恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-5


 ベルリンで大切な部下を失ったばかりのアーベイは、大酒飲みの騒ぎに参加する気にはなれず、一人娯楽室を後にした。

 裏切者のマリオには腹が立ったし、今でも許せない気持ちはあるが、ドラコは誰よりもアーベイの悲しみを理解してくれた。
 白雄鶏の館でドラコと再会した日の夜、アーベイはドラコと二人きりになる時間を狙って、ドラコの首に掴みかかった。裏切者の子どもを今すぐに殺してやりたかった。アガサと一緒になって、ドラコが裏切者のマリオの赤ん坊を保護し、育てようとしていることが許せなかった。

 ドラコは、アーベイに胸倉を掴み上げられながら、少しも抵抗することなく、アーベイが憎しみと怒りのすべてを吐き出すまで、ずっと彼の言葉に耳を傾け続けた。

「お前にとってはな、ドラコ、俺の部下たちなど気にもかからないだろうが、……」
 アーベイは部下たちの死にざまを思い浮かべ、この地上で二度と彼らに会うことができないことを思って、涙を浮かべて喉を詰まらせた。
 すると、ドラコの手が静かにアーベイの肩に触れて、彼をそっと抱き寄せた。
「ノアと、ヘンリーと、ジョナスだ。ただの部下なんかじゃない、お前の大切な家族だと、知っているよ」
 今まで聞いたこともない優しい声でドラコはそう言った。アーベイは、部下たちの名前をドラコが覚えていてくれたことを意外に思った。

「――許せ、アーベイ」
 ドラコは力を込めて、強くアーベイを抱きしめた。
 その力強い腕の中で、アーベイは堪えきれなくなって声を上げて泣いた。

「マリオは報いを受けたんだ。あいつは救いようのないバカだから、こんなへまをやらかしたが、最後は仲間を裏切ったことを後悔して死んでいった。あの赤ん坊に罪はない、お前だってそれはわかっているはずだ、アーベイ」
 ドラコの声が震えていた。
 この男も、自分と同じように心を痛め、泣いているのだとアーベイは悟った。

「くそったれの大馬鹿野郎め。いつかあの世に行ったら、俺がもう一度、ぶっ殺してやる……」
「それがいい……」

 アーベイとドラコは互いの額を合わせて、涙が渇くまでそうして抱き合っていた。
 部下を失った悲しみは消えないが、その夜を境にアーベイの心にあった暗い憎しみの靄は晴れ、また明日を生きようと思えるようになった。
 これからも、生き残った仲間たちとともに――


 そのような経緯があるから、アーベイはドラコを貶めようとするコンコルゾに参加する気にはなれなかった。
 ブラトヴァの血を引く子どもも、アルテミッズの血を引く赤ん坊も、争いの火種であることは間違いないが、幼い命に犠牲を強いるのは間違っているとアーベイも思った。ドラコとアガサがその子どもたちを育てると決めたのなら、そうさせてやるのがいいことだ、と。

 アーベイはニースでの仕事のときから、早い段階でドラコがアガサを愛していることを見抜いていた。

 望めばどんな女だって手に入れられるだろうに、よりによって、アガサのような地味で真面目すぎる女にドラコが心惹かれているというのは意外だったが、なるほど、ニースで共同生活をしてみると、アーベイもアガサの美徳にはすぐに気づいた。
 几帳面で短気なアーベイは、イラっとすると言葉遣いが乱暴になるし、物に八つ当たりすることも多かった。そんな彼の様子を見るとアガサは必ず口を出してきて、正しくて優しい【行ない】がどれだけ周囲の人間に安らぎを与えるか、それが巡り巡ってアーベイ自身の安らぎになるのかを、真剣に語り掛けてくるのだった。実際に、アガサは常にアーベイに対して正しく、優しく接することで、彼にそれをわからせた。アーベイはアガサの中に、若かりし頃に事故で失った妻の面影を見て、忘れかけていた家族への愛情が蘇ってくるのを感じた。

