恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-14


 ノストラ―ドファミリーがシチリア島を出てイタリア本土に上陸したことを、幹部たちは早朝の会合でドンであるフェデリコから知らされた。
 敵の包囲網がどこまで伸びているかを探るために、ドンは、幹部連の全員と、邸の用心棒たちを街に送り出した。
 だが、ドラコは訝しんだ。
 なぜなら、ノストラ―ドファミリーはシチリア島から本土に上陸する際は、いつも決まって、船でサヴォナ港を利用するからだ。だから、本土全域を調査する必要があるはずはないのに、ドラコが派遣されたのはトリノから車で片道4時間以上もかかる、サンマリノだった。

 サンマリノはイタリア半島の中東部に位置する共和制国家で、人口はおよそ4万人弱、国土面積は60平方キロメートルという、小国だ。公用語はイタリア語だが、イタリアとは国家を分けるサンマリノは、これまでに侵略や短期間の占領を受けたにも関わらず、ローマ教皇の強い後ろ盾を得て世界最古の独立共和国として承認されている。山中の断崖絶壁の上にあるサンマリノは、地政学的な重要性の低い国土を持ち、かつ、侵略を企てる敵勢力が急死をとげるなどの幸運によって、何か特別な力に守られているような国だった。

 もしかしてフェデリコは、ローマ教皇がノストラ―ドに荷担することを懸念しているのだろうか。
 ニコライとルイスがローマ、バチカン市国に遣わされたのもそのためなのか……?

 車を飛ばしてリミニを目指し、国道72号線を走って見晴らしのいいサンマリノ市街地に到着したのは昼少し前だった。
 そこからドラコは一日かけて、教会や、主要な政府機関を調べ、街全体の様子をくまなく観察してみたが、ノストラ―ドファミリーの痕跡を見つけることはできなかった。夜には早々に、サンマリノにはノストラ―ドの手は及んでいないと結論づけて、ドラコは白雄鶏の館に引き返した。





 夜10時に白雄鶏の館にたどり着くと、ドラコはすぐにドンに呼びつけられた。
 邸の用心棒たちや、幹部連たちのほとんどがまだ戻ってきていなかったので、邸の中はいつもより静かで、どことなく不気味だった。

 ドンの書斎に入り、椅子をすすめられたが、ドラコは丁寧にそれを断った。

 
「ドラコ、お前の忠誠を、私は心から信じている」
 唐突にドンは言って、重厚なアンティークのデスクの上に、小さなケースを置いてドラコに見せた。
 それを見た瞬間に、ドラコは心臓に氷の刃を突きたてられたような衝撃を受けた。手に取ってケースを開けると、アガサにプロポーズしたときに贈った婚約指輪が美しくも寂しげに輝いていた。

「今日、彼女と話をしたよ」
 低く穏やかな声でそう言われて、ドラコは全身から血の気が引いて行くのを感じた。
「そして彼女は去った」

「どうして……」
 ドラコの口から、思わず震える声が漏れた。だが、ドラコはすぐに正気を保つために息を深く吸って、ドンに尋ねる。
「彼女は今、どこにいますか」

 ドンはゆっくりと、小さなメモをデスクごしにドラコに差し出してきた。
「サヴォナのホテルに滞在すると言って出て行った。お前と話をしたいと言っていたよ」
 半分は嘘で、半分は本当だった。真実の混ざった嘘は、ドラコにも見分けにくい。ドンが相手だと尚のこと。

 メモを受け取って足早に書斎から出て行こうとするドラコを、フェデリコは呼び止めた。

「ノストラ―ドの脅威が迫っている。彼女と子どもたちは、我々から離れていた方が安全だろう」
 ドラコはゆっくりとフェデリコを振り返った。
「それならばなぜ、アガサと子どもたちをイタリアに連れてくるように俺に命じたんですか」
 その声色に怒りの色が含まれていることに、フェデリコは気がついた。

「お前の彼女に会ってみたかったのだ。赤ん坊のことは、ノストラ―ドとの和解の交渉に使えるかもしれなと考えたからだ。あるいは我らの悲しみを少しでも慰めるために、あの赤ん坊を殺すことも考えたからだ。だが、そうしなかったのは私がお前の忠誠を信じ、お前が皆の反対を押し切ってもあの子を【生かしたい】と私に言ったからだ。そうであるならば、何を失っても守らなければならない」

「もちろん、そのつもりです」

「彼女には目前に迫る脅威について包み隠さず話した。そして彼女は、子どもたちの安全のために、ファミリーから、ドラコ、お前から離れることを選んだのだ」

「アガサと話をしてきます」

「もちろんだとも。気のすむまで話をしてくるといい」

 ドラコは出て行った。
 閉ざされたうす暗い書斎の中で、フェデリコの暗く濁った瞳が鈍く光った。

 サヴォナのホテルに彼女がいるというのは、嘘だった。真実の中に隠した、ただ一つの嘘を、【あの子】はどこまで信じただろうか。
 彼女のクレジットカードを用いてホテルにチェックインしたように偽装したが、実際、彼女と子どもたちはもう、この世には存在しない。
 フェデリコは祈るように手を組んだ。あとはドラコが頭を冷やして、エマと向き合ってくれるのを待つだけだった。





