろうな。ここ何日かまともに顔を合わせていなかったから、なんかそいつ、俺を見る目が冷たくなっている気がする……」
ベッドの上で肘をついて、ドラコがぼやく。
「この子、パパと一緒にお昼寝したいって。そっちにやってもいい?」
「おいで、モーレック」
「その高そうなスーツに涎がつくかもよ」
「かまわないさ」
アガサはベビーチェアからモーレックを降ろし、汚れた服を脱がせて肌着姿にした。念入りに口周りの涎をガーゼで拭き取ってから、モーレックを放す。
解き放たれたモーレックは裸足でとことこ駆けてくると、自らの力で器用にベッドによじ登って、ドラコの腕の中に慎重に転がり込んだ。
金色を帯びた水色の目はキラキラして愛らしく、プラチナブロンドの髪は以前よりも伸びて、猫の毛のように柔らかだった。
モーレックはドラコの腕の中で横になり、身振り手振りでしきりに何かを伝えようとしているようだった。
文脈ははっきりしないが、ところどころに聞き取れる、ニコ、ポーン、ちぇす、やる、という単語から、
「チェスをやりたいのか?」
と、半分眠りそうになりながらドラコが問うと、そうだ、と、モーレックは頷いた。
「いいよ、後でぱぱとチェスをしよう。一緒にママを負かして、マッサージをしてもらうんだ。全身、くまなく……」
ドラコは言いながらモーレックを抱き寄せて、そのまま眠ってしまった。
アガサは二人に毛布をかけて言った。
「モーレックも、ねんねよ」
「ぱぱとちぇす」
「うん、お昼寝の後にね」
「まま まかす……」
眠りに落ちていくモーレックと、珍しくグッスリ眠っているドラコのそれぞれに、アガサはそっとキスをした。
「それはどうかしらね」
と、勝ち誇った笑みで囁いて。
ドラコとモーレックが眠っている間、アガサは赤ん坊のマリオとの二人きりの時間を楽しんだ。
古城に来たばかりの最初の一か月は泣いてばかりの赤ん坊だったが、生後二か月を迎えようとしている今は、マリオは良く笑う、可愛らしい赤ん坊になっていた。ただし、この子は元来がとびきりの甘えん坊のようだ。アガサを見るとすぐに抱っこをせがみ、ミルクの時間にはアガサの注目を一身に集められると知って、アガサの目をニコニコ見上げながら、ゆっくりゆっくり飲んだ。
ドラコの友人のマリオとアナトリアは、きっと心からこの子を愛していただろうから、いつかこの子が大きくなったら、本当のお父さんとお母さんのことを、話さなくてはならないな、とアガサは切ない気持ちで考えていた。それでも、マリオのことを実の我が子として育てる決心は揺らいでいない。
「私があなたを守るから、いつか天国で本当のお父さんとお母さんに会うまでは、私のことをママと呼んでね」
アガサはマリオの小さな頭を撫でて、おでこに何度もキスをした。
◇
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