恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-10
その日の午後遅く、イデリコがわざわざアガサの部屋まで、夕飯にピザを作ることを知らせにやってきた。
良ければイタリアの本格ピザの作り方を教えてやらなくもないが、と言われて、アガサは喜んで誘いに応じた。
グッスリ眠っているドラコとモーレックを部屋に残して、アガサはマリオを抱っこ紐で胸の前に抱えて、数分後にはイデリコについてキッチンに立っていた。
「ルールその1、イタリアではピザは一人一枚だ。アメリカでやるように、巨大な一枚のピザをみんなでシェアしたりはしないからな」
そう言って、イデリコはカプート粉の入った麻袋を作業台の上に出した。カプート粉は、イタリアのカプート社が、現地イタリアの小麦を収穫して製粉した小麦粉で、時間をかけてゆっくりとすり潰す伝統的な製粉技術によって、上質できめが細かく、デンプンと小麦本来の豊かな風味を引き出しているのが特徴だ。
「ルールその2、ピザを食べるときはビールや炭酸、何でも飲んでいい。ただし、絶対にワインだけは飲まない」
「どうして?」
「ミスマッチだからだよ! イタリア人は、ワインは他のものを食べるときに飲むんだ」
ワインとピザがどうしてミスマッチなのかは感覚的にはわからなかったが、それって、日本人がお寿司を食べるときにラムネを飲まないようなものかしら、とアガサは考えた。
「わかったわ」
「ルールその3、ピザは行儀よく、ナイフとフォークで食べる。手で掴んで食べるような野蛮な真似をしてはいけない」
「トッピングは何にするの? 好きなものは何を入れてもいいのかしら?」
ノッ、ノッ、ノッ、と、イデリコはアガサの顔の前で、人差し指をメトロノームの針のように振って見せた。
「アメリカンピザは【異端児】だ。パイナップルを入れるようなハワイアンピザは、あれは【サタン】だ! 我が家ではピザは絶対に、トマトとモッツァレラとバジルで食べるんだよ」
イデリコはイタリアのピザについて熱弁を奮うと、今度は作り方についてアガサに教えてくれた。
はじめにカプート粉を冷水で解いて、ドライイーストと塩を加え、10分間捏ね続ける。それから濡れ布巾をかぶせて、常温で1時間発酵させる。
発酵が完了して生地がふっくら膨らんだら、小麦粉をまぶしながら整形し、ピザの形に薄く伸ばす。
生地の上に最初にのせるのは、形の残ったゴロゴロした自家製のトマトソースだ。その上にバジルの葉を少なくとも5枚は敷き、モッツァレラを1個まるごと千切ってトッピングする。さらにお好みのチーズを刻みかけるが、ゴルゴンゾーラか、パルミジャーノ・レッジャーノチーズがお薦めだ、と、イデリコは言った。
仕上げにオリーブオイルを回しかけたら、パーラーに乗せ、400度の窯で2分焼きあげて完成だ。
途中、アガサは何度かイデリコの手を止めさせた。
「生地に加える塩は、もう少し多い方がいいんじゃない?」
「おふくろのレシピなんだよ」
と、イデリコは口ごもった。
「レシピを見せて」
とアガサ言うと、イデリコは擦り切れた、古いノートをキッチンの棚から取り出して見せてくれた。
びっしりと几帳面な字が埋め尽くされ、丁寧に色を塗った絵まで描かれている。
レシピには、250gのカプート粉に冷水160g、そこに塩6gを加えると書かれていたが、イデリコが加えた塩はほんの一つまみだった。少なすぎる。
トマトソースを作るときは、塩小さじ【3分の1】と書かれているところを、小さじ【3杯】入れようとしていた。今度は多すぎる。
塩だけではなく、スパイスなどの細かな調整が必要なものの分量を、イデリコは大抵、読み間違えていることにアガサは気づいた。
「あなた、もしかしてディスレクシアなの?」