 娯楽室のある離れの建物から、渡り廊下を抜けて、本館のキッチンのあるリビングに入って行くと、照明を落としたソファーにアガサがいた。
 彼女は月明かりの下でソファーに深く座り、膝の上で赤ん坊のマリオをあやしているところだった。
 邪魔をしたら悪いだろうか、と、アーベイは声をかけることを躊躇った。すると、アガサの方が暗い影の中に立ちすくんでいるアーベイにすぐに気づいて、名前を呼んでくれた。

「今夜は朝まで飲み明かすんじゃなかったの?」
「気分がのらないから、抜けて来たんだ」
「見て、マリオが指しゃぶりをできるようになったの」
 興奮した様子で、アガサがアーベイに手招きした。
 それがそんなにすごいことなのか? と思いながら、アーベイはゆっくりと近づき、アガサの隣に腰かけた。
 見ると、赤ん坊は指というよりも、拳全部を不器用に口に押し込もうとしていた。

「赤ちゃんには、口に触れたものに吸い付く原始的反射運動がそなわっているの」
「聞いたことがある、吸てつ反応だろう」
 かつて妻も、そんなことを言っていた気がする。
「生後、4,5カ月頃から赤ちゃんは自分の手を認識するようになって、口に入れることで感触を確かめたり、遊んだりするようになるんだって。これは赤ちゃんが世界を理解するたには、重要な学習行動らしいわ」
「この子は、まだ生後2カ月くらいじゃないか? 早いな」
「そうね、きっと賢い子に育つと思う。この子をどう思う、アーベイ?」

 アーベイはアガサの膝の上にいる赤ん坊をじっと見つめた。
 どことなくマリオの面影がある、ブラウンの柔らかな髪と、アーモンド色の瞳。弱くて小さな存在だ。
「――可愛いな」
 と、アーベイは囁いた。


「抱っこしてみる?」
「いや、いいよ、俺は」
 そう言うのに、アガサはアーベイの膝の上に赤ん坊を乗せてきた。いきなり知らない男の手に渡されて、赤ん坊が驚いた顔をしている。
「大丈夫よ、マリオ。この人は優しいおじさんだから」
 おじさん、という言葉にはやや引っかかりを覚えたが、アーベイは反射的に赤ん坊を丸く、優しく抱きかかえた。
「驚いた。あなた、ドラコよりもずっと赤ちゃんを抱っこするのが上手だわ」
「息子がいたんだ。名前はジョシュア、妻はサラという、優しくて強い女性だった」
「ああ、アーベイ……」
 息子がいた、という過去形が使われたことで、アガサは彼の妻子がもうこの世にはいないのだということを知った。
 
「事故で亡くなったんだよ。俺は悪い奴だけど、妻と息子は善良で、純粋な者たちだった。神が俺に罰を与えたのかもしれないな」

 アガサはアーベイの肩に腕を回し、彼を優しく抱きしめた。
「不運な事故は誰にも訪れるし、神は命を平等に与え、平等に奪われる。罰を与えようとしたなら、アーベイ、神はあなた自身のお尻を直接叩いたはずだわ。だから、自分を責めないで」
「きっとまた、会えるという気がするんだよ」
 と、アーベイは静かに言った。
 今までそんなことを誰かの前で口にしたことはなかったが、アガサの前では、彼の心からの願いと祈りを口にすることができた。

「だから、サラとジョシュアに恥じることのないように、生きていきたいと思っている」
「ええ、必ずそれができるわ、アーベイ。あなたが愛する人たちと再会できることを、私も信じているから」
 アーベイは不思議に感じた。アガサから語られる言葉は、確信に満ちていた。だからアーベイにも、それが真実だと思えるのだった。
「あなたのために祈っているから」
 まるで寒い夜に母親が温かい毛布をかけてくれたときのように、アーベイは心に平安が訪れるのを感じた。

