恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-7
キッチンから朝食を作るいい匂いが漂ってきた。ただし、ドラコはそれを食べることを想像しただけで吐き気がした。
20人分の食事を作るようにイデリコに頼まれたのに、その半分しか朝食を食べに来ないことに激怒しているアガサの声がした。幹部連たちは昨夜の深酒のせいでまだ娯楽室で伸びている、と釈明するレオナルドの声が聞こえてくる。幹部の中でちゃんと朝食の席にやってきたのはニコライとアーベイだけのようだ。こんなに美味い朝食は久しぶりだから、自分たちだけで幹部連たちの分も全部食ってしまおう、と、言うニコライに、アーベイをはじめ、白雄鶏の用心棒たちが嬉々として賛同している……。
アガサはぶつくさと何か文句を言っているようだったが、モーレックがママのあむあむについて何かいい、同時にマリオが泣き出したので、彼女の関心は子どもたちに移ったようだ。
ちょっと待ってて、と言ったくせに、アガサはいつまで俺を放置しておくつもりなのかな、と、ドラコは内心でいじける。
そろそろ寒くなってきた。
いよいよ凍え死ぬのかと覚悟しかけたときに、アガサがまたバルコニーに出てきて、横になっているドラコの肩をゆすった。
「シジミのお味噌汁を作ったわ、一口だけでもいいから飲んで」
上半身を起こして、ドラコは湯気の立つ小さなボウル状のスープ皿を受け取った。
日本の味噌汁を飲むのは初めてだったので、ドラコはおそるおそる、スプーンで一口すすった。優しい塩味と磯の風味、それに微かに生姜の風味が鼻に抜け、抵抗なく喉の奥に流れて行った。ドラコはボウルに直接口をつけて、さらに一口飲んだ。――温かい。
胃のムカつきが、急激に鎮静されていくのを感じた。
スープを飲み干してしまうと、アガサが別の小皿を差し出してきた。小さくカットしたバナナとアボカドの上に、蜂蜜とヨーグルトがかけられている。
「食べられないよ。それは、無理だ」
ドラコが皿を押し返すと、アガサがスプーンですくって、それをドラコの口の前まで持ってきた。まるで、離乳トレーニングをしているモーレックに食べさせるときのように。
されるがままに、一口食べた。
バナナもアボカドも蜂蜜も温められていて心地よく甘く、口の中でヨーグルトだけが冷たい酸味となって、苦労することなく呑み込むことができた。
「食べられそう?」
食べられそうだったが、ドラコは力なく首を振った。
「ダメだよ」
アガサがまたスプーンですくって近づけてきたので、ドラコはもう一口食べた。
「食べられるでしょう?」
ドラコはまた首を横に振った。
そうやって、小皿のフルーツを全部アガサに食べさせてもらった。
食事の最後にアガサは、しっかり水分補給をするようにと言って、大きなマグカップをドラコに渡した。生温かい乳白色のそれは、ココナッツウォーターだった。
用が済んだアガサがドラコを残してリビングに引き返して行こうとしたので、ドラコは彼女の手首を掴んで引き寄せた。
「少しだけここにいて。一人じゃ寒いんだ」
ドラコは毛布を捲り、アガサに、隣に座るように手招きした。
アガサは何か言いたそうにしたが、ドラコの顔色があまりに青白いので憐れんだのか、言われた通りにラタンの椅子に腰かけた。ドラコが彼女の膝の上に頭を乗せ、また横になる。
「赤ちゃんみたいね……」
「昨日は大変だったんだよ。労ってくれ」
アガサは溜息まじりに手を伸ばし、ドラコの体に毛布をしっかりと掛け直してやる。ドラコは寝返りをうって、アガサのお腹に顔をうずめた。
無意識に、モーレックにするのと同じように、アガサはドラコの髪を指に絡めて弄んだ。
そうしてしばらくしてから、アガサは思い出したように言った。
「そうだ、あなたのために誕生日プレゼントを用意したのよ」
しかし応答はなく、見ると、ドラコは彼女の膝の上でグッスリと眠ってしまっていた。
◇
遠くの方でサイレンのようなモーレックの泣き声がして、大柄なニコライがモーレックを片手に抱いてリビングに入って来た。
