恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-8


 二日酔いで幹部連の多くが臥せっているという話を聞いて、アガサは昼食にリゾットを作ることにした。
 リゾットなんかでは腹は満たされない、と、用心棒たちは不満そうだったので、アガサは彼らのために大量の牛リブ肉をほろほろになるまで煮込んだ。

 昼頃になると、顔色の悪い男たちがゾンビのようにリビングに這い出してきて、おのおのにテーブルについた。
 テーブルの上の特大ウォーターポッドには、ココナツウォーターに切り出したレモンがたっぷりと浮かべられていた。

「まずは水分補給よ、皆さん!」
 アガサは具合の悪そうな男たちがテーブルにつくたびに、彼らのグラスにたっぷりとココナッツウォーターを注ぎ入れて回った。
「二日酔いの要因の一つは、低血糖と脱水なの。糖を代謝するにはビタミンが欠かせないから、まずはこれを、命の水だと思ってがぶ飲みすることね」
 快活すぎる、舌足らずなイタリア語は二日酔いの男たちの頭にギンギンと響いた。
「おい、誰かあの女を黙らせてくれ、頭が割れそうだ……」
 イデリコが両手で頭を抱えてテーブルの上に突っ伏した。
 見事な反応速度で、アガサはイデリコの言葉にピンと触覚をつきたてて、さらに男たちに言った。
「二日酔いの頭痛は、アルコールの代謝産物であるアセトアルデヒドによって、血管が拡張してしまっていることが原因と考えられるわ。そんなときは、血管を収縮させるカフェインを摂取するのがいいんだけど、そうだ! 食後にエスプレッソを出しましょうか?」

 男たちは耳を塞いでいるので、アガサのその質問には誰も答えなかった。

「いるの? いらないの? はっきりして」

 アガサの幼女的なイタリア言葉が、キリキリと棘をもってリビングに響き渡った。
「い、いります」
「ああ、それで……」
「黙ってくれるならなんでもいいよ……」
「うう……」

 口々に歯切れの悪い返答が漏らされたのを聞いて、アガサは心底呆れて、大げさに溜息をつきながらキッチンに引き返して行った。


「ひどいわね、これは一体、どういうことなの?」
 リビングに入って来たエマが、だらしのない幹部連たちを見回してイヤな顔をした。
 ニコライがエマに答える。
「彼らは昨晩、盛大にコンコルゾをやったんだけど、みーんなドラコに潰されたんだよ。バーにあるサンブーカを全て飲み干したあげくに、最後はアブサンで締めくくったらしい。バカだよねえ」

 キッチンで昼食の支度をしているアガサの代わりに、ニコライはいま、モーレックを膝に抱えてチェスを教えてやっているところだ。
 一つ一つの駒を手に取って持たせて、その名前を教えてから、初期位置への配置を見せているのだ。1歳になったばかりの幼児に理解できるはずないのに、と、エマは不思議に思ったが、意外にもモーレックは、涎を垂らしながら目を輝かせて、真剣にそれを聞いている。
 そんな二人の横で、アーベイはソファーに優雅に腰かけて、何かまた難しそうな本を読んでいた。

「あなたたちは参加しなかったの?」
 他の幹部連がみんな潰れているのに、ニコライとアーベイだけがいつも通りに過ごしているのを見て、エマが訊ねた。

「僕は美味い酒が飲めればそれで満足だからねえ、昨日はほどよく飲んで、早めに抜けたんだ」
「アーベイは? あなたはコンコルゾが大好きでしょ」
「別に。昨日は参加する理由がなかったもんでね」
 二人が興味もなさそうに口々に答えると、
「僕は、コンコルゾが一度どんなものか経験してみたかったんです」
 と、テーブルの端に青い顔で座っているルイスが会話に加わって来た。
「けど、全く歯がたたなかった……。ロシアの意地を見せられるんじゃないかと、少しでも思った僕が愚かでしたよ。正直、あんなキチガイじみた飲み勝負に参加するのは、二度とごめんです」
 
「いい経験ができてよかったじゃないか、ルイス」
 と、ニコライが笑った。
「ルイス、あなたもちゃんと水分補給をしてね」
 再びキッチンから出てきたアガサに言われて、ルイスは「はい、奥様」、とロシア語で呟くと、苦しそうにグラスに口をつけた。

「エマ! また会えるなんて、嬉しいわ!」
 その時、リビングにいるエマに気づいて、アガサは悲鳴をあげ、感嘆のハグでエマにしがみついた。

「このお屋敷には女性が一人もいないから驚いたの。アルテミッズファミリーには、あなた以外に女性はいないのかしら?」
「ええ、本当にむさ苦しいわよね」
 エマは疲れているようで、アガサの抱擁をそこそこに切り上げて体を離した。
「母さんが亡くなってからというもの、父さんは女性をこの家に入れたがらないの。――家族以外はね」
「家族と、ファミリーの仲間が結婚を前提にお付き合いしている女性以外はね」
 と、ニコライが口を挟んだ。