字を読み書きするのが苦手な、ある種の脳の機能障害だ。日本語では識字障害とも言う。
アガサの言葉に、イデリコがハッとして振り返り、傷ついた表情をした。
「子どもの頃に頭を強く打ってな。以来、字を読もうとすると焦点が合わない。書くのはまだなんとかなるんだが……」
「そう。それでどうしてあなたが不味い料理を作るのかがわかったわ、イデリコさん」
「口の減らない女だ……」
イデリコはムッとしたが、怒るというよりも、恥ずかしそうに口を引き結んで、アガサから視線を反らした。
「苦手なことがあるなら、助けを求めればいいのよ。恥ずかしいことじゃないんだから」
アガサはイデリコの強張った肩をポンと叩いた。
「今から私があなたのお母さまのレシピを読み上げるから、しっかり【覚えて】ちょうだい。チェスの世界チャンピオンなら、それくらいできるでしょう?」
返事はしなかったが、イデリコは腕を組み、キッチンカウンターに寄りかかって頭を垂れた。集中して、耳を澄ますように。
「一度しか読み上げないから、よく聞いて」
アガサはゆっくりとレシピを読み上げた。イデリコは真剣に、ジッと耳を傾けていた。焦点の定まらない瞳が瞬きすることなく床を見ていた。
「なるほど、そうだったのか」
アガサが読み終えると、イデリコは納得したように頷いた。
それ以降はとてもスムーズに作業が進んだ。思った通り、イデリコはたった一度で、アガサが読み上げたピザのレシピを暗記したのだ。
イデリコの料理の手際は熟練のコックさながらで、調理器具の扱いは丁寧で素早かった。正しいレシピさえ頭に入ってしまえば、彼は優れたコックに違いなかった。
「ああ、じゃまじゃま! 子持ちの女は、本当に動きがとろくて困るね。いいから俺に任せるんだ」
と脇に押しやられて、アガサはほとんど、ピザの生地をこねる手伝いをしただけになってしまった。
生地をこねるとき、指の間に柔らかく粘り気のある小麦粉が絡まるので、アガサは婚約指輪を薬指から外して、首のチェーンにかけた。これまでにも何度か、手を汚す仕事をするときには指輪を外し、首にかけるようにしていたのだ。
ピザ生地を発酵させている1時間のうちに、イデリコが他にも料理を作りたいと言い出したので、ママん直伝のレシピの中から、二人は茄子と生ハムのアンティパストを選んで、アガサがそれを読み上げた。
イデリコはよどみなく料理にかかり、随所でアガサに味見をさせた。
そのたびにアガサは舌鼓を打って、イデリコの料理の腕と、ママんのレシピを褒めた。実際、古城に帰ってからもドラコに作ってあげたいと思うほど、その料理は美味しかったので、アガサも良い機会とばかりに、イタリア料理の知識を吸収した。
「オリジナル料理は作らないの?」
と、アガサが聞くと、イデリコはあくまでも「おふくろの味」を、大切にしていて、それをいつも兄者や、仲間たちに食べさせてやりたいから料理をしているのだ、と教えてくれた。
ママんのレシピは分厚いうえに、何冊もあったので、そのすべてを食べきるには1年あっても足りなさそうに見えた。
その晩のイデリコの料理が大好評だったのは言うまでもない。
ファミリーの仲間たちはイデリコが急に料理上手になったことに驚いたが、ママんの味を知る古い幹部たちは、『これぞ古き良きイタリアの味、ママんの味だ』と、懐かしみながら喜んだ。
アガサが子どもたちと夕食をとるために部屋に下がろうとすると、イデリコが感謝を込めてアガサに視線を投げ、他の誰にも気づかれないほど微かに会釈をしてきた。
気難し屋のガミガミおやじがその時だけはやけに可愛らしく見えたので、アガサは思わずニコリとして、だが、敬意をこめて会釈を返した。
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