 ドラコはドンの書斎を出ると、すぐにアガサの携帯の番号をダイヤルした。電源が入っていないか、電波の届かない所に……という機械メッセージが虚しく流れた。
 アガサが使用していた部屋には慌ただしく荷造りをした形跡があって、彼女のスーツケースと、子どもたちのバッグがなくなっていた。

 ドラコは邸を飛び出して、サンマリノに向かうために一日中乗り回していた黒のフェラーリのスーパーファストに再び乗り込んだ。
 運転席に乗り込むときに、キーを落とした。
 ドラコの手は震えていた。

 過去は忘れたと思っていたのに、幼い頃に路上で母親に置き去りにされた記憶が鮮明に蘇り、惨めな焦燥感と恐怖心が胸を締め付けた。
 子どもたちを守るためにアガサは一時的に俺から離れただけだ、永遠に捨てられたわけではない、と思いたかった。

 クーネオから港町のサヴォナまでの道を車で1時間ほど走る間、ドラコは何度もアガサに電話をかけ続けた。
 そのたびに機械音が流れるだけなので、不安が募っていった。

 ホテルのエントランスに車を乗り捨てて、ドアマンに呼び止められるのを振り切ってフロントデスクに向かい、ルームキーをもらった。
 エレベーターがやけに遅いので、非常階段を駆け上り、息を切らせて部屋に飛び込んだ。
 そこには誰もいなかった。
 部屋は暗く、アガサがこの場所にいたという痕跡は少しもなかった。

 フロントデスクに戻って問い合わせると、記録上はチェックインがされたことになっていたが、二人の幼児を連れたアジア系の女性を誰も見ていなかった。
 イタリアで、日系の容姿をした女性が、二人も赤ん坊を連れて歩いていれば、必ず誰かの目に留まっているはずだった。

 ドラコにはわけがわからなかった。
 エントランスから車をどかせと言ってくるドアマンを無視して、ドラコは再び車に乗り込み、サヴォナの街を巡った。
 サヴォナの街にある5つのホテルをすべて回ったが、アガサの特徴に合致する宿泊客はいなかった。念のため病院にも行ってみたが、やはり見つけられなかった。
 ロサンゼルスにいるラットに連絡して、イタリアからの出国記録を調べさせたが、それも空振りだった。

 彼女は消えてしまった。

 チェックインだけしたように見せかけて、行方をくらます。そんなことを、アガサがするだろうか。
 どうして彼女は、邸を出るときにドラコに電話をくれなかったのだろうか。
 婚約指輪を置いて行ったのは、どうしてだろうか。――それは俺の愛の証明で、今はそれだけが、俺とアガサを結びつける物なのに。
 スーツジャケットのポケットの中で、ドラコは苦い気持ちでそれを握りしめた。今になって怖気づいて、彼女は本当にドラコの元から去ったのだろうか。

 冷静になれ。冷静になるんだ。
 いつもならもっと、頭が働くはずだった。
 なのに今夜は、アガサに捨てられたのではないかという不安が先に立って、ドラコはどうしても考えに集中することができなかった。

 サヴォナの港には、ノストラ―ドファミリーが所有する大型のクルーザーが停泊していた。
 サヴォナはノストラ―ドファミリーの領域だった。山側はアルテミッズが、海側はノストラ―ドが、暗黙の了解で棲み分けることで、互いの接触を避け、平和を守って来たのだ。これまでは――。

 なぜアガサは、サヴォナにホテルをとったのだろう。
 ドンはなぜ、アガサがサヴォナに行くことを止めなかったのだろう。そこに近づけばノストラ―ドと接触する危険が高いと知っていて、なぜ。何かがおかしい。

 もしかしてドンは、わざと危険な所にアガサを向かわせたのだろうか。と、ふと恐ろしい考えがドラコの脳裏をかすめた。

 ドラコにはすぐに、二つの合理的な理由が思い浮かんだ。
 一つは、ノストラ―ドとの全面抗争を避けるためだ。ドンは、アガサと赤ん坊のマリオを差し出せば、あるいはブラトヴァの血を引くモーレックを差し出すことで、ノストラ―ドと何らかの取引をしたのかもしれない。
 もう一つは、エマとの関係のために。ドンは、アガサがいなくなれば俺がエマと結婚する気になると考えたのかもしれない。

 あり得ることだった。
 もしドラコの推測が正しければ、アガサと子どもたちはすでにノストラ―ドの手に渡されてしまった可能性が高い。
 そう考えたとき、ドラコは今すぐにも行動を起こさなければならない、と考えた。
 本当にアガサと子どもたちの身に危険が迫っているとしたら、時間はないはずだ。
 ドラコにとって、彼女たちの命を脅かされることは、自分が捨てられることよりも恐ろしいことだった。

 さんざんアガサを探して街中を駆けずり回ったドラコは、やがて一つの結論を得て、夜明けとともに白雄鶏の館に引き返すことにした。





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