恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-13
早朝の物騒がしさでアガサは目を覚ました。
いつもは用心棒の誰かがアガサの部屋に朝食を運んでくるのに、その日はイデリコ自らがやってきた。
「何かあったの?」
「ノストラ―ドの動きが活発になってきていてな、皆、対応のために出ることになったんだ」
ということはドラコも行ってしまうのね、と、アガサは思った。
もしかしたら激しい撃ち合いになるのかもしれない。怪我をしなければいいけれど……。
そんなアガサの心中を察してか、イデリコが励ますようにアガサの肩を叩いた。
「なあに心配はない、【俺たちは】な。今日は屋敷の用心棒たちも出払っているから、お前さんは好きに過ごしていろ。ただし、敷地の外には出るなよ」
「あなたも気を付けてね、イデリコさん」
短い挨拶を交わして、イデリコは踵を返した。
他の幹部連たちとともに邸を後にしながら、イデリコは胃のあたりが締め付けられるような、なんともやりきれない不快感に襲われた。
あの女がどんなに賢く、善良であっても、――きっと兄者は彼女を排除するだろう。
むしろ、アガサの美徳が際立つほどに、兄であるフェデリコは彼女を【脅威】と考えるはずだった。
それほどまでにフェデリコはドラコを溺愛し、ドラコをアルテミッズファミリーの後継者にすることに全霊を注いでいるのだ。
早ければ、今日にも……。
幹部連たちに急ぎでもない用事を言いつけて邸から遠ざけたのはそのためだろう、と、イデリコは察した。
◇
男たちの去った白雄鶏の館は、なぜかとても冷たく、寂しげだった。
午前中の間、【その女】は子どもたちを連れて邸の図書室で本を読んだり、音楽室でピアノを弾きながら、子どもたちに歌を歌って聴かせたりしていた。
この冷たい邸の中で唯一温もりがあるのは、その女の存在だろう、と、フェデリコは他人事のように思った。
簡単な昼食を済ませた後にロシアの赤ん坊が、お昼寝をスキップしてお外に出たいと女に言っていた。
白雄鶏の館に来てからというもの、彼女たちは一歩も外に出ていないらしかった。ドラコが、彼女たちを守っていたのだ。
その日はとても気持ちの良い青空の日だったので、女はきっと、外に出るのはいい考えだと思ったに違いない。
いささかやりすぎに思えるほど入念に厚着をさせた子どもたちを連れて、女は庭に出て行った。
11月下旬のピエモンテ州はツンと冷え込んで、吸い込む空気にはやがて訪れる雪のにおいがかすかに混じっていた。
「寒くない、モーレック?」
と、女が問うと、あいむ おけ― 、と、まだ1歳だというロシアの子どもが器用に答えた。子どもによって違いはあれど、かつてエマを育てた経験から、果たして1歳の子はあんなに上手く喋れただろうか、と、フェデリコは不思議に思った。
女に手を引かれて危なっかしく歩いていくその子は、「ままは?」、と見上げて、首のところを指さした。女は、緩んでいた自分のマフラーをきつく手繰り寄せて、「大丈夫よ」、と答える。モーレックに向けられるその女の眼差しは、母親のそれそのものだった。女は、胸の前にもう一人の赤ん坊、――裏切者のマリオの子を大切そうに抱えていた。
白雄鶏の館の庭は、秋の最も美しい時期を迎えていた。
粒の大きい黄土色の土が敷かれた花壇には、ダリアやアスターなどのキク科の花々と秋咲きの薔薇が咲き誇り、幾何学的に配置された生垣はフェデリコ自身が端正に手入れをしているので、まだ青々と茂っている。庭の外周に植えられている広葉樹は鮮やかに色づいて、名残惜しそうに少しずつ、葉を落とし始めている。
――少し、話をしないか。
フェデリコは静かに落ち葉を踏んで彼女たちに近づき、自己紹介をした。
彼の正体を知った彼女は、彼を恐れるのでもなく、蔑むのでもない。ただそうあることが当然であるかのように温かな視線を注いできた。
フェデリコは初めてその女と対面してみて、予想外に心が安らぐのを感じて戸惑った。
不思議な女だった。
邸での生活に不便はないかと尋ねると、女は、とてもよくしてもらっていると礼を述べ、邸の機能的な過ごしやすさや家具のセンスの良さ、庭の美しさについても、控えめに称賛の言葉を添えてくれた。
もし、これがドラコの相手でさえなかったなら……。
フェデリコは本題に入らなければならなかった。
はじめにドラコのことを、ファミリーに欠かせない大切な存在だということを、フェデリコは穏やかな口調で女に説明した。
今回のノストラ―ドファミリーとの抗争においても、ドラコが幹部たちの中心となって大きな働きをするだろう。
ゆくゆくはドラコをアルテミッズファミリーの後継者として、エマと結婚させたいと計画している、と、フェデリコは言った。
――ドラコを諦め、子どもたちを連れてここから立ち去ってはもらえないだろうか。
アルテミッズファミリーは危険な状態にあり、ここに留まれば女自身にも子どもたちにも危害が及ぶ可能性がある。手を切るなら今だ、と。
フェデリコの言葉には説得力があった。実際、彼は人を説得する能力に長けていた。
だが女は、「ドラコと直接、話をさせてください」、と言ってきた。
フェデリコの話を聞いて傷ついた表情を見せはしたものの、怒ったり、泣いて動揺を露わすことは少しもなかった。
深い湖の底のような、穏やかで豊かな心を見た気がした。それが愛だとすれば、きっとどこまでも深く澄んだ青色だろう。
その瞬間に、ああ、やはりダメだったか、と、フェデリコは確信した。
――穏便には済みそうにないよ、イデリコ……。
彼の中の悪魔が、静かに目を覚ました瞬間だった。
――わかった。
と、フェデリコは答えた。
もちろんそれは口先だけの回答で、実際にはもう二度と、女とドラコを会わせるつもりはなかった。
それからフェデリコは女とともに穏やかに午後を過ごして、他愛のない会話を楽しんだ。
早めの夕食を一緒につくって、一緒に食べた。
夕食の席では、ノストラ―ドファミリーがもうじきこの邸にも攻めてくる可能性があることに触れた。
フェデリコは女に、食事がすんだら急いで荷造りをして、子どもたちを連れて安全なホテルに移るようにすすめた。ドラコにも後でそこに向かわせるからと言って。
女は従順に、フェデリコに従った。
フェデリコは秘かに邸に残しておいた用心棒の一人、レオナルドを呼びつけた。
――女と子どもたちを始末しろ。
遺体は車ごと、サヴォナの断崖へ捨て、もし見つかったとしてもノストラ―ドファミリーの仕業に見える様に偽装すること。
彼女を殺したら、婚約指輪を回収して持ち帰ること。
なるべく苦しませずに、手早く行うこと。
フェデリコの指示は細かく、明快だった。
忠実なる用心棒のレオナルドは、顔色一つ変えずにフェデリコの命令を聞き終えると、黒のマセラティに女たちを乗せて邸を出て行った。
◇
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