恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-11


 その日の夜遅く、パパとチェスをやるんだと言って聞かないモーレックをなんとか寝かしつけてベッドに入ったアガサが、あと少しで夢を見始めようとしていた矢先に、ドラコが部屋に入って来た。

 暗闇の中で、ドラコはベッドに横たわるアガサの上に覆いかぶさると、
「指輪はどうしたんだ?」
 と言って、アガサの左手を持ち上げた。

 アガサは驚いて、反対の手でパジャマの首元からチェーンを引っ張り出し、リングがそれにかかっているのを見せた。
 ピザの生地を捏ねるときに首にかけたのを、忘れていたのだ。

「ちゃんとここにあるわよ。どうしたの?」
「アガサが指輪を外していたせいで、今夜、俺がどんなに不安だったか……、嫌われたのかと思った」
「生地をこねるのに、汚しちゃいけないと思って」
 アガサは上半身を起こすと、すぐに首からリングをとって、それを自分の左手の薬指に嵌め直した。
「これまでだって、何度かはずしたことはあるのよ。あなたが気づいていなかっただけでね。どうしても、手が汚れる仕事をするときには、……」
 と言いかけたときに、急に、ドラコがアガサの唇を塞いで、そのままアガサはベッドに押し倒された。

 ベッドの上でドラコがアガサの体に馬乗りになり、片手でアガサの手を押さえつけて、何度も、激しくキスを求めてくる。
 やがて唇を押し開けられて、ドラコの舌が彼女の口に入ってくると、アガサは声を上げてもがいた。
 ビックリして、ドラコの肩を押し返そうとするが、ドラコの肩幅はアガサよりもずっと広くて、胸板も厚い。強く押し返しても、なかなか離れなかった。

「ドラコ、どうしたの」
 息継ぎをするかのように、一瞬だけ唇が離されたとき、アガサはようやく喋ることができた。
 いつもと何か違う、余裕のない様子のドラコに、アガサは戸惑った。――何か、あったのだろうか。
「不安なんだ。こっちに来てからずっと、アガサを失うような気がして」
「やっぱり私、殺されるの?」
「まさか! そんなことは絶対にさせないし、その時は俺が死ぬから心配しなくていい。……そうじゃなくて、」

 ドラコは言い淀んで、アガサの首元に力なく顔をうずめた。

「どうしてか、アガサが俺から離れていく気がするんだよ……。俺は、君から捨てられるんだ」
「私はずっとあなたの傍にいるって、向こうを発つ前に約束したでしょ。あなたにも死んでほしくないから、無茶はしないと約束してよ」

 と、不安になってアガサが言うと、ドラコのおでこが、アガサのおでこにピタッと合わされた。
 そうして睫毛が互いの肌に触れるほど近くで、二人は見つめ合った。
 婚約指輪をはめたアガサの左手に、ドラコの指が絡まり、握りしめられる。ドラコが、「俺の指輪を絶対に外さないで」、と掠れる声で囁いた。

「それは俺の愛の証明で、今はそれだけが唯一、俺とアガサを結び付けているものだから」
 と。
 アガサは空いている方の手で、ドラコの背に手を回して優しくさすった。
「それは分かったけど、ドラコ」
「約束してくれ」
「でも、子どもたちのウンチがついたときは外してもいいでしょう? ちゃんと洗わないと……」
 不意に、ドラコが口元をゆるめた。
「ついたの?」
「何回かね……」
「きたないなあ」
 ドラコがアガサから離れて、少しだけ笑った。

「そうだ、ドラコ。あなたに誕生日プレゼントを用意したの。ささやかな物だけどね」
 アガサはドラコを押しのけてベッドから出ると、ドレッサーの上から小さな小箱を取り上げて、それをドラコに差し出した。

「誕生日おめでとう」

 差し出されたそれを、ドラコはベッドの上に座り直してから受け取って、慎重に開けた。中にはキーホルダーつきの鍵が入っていた。
 キーホルダーには文字が刻まれている。――家族のいる家に私は帰る。なんという恵み、なんという喜び。

