恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-3
美食の都、アルバの白トリュフ、ジャンドゥイアの職人が作るチョコレート、生の牛肉料理、愛しのピエモンテ料理。イタリアに来れば少なくとも美味しい料理が食べられると思っていたアガサは、その日の朝はじめて、まともな食事をお腹いっぱい食べて精神の安らぎを得た。
久しぶりのママのあむあむを、モーレックも夢中で口に詰め込んでいた。やはり、ミルクだけではお腹が空いていたのだ。
レオナルドはリビングの端にあるダイニングテーブルにモーレックのベビーチェアを運んできてくれた。
彼女たちが食事をしている間は、リビングの入口に二人の見張り役が立ち、レオナルドはずっと傍で控えていた。
「イデリコを怒らせたんだって?」
上下黒のシングルスーツに、黒のシャツをノータイで合わせているドラコが、まだ食事中のアガサのもとにやって来て、隣に座った。
「いいえ、彼の方が私を怒らせたの」
穏やかにそう応えながら、モーレックが大きすぎるトマトを一気に口に入れようとしているのを見て、アガサは食事の手を止めた。
彼女がモーレックの口からトマトをはなし、それを指で半分にしてモーレックの口に再び入れ直している隙に、ドラコはアガサの皿からチーズオムレツを一口食べた。「うん、うまい」、と呟いて。
アガサはドラコからフォークを取り返し、食事に戻った。
「部屋に閉じ込められるのも、もうウンザリ。ノストラ―ドファミリーから狙われて危険なのは分かるけど、もう少し自由にさせて欲しいわ。お庭を散歩したり、図書室で本を読んだり、リビングでくつろいだり」
アガサはダメもとで、わがままを言ったつもりだったのだが、意外にもドラコはすぐにそれを承諾した。
「わかった。いいよ」
と、ドラコは言った。
「そのかわりキッチンからは手を引くんだ。あそこだけはイデリコの聖域なんだよ。俺だって使わせてもらったことはない」
「その件については、彼と直接話をしたいわ」
「ああ、聞いたよ。イデリコはアガサとベットで勝負をさせろと言ってきた」
「なにそれ」
「ファミリーの中で争いが起きたときに、平和的に解決する手段だ。だけど、ベットに負けたら相手の要求を飲まなければならない。それが、【何であっても】」
「何で勝負するの?」
折よくイデリコがリビングに戻ってきて、「チェスで勝負しようじゃないか」、と、声高らかに宣言した。
「どうしてあなたが決めるの?」
と、アガサが聞くと、
「ベットを申し込んだ方にその権利があるからだ」
と、ドラコが教えてくれた。
「お前が勝ったら、ここのキッチンを使う権利を半分与えよう。俺が勝ったら、一晩楽しませてもらう」
表情を失うドラコの隣で、アガサが首をかしげる。
スーツを着た男たちが、ぞろぞろと10人ばかりリビングに入って来た。その中に、ニコライとアーベイ、ルイスもいた。
「幹部連中には、俺たちのベットの見届け人になってもらう」
どうやらその男たちは、イデリコが呼びつけたようだ。
「一晩楽しませるって、具体的には何のこと? もしかして、」
「一発やらせてもらう、ってことだよ。セックスだ」
なるほど。イデリコの挑発的な返答に対しても、アガサは冷静だった。
「でも私はこの人と婚約しているのよ。他の男性とセックスすることはできない。そうでしょ?」
ドラコに聞けば、彼は困ったように口を開いた。
「ベットでは何でも要求することができる。この場合、俺に口を差しはさむ余地はない」
なるほど。アガサは状況を理解して、すぐに思考を切り替えた。
事の成り行きを見届けようとしている男たちがジロジロと不躾な視線を向けてくるが、アガサはその全員に対して、敬虔なキリスト教徒らしい慈愛に満ちた笑みを返すと、臆することなく声を上げた。
「これは提案なんだけれど、イデリコさん」
「俺の要求を変えさせようとしても無駄だぞ」
「まあ聞いてよ。私は生憎、セックスの方面には疎くて、もしベットに負けてもあなたを一晩楽しませられる自信がないわ。きっとあなたを、ガッカリさせると思う」
アガサの生真面目な説明に、ニコライだけが笑いをかみ殺して口元に手をあてた。アーベイは眉をひそめてドラコを見ているし、ルイスは無表情だ。
「でも、こんな私にも人より優れた【テクニック】があるのよ。肉体的な安らぎと快感を得たいということなら、うってつけだと思うのだけど、どうかしら、もし私がベットに負けたら、もちろん負けるつもりはないけど、【極上のマッサージ】をしてあげる、というのは。――もちろん、全身、くまなく。これなら、間違いなくイデリコさん、あなたを天にも昇る気持ちにさせてあげられると思うのだけど」