朝食を終えて寝室のベッドで寝ていたモーレックは、目を覚ましてママがいないことに気づくと、自分でベッドから降りた上に、寝室を抜け出して二階の廊下を彷徨っていたらしい。リビングに向かってヨタヨタ歩くうちに泣き出したところを、ニコライが見つけて連れてきてくれたようだ。
「ほら、ママはあそこにいるよ」
とニコライが指さした先を見て、モーレックは両手を広げて大音量で泣き叫んだ。
ドラコがもぞもぞとアガサの膝から起き上がったので、アガサはすぐに立ち上がってニコライからモーレックを受け取った。
「ママじゃなきゃダメみたいだね」
恨み言を言っているかのようにモゴモゴと何かをまくしたてながら、ママの首にしがみつくモーレックを見て、ニコライが笑った。
「ありがとう、ニコ」
「そんなに怒らなくてもいいだろう、パパだってたまにはママを独り占めしたいんだ」
と、肩から毛布をかぶったドラコが寝ぼけ顔でバルコニーから入ってきて、背後からアガサを抱きしめながらモーレックの頭に長いキスをした。
モーレックは泣き止んだが、誰この人、とでも言いたげな顔をドラコに向けると、ママを見やった。
「パパは具合が悪いんだって。最も、自業自得だけどね」
そこでアガサはしっかりと冷たい視線をドラコに投げると、すぐにまたモーレックに向き直って、優しいママの顔になった。
「ごめんね、モーレック、目が覚めたときママがいなくて怖かったのよね。でももう大丈夫よ、ママはモーレックが世界でいちばーんだいじだいじだからね」
その時、アガサが首から下げていたベビースピーカーから別の泣き声がした。
「ああ! マリオが起きたんだわ」
ママは大忙しでモーレックを連れて寝室に戻って行った。
「酷い言われようだと思わないか?」
後に残されたドラコが、同情を求めてニコライに呟く。
「俺が死にかけているっていうのに、開口一番に臭いと言われたんだ。あんまりだよ。それに、こっちは頭が割れそうに痛いっていうのに、深酒をしたことを責められて説教までされたよ」
寝癖をたてて、子どものように愚痴をこぼすドラコを前にして、ニコライは静かに口角を上げた。
「どうしてそんなことをする必要があったのか、ドラコは彼女に説明しなかったんだねえ」
昨晩はイデリコから、アガサをドラコの結婚相手とは認めないと暗に警告されたし、モーレックとマリオを育てることにも否定的なことを言われた。あのまま言わせておけば、白雄鶏の館でのアガサの立場は危うくなったかもしれないし、マフィア間の抗争を治めるために子どもたちを敵の手に引き渡せと言われたかもしれなかった。イデリコの他にも、そう思っている幹部連中は多いはずだ。
ドラコはそんな意見を一掃するために、半ばけしかけられるような形で、ショット飲みのコンコルゾに挑むしかなかった。
「言う必要のないことだ」
そう言って、ドラコはふらふらと自室に戻って行った。
アガサから酒臭いと言われたことがショックだったので、もう一度シャワーを浴びて、マウスウォッシュでしっかり口をゆすぎ、いつも通りバシッとスーツに着替えるつもりだ。
◇
バルコニーでアガサの膝の上でうずくまって眠るドラコの姿を、エマは秘かに見ていた。
ここ数週間、父であるフェデリコとともに各地の支部を周り、ファミリーの仲間たちの安全を確保するために奔走していたエマは、今朝早くの便でイタリアに戻って来たのだ。
話には聞いていたが、ドラコとアガサがロシアで引き取ったという小さな赤ん坊も見た。
血の繋がりのない子どもを知り合って間もないドラコとアガサが育てるなんて、バカげている。そんなのはただのオママゴトで、上手くいくはずなんかないと高をくくっていたエマは、まるで実の父親のように振舞っているドラコの様子を目の当たりにして、これまでに感じたことのない焦燥と、強い不快感を覚えた。
「エマ、戻ったのか。ドンは?」
と、リビングから出て行こうとしたドラコが、キッチンにいるエマに気づいて声をかけてきた。
「私だけ一足先に戻ったの。父さんはまだ、あと少し片づける用事があるから。早ければ明日には戻るわ」
そうか、と、言って、ドラコはそのまま行ってしまった。
エマは、胸がギュッと締め付けられる思いがした。
◇
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