恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-12
イデリコが美味いピザを作った日の深夜のこと。上下白いスーツに、白いシルクハットをかぶった初老の男が白雄鶏の館の門をくぐった。
用心棒たちが邸のエントランスに整列する中を、イデリコが進み出て行き、熱い抱擁で男を出迎えた。
その夜、アルテミッズファミリーのドン、フェデリコは密やかに白雄鶏の館に戻って来た。
「幹部たちを集合させるか?」
「いや、今はいい」
と、フェデリコは穏やかに言った。
「早朝、夜明けとともに皆を集めてくれ。今夜は、お前と二人きりで話がしたい、イデリコ」
10歳も年の離れた兄と互いに肩を抱き合って、イデリコはフェデリコの書斎に入った。
重厚なマホガニーのデスクの前で、フェデリコが背もたれの高い本革の回転椅子に深々と腰かけると、イデリコは机をはさんで向かいの、サテン張りの椅子に腰かけた。
「何か飲むかい、兄者」
「いや、今はいいよ。お前こそ、ブランデーはどうだい」
「いやいや、しばらく酒は一滴も飲みたくないんだ」
そんなやりとりをしてから、フェデリコは何気ない調子で、弟に問いかけた。
「ドラコが連れてきた女について、お前の見立てを聞かせてくれ」、と。
弟であるイデリコはすぐに、それこそが兄の一番の関心事であり、【本題】であることを悟る。
「イタリア語が驚くほど下手だよ」
と、開口一番にイデリコは言った。「ほお」、と、小さな相槌を打って、兄のフェデリコは頬杖をついて身を乗り出した。
「まるで、言葉を覚えたばかりの少女のような、舌足らずな喋り方をする。だが、」
息を継いで、イデリコは思ったままを口にした。
――「あれは賢くて、善良な女だ」
弟であるイデリコの真贋が確かであるということを、兄であるフェデリコはよく知っていた。そして、その言葉がイデリコからの最大の賛辞であるということも。
フェデリコは静かに頷いた。
「確かにそれは、優れた美徳と言えるな。しかし、将来、アルテミッズファミリーをしょって立つ男の【妻】に、その娘は相応しいだろうか」
真剣な表情でしばしの間考えてから、イデリコは残念そうに首を横に振った。
「あの女は、マフィアの世界にはそぐわないよ、あの女は……アガサは優しすぎる。だからこそ、ドラコは彼女を愛しているのかもしれないが……」
それからイデリコは、アガサが白雄鶏の館にきてからのことを、事細かにフェデリコに話して聞かせた。
イデリコは、実に様々なことに目を行き届かせて、アガサのことを子細に観察していたのだ。
ロシアから引き取った子どもと、マリオの赤ん坊が、とてもよくアガサに懐いていること。彼女は子どもたちの扱いがとても上手くて、愛情深いこと。
夜眠る前にアガサが歌う子守歌を、いつのまにか、邸の用心棒たちが口ずさむようになったこと。
用心棒たちはアガサから用事を言いつけられたり、お小言を頂戴することを迷惑がっているが、それは時に少女のようで、時に母親のようなアガサにどう接したらいいか分からずに彼らが戸惑っているだけで、本当は彼女のことを、みんなが好きになってきているということ。
イデリコはアガサに立場を思い知らせるためにベットを申し込んだが、驚くことに、世界チャンピオンのイデリコの方がチェスで瞬殺されてしまったこと。
これには、兄のフェデリコも驚いて目を見開いた。
ベットに挑む際の駆け引きを見守っていた幹部たちの多くが、いつの間にかアガサに心を開いて、彼女に興味を抱くようになったこと。
だから、イデリコは幹部たちの不安を煽るようにマフィア間の抗争について触れ、ドラコにコンコルゾをけしかけたのだ。
だが、それも失敗に終わり、大酒飲みのニコライとアーベイは離脱するし、その他の幹部連はイデリコ自身を含め、全員がドラコに吞み潰されたことを、イデリコは包み隠さず兄に報告した。
フェデリコが不在の間、邸を守り、幹部たちをとりまとめるよう命じられていたドラコは、これまで通り有能に責務を全うした。
そんなドラコがアガサの前でだけは、これまでにイデリコたちが見たことのないような、優しい表情を見せるので、イデリコにはそれがとても危うく感じられるのだった。
「どうすれば、あの子に諦めさせることができるだろう」
フェデリコは疲れたように眉間に手を当てて、項垂れた。
ドラコがここまで一人の女に入れ込むのは、初めてのことだった。いつかエマと結婚させるまでは、ドラコがどんな女と付き合おうが気にも留めなかったフェデリコだが、今、イデリコの話を聞いて、アガサという女の影響は思っていた以上に大きく、ドラコが彼女に本気であることは疑いようがなかった。
まさかドラコが、ここまで一人の女に本気になれる男だとは思いもしなかった。
エマからのアプローチを鼻にもかけない男が、あんなアジア人の女に。
しかもエマと結ばれて欲しいというフェデリコの秘かな願いを、ドラコは当然、わかっていたはずなのに。
親心に、フェデリコは大きなショックを受けた。
「無理に奪い取れば、あの子を失うかもしれない」
あの子、と。フェデリコはいつも、ドラコのことを愛情を込めてそう呼んだ。
「ドラコに諦めさせるのは難しいだろうな。一方でアガサは、金や脅しで動くような女ではない。だとすれば、消えてもらうしかないだろう」
感情のこもらない静かな声でイデリコは続けた。
「事故にみせかけるか、ノストラ―ドにやられたことにするか、何でもいい。俺たちと関われば、そんなのはよくあることだ」
それは良い考えかもしれなかった。
もし、他に打つ手がないとわかったときには、その選択を取らざるを得ないことも当然あるだろう、とフェデリコは思った。
「育てられた恩があるだろう、と言ってやったら、ドラコは生意気に俺に言ったよ。――忠誠を誓い、信頼を得ている、とな」
それはそうだろう、と、フェデリコは思った。
忠誠と信頼は表裏一体だ。忠誠を誓わせる相手に取引をもちかけてはならない。
アルテミッズファミリーの主従関係は、隷属にあらず、家族の信頼関係の元に成り立っているのだ。
だから、結婚相手を決める権利は、もちろんドラコにある。
ドラコは聞き分けのいい、賢い男だ。かといって、決して言いなりになる男ではない。
アガサと縁を切らせて、なんとか娘のエマとドラコを結婚させたいが、今やそれは思いのほか難しそうだった。
「明朝、幹部たち全員に仕事を与えて邸から離れさせる。私がアガサと、直接話をしてみよう」
アガサの弱みを知れば、彼女の方からドラコを諦めてくれるかもしれない、と、フェデリコは微かな希望にすがった。
フェデリコは苦悶の表情を浮かべて弟を見つめた。
「ああ、イデリコ。穏便にすむことを祈っていてくれ」
さもなければ、フェデリコの中にいる悪魔が目覚めて、囁く。――消してしまえと。
奪うことは、わけもないことだ。
理由は何でもいい。当初の計画の通り、マリオの裏切りの咎を負わせて赤ん坊と一緒に女を始末してもいい。事故やノストラ―ドに殺される線も、大いにあり得る。
もちろん、そんなことをすればフェデリコの良心は苛まれるだろう。それでも、ドラコを失うよりはずっとましだった。
もしドラコが本当にアガサという女と結ばれてしまえば、フェデリコは彼を永遠に失うような気がしたのだ。
フェデリコはそれを強く恐れていた。
◇
次のページ 第6話13