「すごい自信じゃないか」
イデリコの瞳が狡賢くキラめいた。
「ええ、自信はある」
アガサは椅子から立ち上がり、イデリコの手の甲にタッチして、スーッと指を滑らせた。
男たちの視線が好機に満ちて、アガサに集まる。
「セックスよりも安らかな、【極上の快感】を約束するわ、イデリコさん。もしよければ、私が負けた暁にはここにいる【全員に】同じようにマッサージでご奉仕してあげてもいいわよ」
「いいね」
と、一人の男が言った。
すると、周囲の男たちも口々に賛同の声を上げ、イデリコにその条件でベットに臨むようにけしかけ始めた。
「勘弁してくれ……」
突然の頭痛に見舞われたかのように、ドラコだけが片手で眉間を押さえ、うなだれた。
「いいだろう」
ついにイデリコがアガサの提案に応じた。
「勝負はチェスの一本勝負。お前が勝てばキッチンを使う権利を認め、俺が勝てば、ここにいる全員に【極上】のマッサージとやらをしてもらおう」
リビングにあった木製の大きなチェス盤が、すぐに二人の元にセットされた。
「白はゲストに」
イデリコがそう言って、アガサに先行をゆずったので、アガサは白のポーンをe4番に動かした。
ドラコをはじめ、皆が固唾を飲んで見つめる中、イデリコが黒のポーンをe5番に動かす。
互いに相手が駒を動かすと、すぐに自分の手を打つ、というスピードプレイが繰り広げられた。
迷いのない手で最初に仕掛けたのはアガサだ。ポーンでイデリコのポーンを奪うと、イデリコはビショップでアガサのナイトを奪った。
10手目までに、アガサは2つのナイトを失い、12手目でクイーンサイドキャスリングをした。
駒の犠牲を厭わない、攻撃的なプレイだった。
その後も15手目でビショップを奪われたが、アガサは16手目でクイーンを上らせ、イデリコのキングにチェックした。
持ち駒の形勢はイデリコに有利と思われていたので、これには男たちがどよめく。
イデリコの手が止まった。
イデリコは慎重にナイトを動かし、キングにチェックしているアガサのクイーンを奪う。
間髪を入れずにアガサがルークをd8番に押し上げて、「チェックメイト」、と静かに言った。
皆が息を呑み、リビングがシーンと静かになった。
二つのナイトと、ルーク、ビショップ、そして最強駒のクイーンまで犠牲にして、――アガサが勝利したのだ。
試合開始からチェックメイトまでたったの17手。物の数分の出来事だった。
何が起きたのか理解できない様子で、イデリコはしばらく盤面を見つめていたが、やがて力なく肩を落とした。
「ああ、俺の負けだ……」
「いい勝負だったわ、イデリコさん」
盤面越しにアガサが礼儀正しく握手を求めると、イデリコも紳士らしくそれに応じた。
「それじゃあ、今日から私たちはキッチン友だちということで、仲睦まじくやりましょうね、イデリコさん」
そう言って、アガサは上機嫌で子どもたちを連れて部屋に戻って行った。
彼女が去ってしまってから、イデリコは両手で頭を抱え、悔しさに顔を歪めて天を仰いだ。
「あのじゃじゃ馬の、小憎らしい、悪魔のような口汚な女め、おお、神よおおお、なぜだああああ!!」
「さっきの手の早さ、チェスの世界プレイヤーみたいだった」
と、誰かが呟いた。
「それを言うなら、イデリコがそうだろ。あんな下手なイタリア語を喋る女の子に負けるなんて、よほどツキがなかったってことかい?」
とまた別の男が。
「いや、チェスはツキに左右されない。純粋に知的な戦いだ」
「だとしたらあの子は何者なんだ?」
男たちが口々に語らう中で、ニコライ、アーベイ、ルイスが後を引き継いで、次々に口を開いた。
「彼女は敬虔なキリスト教徒で、」
「うんざりするほどお節介で……」
「とても愛らしい人だ」
と。
ドラコがイデリコの肩に触れた。
「悪かったな、イデリコ。アガサがチェスの名手だとは、俺も知らなかったんだ。――許せ」
イデリコはくるりと顔を向けてドラコを見上げ、子どものようにふてくされて言った。
「久しぶりに浴びるほど酒が飲みたくなった。ベットじゃないが、今夜は倒れるまで付き合ってもらうからな、ドラコ」
やれやれ。
アガサがイデリコとのベットを無事に切り抜けたのでドラコは心底ほっとしたが、今度は面倒の矛先が自分に向いたようだ。
「わかったよ、イデリコ。気のすむまで付き合おう」
途端に男たちが狂喜乱舞して手を叩き、腕を振り回す。
今夜は皆で大酒が飲める、誰が最後まで飲み潰れずに残るか勝負しようと言い出す者までいたので、ドラコは小さなため息をついた。
今夜もアガサと二人きりでゆっくり過ごす時間はとれそうにないと知って。
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