「あなたのお父様って?」
「フェデリコよ。この屋敷の主、アルテミッズファミリーのドン。たいそうなものじゃないわ、実際に見ると、日焼けした、ただのおじさんだから」
 アガサはほんの一瞬、エマのことが心配になった。
 マフィアのボスの娘。
 ということは、彼女は望んでこの組織に入ったのではなく、生まれたときからマフィアという環境の中で育ったのだ。
 彼女は幸せな人生を送っているのだろうか、と、アガサは思った。
 だが、すぐにそんな心配は不要なものだったと気づく。
 エマは自信に満ちていて、その青みがかったアッシュグレイの瞳は、ともすれば人を見下しているように見えるほど、幸せそうに輝いていた。――とても美しい女性だわ、とアガサは思った。

「お父様は、あなたと出会えて本当に幸せね」
 アガサは、ぽんとエマの腕を優しくたたいて、キッチンに戻って行った。
「どういうこと?」
 と、エマが尋ねると、湯気のたつ大鍋をかきまわしながら、オープンキッチンのカウンター越しにアガサは言った。
「幸福な男性は、人生の中で3人の女性に出会うというわ。一人目は母親、二人目は妻、そして三人目は娘。あなたの存在が、フェデリコさんの人生を完璧なものにしたと、私は思うわ、エマ」

 エマは首をかしげた。
 もしかしたら父は、本当は男の子が欲しかったのかもしれないと常日頃から感じていたエマは、アガサの言葉をよく理解することができなかったのだ。
 そんなことよりも、エマはアガサの左手薬指にはめられている指輪に気づかないフリをするのが大変だった。ハグをされたときにエマはすぐにそれに気が付いたが、それは見たこともないようなデザインの、素敵な指輪に見えた。

「さあ、昼食の準備ができたわ。皆さん席について! レオナルド、配膳を手伝ってくださる?」
 まだテーブルについていなかった幹部たちはのろのろと、白雄鶏の館の用心棒たちはてきぱきと自分たちの席についた。
 牛テールで出汁をとって溶けるほど煮込んだリゾットスープの中には、ほくほくになるまで煮込まれたリブ肉とネギがたっぷり入っている。それを最初に幹部たちに配ると、次に元気な用心棒たちには、同じリゾットの上に、さらに骨付きのリブ肉をたくさん盛り付けて回した。

「今朝はよくも、朝食をすっぽかしてくれたわね。あなたが20人分作れと言ったから、腕によりをかけて早起きして頑張ったのに」
 と、アガサはイデリコの耳元でお小言をこぼした。
「強い酒で意識を失っていたんだ。仕方ないだろう……」
「残さず食べてね、イデリコさん、皆さんも!」

 ローリエで臭みをとった牛の脂と、塩とコショウとネギ。シンプルな味付けだが、一口皿に手を付けると、男たちは黙々と食事に向かった。

 少し遅れてドラコがやってきて、テーブルで配膳をしているアガサに体を寄せた。
 今朝の彼は、上下ダークグレーのスーツの下に、同色のシングルボタンのベストをかっちり着こなして、ノータイの、黒いシャツの襟ぐりをいつもより少し広く開けていた。外側のスーツはとてもフォーマルで、濃紺色のポケットチーフまで入れているのに、内側のシャツだけわざと着崩している感じが、独特な大人の色気を醸し出していた。

「今朝とは見違えるほど素敵になったわね」
 と、顔色の良くなったドラコに対してアガサは皮肉をこめて言った。
 ドラコは嬉しそうにアガサの頬にキスをしてから自分の席についた。まるでいつもそうしているかのように、すごく自然でさり気なく。

 そんな様子を横目に見て、エマはイラッとする。

 ドラコを一瞥しただけですぐに、エマはそれが北イタリアのミラネーゼというスタイルのスーツで、体型や好みに合わせて特別にテーラーに仕立てさせた注文服だということに気づいた。いつもファッションに余念がなく、見事にセンス良くそれを着こなしているドラコには本当に痺れさせられる。
 でも、アガサと並んで立っているのは不釣り合いだわ、とエマは思った。
 アガサは今日も、デニムとコットンシャツという、お洒落とは無縁の服装をしている。身長も低くて、頭一個分はドラコより小さい。

 エマはドラコの隣に座った。もっとも、そこがいつもの彼女の席だからだ。

 用心棒たちが、アガサの席を用意してくれていたが、アガサは丁寧にそれを断った。
「マリオがそろそろ起きる時間だから、私は部屋でいただくわ。それでは皆さんごゆっくり」
 そう言った瞬間に、ベビーモニターからマリオの泣き声がした。
 皆に食事が行きわたったことを確認すると、モーレックをニコライから受け取って、食後のエスプレッソはマシンに準備してあるから、と、皆に伝えて、アガサは忙しそうにリビングから出て行った。

 この邸でファミリーと同じ席に座れると思ったら大間違いだわ、と、エマは心の中で思った。彼女は部外者なんだから、と。





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