「古城の鍵よ。あなたにまだ渡していなかったから」
 確かに、ドラコはまだ、アガサから古城の鍵を渡してもらっていなかった。
 けれど、ドラコにとってはそれは大した問題ではなかった。なぜなら、ドラコが一緒に住むようになってから、アガサは古城に鍵をかけることがなかったし、もっというなら、合鍵なら、ドラコはアガサに許可をとることなくもう勝手に自分で作っていたから。

 けれど、アガサの手から古城の鍵を渡してくれたのは嬉しかった。
 あの場所にドラコが住むことを彼女が心から受け入れてくれたという、証だと感じられたからだ。

「そのキーホルダーは、もとは私が使っていたものなんだけど、あなたにあげる」
 チタンのプレートに文字が刻まれただけの、シンプルなキーホルダーだった。
「春川家では、家族みんながそれと同じキーホルダーを持っているの。それは、家族の証よ」

 ドラコがはっとして、アガサを見上げた。

「もしかして、気に入らない……? もっと、高級なものがよかったなら、向こうに帰ってから、」
「いや、嬉しい」
 と、なぜかつっけんどんに、ドラコが言って、今度はうつむいた。暗い部屋の中で、ドラコの表情はよく見えないが、もしかして、
「……泣いてるの?」

 ドラコが鼻をすすった。
「こんなに嬉しいプレゼントをもらったのは、生まれて初めてだよ。――家族の証とはね」
「ええ、家族よ。どんなときも、同じ場所に帰るの。あなたと私と、子どもたちみんなと住む家に」
――「ああ、一緒に帰ろう」

 ドラコはアガサの手をつかんで引き寄せて、彼女を強く抱きしめた。

 一人になることを好んで通っていた暗い廃墟で、嵐の夜にアガサと出会い、そこは安らぎを得られる住まいへと変わった。
 アガサはいつもそこに帰ってくる。1歳になったモーレックと、まだ赤ん坊のマリオも、そこに帰る子どもたちだ。家に帰ると、ドラコが街で拾った猫のモーニングが出迎えてくれる。
 まだほんの短い時間だったが、アガサと出会い、共に過ごしたあのロス郊外の古城が、ドラコにはその時、とても恋しく感じられた。

 ドラコはベッドに座ったまま、抱き寄せたアガサの胸元に顔をうずめ、深く息を吸い込んだ。
「今夜、もしかして俺は君を抱けるのかな?」
 唐突な言葉に、アガサは耳を疑った。
「どうしてあなたは、そういう発想になるのよ。道を外れないで、ドラコ」
「だって、家族だって」
「神の前で、結婚の誓いをするまでは、私たちはただの婚約者です」
 ドラコがアガサを見上げた。
「ちょとだけ順番を逆にしたって、……あッ、イッタ!」

 アガサに思い切り頭に一撃を加えられて、ドラコは驚いてアガサから手を離した。
 またしてもグーで殴られたのだ。

「最低! 今すぐに部屋から出て行って。あなたはいつも、ロマンチックなムードを下卑た言動で台無しにするのね、ドラコ!」
「俺たちのロマンチックなムードに水を差しているのは、アガサの方だろ」
 そう言い返しながらも、殺気にも近いアガサの怒りを感じ取って、ドラコはのろのろとドアに向かって歩き出した。
「出て行って!」
「ケチ」
「プレゼントが気に入らなかったんなら、今からでも他の物に替えましょうか」
「違うよ、このプレゼントは気に入った。もう何回かベッドインしていたっておかしくないのに、いまだにお触りもさせてくれないから、ケチだって言ったんだ」
「何ですって!?」
 扉を開けて振り返ると、怒ったアガサが枕を投げつけてきた。
 ドラコは寸でのところでそれを交わすと、「愛してるよ、俺の愛しい人」、と言って、部屋から出て行った。

 ああいう軽口さえなければ、彼は本当に素敵なのに、とアガサはその晩は頭にきてしばらく寝付けなかった。
 女性的な魅力の低い堅物のアガサに対しさえあのように振舞うということは、他のもっと魅力的で、性に開放的な女性たちに対してはどのような態度をとるのか。そんなドラコのことを考えただけでも恐ろしくて、アガサは腹が立って仕方がなかった。





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