恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-2
ワイン畑に囲まれた丘の上に建つフェデリコの邸のてっぺんには、白い雄鶏の風見鶏が据えられていた。そのせいなのか、男たちが邸のことを『白雄鶏の館』と呼んでいるのをアガサは耳にした。
白雄鶏の館では、皆が規則正しく生活しているようだった。
男たちは朝目覚め、夜眠る。意外なことに、酒を飲んで大騒ぎをしたり、喧嘩をして暴れまわったり、誰かが大声を上げて怒鳴るといった、犯罪者の巣窟にありがちと思える光景を、アガサは一度も目にすることがなかった。
邸の中に女性はいなかった。それに気づいたのは、生理用品が必要になったときだった。誰か女性を寄越して欲しいと言ったアガサを男たちは訝しみ、この屋敷に女はいないと言って、じゃあ自分で買い物に行くからと言うと、レオナルドを寄越してきた。
部屋からは出せないという説明を繰り返すレオナルドに、アガサは仕方なく、差し迫った状況で女性専用製品が必要になったことを伝えた。
それを聞いたレオナルドは少しだけ体を強張らせたが、表情は少しも変えずに、女性特有のニーズに気づかなかったことを詫びた。
それでもやはり、アガサを部屋から出すことはできないと言うので、アガサは生理用ナプキンやタンポンについて、好みの素材や、サイズ、メーカーなどの詳細を男たちに伝えなければならなかった。彼女にとっても非情に気まずいことだったが、メモを渡された男たちはさらに訳が分からないという顔をしていた。
それから半時間ほどして男たちは買い物から戻って来たが、店の商品をすべて買い占めてきたのかと思うくらい、ありとあらゆる製品を両手いっぱいに抱えていた。
これにはアガサも閉口した。文字通り、彼らは店にある、ありとあらゆる生理用品を片っ端から買って来たのである。
アガサは、なるべく男たちを煩わせたくはなかったが、頼まなければならないことは他にもあった。
マリオの新しいおしゃぶりと、新しい哺乳瓶。
いずれもモーレックが噛んで穴を開けてしまったので、新しいものが必要になってしまった。
また、秋も深まる頃のイタリアは思いのほか寒かったので、子どもたちのために新しい上着も必要になった。
子どもたちのために持ってきた絵本はどれも読み飽きてしまったから、新しい絵本を何冊か求めた。できれば、英語で書かれているものを。
アガサが頼むと男たちはいつも迅速に対応してくれた。しかし、おそらくはそのような子ども用の製品への知識が疎いのだろう。「これじゃないのよ」、と言いたくなるような微妙な品物がしばしば持ち込まれた。自分で買い物に行けさえすれば一回で済むのに、と、アガサは歯がゆい思いをした。
一番困っているのは、モーレックの食事だ。
「ねえ、ちゃんとコックに伝えてくれたの? スパイスがきつすぎて、これじゃ子どもは食べられないわ。それに、塩味もちょっときついみたい」
毎食のようにアガサが頼んでも、食事は全く改善されなかった。
マリオはまだ生後二か月なのでミルクさえ飲めれば大丈夫だが、モーレックはそろそろミルクだけでは栄養が不足するし、食育と離乳トレーニングを進めたいアガサにとっては死活問題だった。それにアガサ自身も、もっと美味しいものを食べたいという欲求を日々募らせていた。
「次も同じだったら、この部屋を飛び出して私がキッチンで自分で料理をさせてもらいますから」
と、何度目かにアガサはきっぱりと宣言した。
男たちは次第に、アガサから何か言われるのを恐れ、ビクつくようになった。
ドラコは邸に来てからとても忙しそうで、アガサと子どもたちの所には、夜遅くに彼女たちが寝静まってから、そっと様子を見に来るだけだった。
何度か、毛布を肩まで引き上げられ、耳元で何か囁いたあとに、額にキスをされたのを覚えている。
もう何日もちゃんと顔を合わせてドラコと会話をしていなかったので、これにも鬱憤は募った。
食事に対するクレームの最終宣告をした翌日の朝、驚くほど味の薄い、栄養のなさそうな食事が運ばれてきたので、アガサはついに切れた。
生理期間中だったので栄養のある美味しい食事をたっぷり食べたかったし、モーレックにはもう何日もまともな物を食べさせられていない。
部屋に閉じ込められ、籠の中の鳥のように扱われることにも、もうウンザリだった。
アガサは寝室のドアを勢いよく開けた。