「おやおや、めずらしい取り合わせだねえ」
 影の中から、ロシア訛りの英語を話す長身の男が姿を現したかと思うと、真っすぐにソファーに近づいて来て、アーベイとは反対側のアガサの隣に座った。

「ニコライ、あなたも抜け出してきたの?」
「うん、今夜は飲みすぎたよ。みんながドラコを吞み潰そうと躍起になっているけど、僕は興味がないから抜けて来たんだ」
「ドラコは勝ちそうか?」
 アーベイが問いかけると、ニコライはソファーの背もたれに大きく腕を伸ばして言った。
「絶対に、負けないだろうねえ。とりわけ、今夜は」
「そうだろうな」
 やけに意味深な言い方だったが、二人はアガサには詳しく説明してくれなかった。

「何を話していたんだい?」
「子マリオが指しゃぶりをできるようになって、可愛いでしょって」
「赤ん坊の指しゃぶりには世界を学習する効果があるらしい」
 と、アーベイ。

 ニコライはアガサの肩越しにアーベイの膝の上の赤ん坊をのぞいて、小さなパン生地のような丸い拳をアムアムやっているのを見て、まさしくアーベイと同じように『指というよりそれは……』と思ったが、口には出さなかった。
 かわりに、「モーレックは?」と聞いてきたので、アガサはベビースピーカーを見せて答えた。
「部屋で寝てるわ。夕飯をお腹いっぱい食べられたから、久しぶりにぐっすり眠っているの」
「あの子は、そう長くは生きられないんじゃなかったかい?」
「ロスの病院でも同じように言われたけど、きっと、誤診だったんだわ。モーレックはすごく元気で、可愛らしく育ってきているの」
「それはよかった」
 それはニコライの本心だった。

「今日は本当にバカなことをしてしまったわ」
 と、アガサが後悔して打ち明けた。
「なにが?」
「何日も部屋に閉じ込められて、食事にも不満が募ったものだから、つい頭にきてしまって、イデリコさんに喧嘩を売ってしまったこと。多分、今夜ドラコがお酒を飲んでいるのも、そのせいなんじゃないかって気がする」
「イデリコの食事は確かに、美味いとは言えなかった」
 アーベイが言うと、ニコライもうなずいた。
「それに、ドラコなら大丈夫さ。君が傍にいてあげさえすれば、きっと彼はここにいる誰よりも強いよ」
「無茶をしていないといいんだけど……」
「ドラコだぞ? 無茶をしないわけがない」
「アルカトラズでブラトヴァの息子が機関銃を連打している中を突っ込んでいったのには、ゾッとしたよねえ」
「ああ、さすがにあれは死んだと思った」
 ニコライとアーベイが懐かしむように話している内容が、何やら物騒なので、アガサは深く考えないようにした。
 とにかく、ドラコが無茶だというのはこの二人の共通認識らしい。

「あなたたちの迷惑にならないように、明日からは行儀よくしていると約束するわ」
 と、言って、アガサはアーベイから赤ん坊のマリオを受け取って、ソファーから立ち上がった。
「なんだよ、もう寝るのか?」
「ええ、明日はイデリコさんから皆の朝食を任されているの。久しぶりに腕を奮うわよ」

 リビングを出て行こうとするアガサに、ニコライが呼びかけた。
「ねえ、アガサ。君はニースでの最後の夜に、僕たちにはもう二度と会うことはないと言ったけど、君はドラコのプロポーズを受けて、今こうして僕たちは再会している。ということは、だ、君はもうファミリーの一員とも考えられるよねえ。だから、行儀よくしている必要なんかない。思う存分、君らしくあればいい」
「俺も同意見だ」
 と、アーベイも言った。

 イタリアに来てから自分はずっと部外者だと感じていたアガサは、二人の言葉に励まされた。
 アガサは目頭が不意に熱くなるのを彼らに悟られまいとして、二人におやすみを言うと、足早に寝室に引き下がって行った。





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