驚いて振り返った見張りの男の一人に、有無を言わせずマリオを渡し、もう一人にはモーレックを渡して、アガサは猛然と邸の中を歩き回り、すぐに二階の並びにある広いリビングにオープンキッチンを見つけた。
男たちに抱かれたモーレックとマリオが物凄い声で泣き叫び始め、慣れない子どもの扱いに窮して男たちはおどおどしてアガサを追いかけてきた。
アガサは構わず冷蔵庫を開けて、手頃な食材を掴みだすと素早く料理にかかった。
フライパンを火にかけてたっぷりとバターを入れ、大鍋にお湯を沸かして野菜を茹で始めた。
騒ぎを聞きつけたレオナルドが飛んできた。
「アガサ、これはいったい、何をしているんだい!?」
「見ての通り、料理をしているのよ」
と、アガサは仏頂面で応えた。
「食事なら今朝早くに、部屋に運んだはずだ」
「いいえ、あれは食事とはいわないわ。ここに来てからというもの、スパイスがきつすぎて舌がおかしくなるか、味が薄すぎる野菜汁しか持ってこないじゃないの。そのせいで、見てごらんなさい、私と子どもたちはこんなにやつれて、精神を持ち崩しているのよ! この騒ぎは全部、あなたたちの不味い食事のせい。控えめに言って、ここの食事は最悪だわ!」
「でも、まずいよ。うちのコックはとても気難しくて、他人にキッチンに入られることをとても嫌がるんだ。もし君がここにいることが見つかったら……」
「構うものですか。腕の悪いコックなんて、さっさとクビにすることね」
「クビにするなんてとんでもない。コックは、我らがドンの、フェデリコの弟なんだぞ」
そういったレオナルドの顔が、さっと青ざめた。
中肉中背の赤鬼のような男が、肩を怒らせてキッチンに入って来たからだ。
「おい、そこの女。俺の聖域で、何をしている、許さんぞ」
「イデリコ、落ち着いて、彼女はドラコの、……」
「俺のキッチンから、出ていけ!」
「うるさーい!!」
アガサが熱したフライパンに解いた卵とチーズをたっぷり流しいれながら、怒りに顔を赤らめて怒鳴りかえした。
キッチンの中で、鬼と鬼が睨みあうような形になるが、アガサのほうは熱したフライパンと、ルッコラを刻むためのナイフを持っていた。
「あなたの料理にはこの数日間、失望させられっぱなしだった。そのせいで私は今とても機嫌が悪いし、子どもたちはお腹を空かせてあの通り、大泣きしている。もし私たちから美味しくて健康的な食事を得る機会をこれ以上奪うつもりなら、今すぐ警察に通報するわよ! 不味い料理を食べさせ続けて私たちを虐待した罪で逮捕してもらう!」
アガサは上手く話せないイタリア語で、もつれる舌を噛みそうになりながら、必死でまくしたてた。
その剣幕の激しさに、イデリコは怒りを通り越して、唖然とする。
白雄鶏の館では、料理のことについてだけは、誰もイデリコに意見することができなかった。
彼がフェデリコの弟であるということもその理由の一つだが、なにより、彼のコックとしてのプライドがとても高いことを知っていたからだ。
「俺の料理が不味いなんて言った奴は、今までに一人だっていない!」
「可哀そうに。でも、私は正直者なの! 間違いないわ。あなたの料理は、くそ不味い!」
どうしてなのかイタリア語になると、アガサは口が悪くなるようだった。
それに、アガサは無自覚だが、聞いている者には彼女のイタリア語の発音はとても赤ちゃん言葉に聞こえた。怒っているのは伝わるが、言葉に丸みがありすぎる。
「酷いイタリア語だな、……どこで習った?」
数日前にドラコからも言われたことにカチンときて、アガサがさっとナイフを振り上げた。
イデリコが呆れて一歩下がる。ナイフに怖気づいたというより、少女の神経をこれ以上逆なでしないように、という愛情から。
「イデリコ、彼女には俺からあとでちゃんと話をしておきますから。ここはどうか穏便に」
「ああ、わかった。あとでちゃんと、けりをつけさせてもらおう」
イデリコはレオナルドに肩を抱かれてキッチンから出ると、カウンター越しに振り返ってもう一度アガサを睨みつけた。
「おい女、この落とし前は、ちゃんとつけさせてもらうからな。食事がすんだら、俺の所に来るんだ」
「言われなくてもそうしますとも。落とし前を付けるのは、あなたの方よ」
と、アガサもやり返した。
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