恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 6-1


 旅の間に気づいたことだが、ドラコは一見すると礼儀正しく、柔和で、穏やかに見えるが、そのくせ誰に対しても無駄に愛想を振りまくということが一切なかった。

 そのせいで、ちょっと怖く見える。

 とにかく、客室乗務員に対しても【話しかけるなオーラ】がすごいのだ。
 飛行機の客室乗務員たちは、おそらくそういう客には慣れているのだろう。アガサがドラコの連れだと知るや、彼らはドラコに聞くべきこともアガサを通して伺いを立てる様になった。幼児を二人も連れたフライトなので、ファーストクラスの座席の広さと、スタッフのサービスの良さには大変助けられたが、正直これには、アガサはとても気疲れした。

 ロサンゼルス国際空港から10時間超のフライトを経てアムステルダムに到着すると、そこで乗り換えてまた約2時間。イタリアのトリノ空港にたどり着いたときには、アガサはとても疲れて、ドラコに対して若干のイラつきを覚えていた。もちろん、アガサに対してはずっと優しく接してくれるし、子どもたちの面倒もよく見てくれる。問題は他の人々に対する彼の態度なのだ。周りがこんなに気を遣ってくれているのだから、もっと愛想よくすればいいのに、と、アガサは思った。
 アガサは不便でも気楽な旅に慣れていた。ドラコとの旅は、快適でスムーズでも、誰からも気を遣われすぎて、かえって億劫に感じられた。

 誰よりも早く飛行機から降ろしてもらえ、ファーストクラス専用の出口から空港の外に出る。預けた手荷物は何も言わなくてもポーターが先に運んでくれた。ドラコはさもそれが当然であるかのように振舞っているが、アガサには息が詰まった。
 ようやく空港の外に出て、初めてのイタリアの空気を胸いっぱい吸えると思ったら、カジュアルスーツをセンス良く着こなしたイタリア人男性が3人も立っていて、白いロールスロイスファントムVIのリムジンの前でアガサたちを出迎えた。
 ドラコは彼らにイタリア語で短い挨拶をすると、アガサに車に乗るように導いた。
 男たちは空港のポーターから荷物を受け取って、素早く車に積みこんでくれた。
 ドラコは彼らのことをアガサにちゃんと紹介することもなく、ただ、ファミリーの仲間だ、とだけ言った。

 抱っこ紐でマリオを胸に抱えているアガサが後部席の奥に座り、ドラコはモーレックを抱いてアガサの隣に座った。続いて、3人の男のうちの一人がアガサたちと向かい合うようにシートに座り、残りの2人はそれぞれ前の座席に入ったようだった。運転手は他にいる。

 全員が乗り込むと、車はゆっくりと走り出した。飛行機を降りてから車に乗り込むまで、専用の通路を歩いてきたのでほとんど誰の目にも触れていない。
 VIPな扱いを通り越して、要人警護をされているような気分だった。

 モーレックがドラコの膝から降りて、アガサに擦り寄って来た。
 飛行機に乗っている間はほとんどママに抱っこしてもらえなかったので、そろそろグズりだしそうな雰囲気だ。
 アガサはモーレックに腕を回し、額にキスを落とした。

 アガサたちの迎えに座っている、赤みがかったブラウンヘアの男が、興味深そうにこちらを見ている。

「はじめまして、私はアガサ。あなたのお名前は?」

 ドラコが紹介してくれないので、アガサは自ら不慣れなイタリア語で挨拶をした。
 男は少し驚いたようにニコリとすると、アガサの隣に座るドラコに視線を向けた。
 この感じは、ニースのヴィラでアルテミッズファミリーの仲間たちがボスであるドラコに指示を仰いでいたときの様子にそっくりだった。
 アーベイも、ニコライも、ラットも、エマでさえ。何か困ったり、重要な判断を迫られたときにはドラコに視線を向けていた。

「自己紹介をするのに、彼の許可が必要なわけはないでしょう」
 と、アガサは不機嫌に言った。そんなつもりはなかったが、長時間のフライトで周囲から気を遣われすぎたせいで疲れていたので、つい棘のある声色になってしまったのだ。

 男はまたニコリとして、ドラコが何も言わないことを注意深く確認してから、ようやく口を開いた。
「レオナルドだ。君たちの身の回りの世話係を任されている」
 レオナルドと名乗った男は愛想よくそう言うと、さらに遠慮がちに付け加えて言った。
「イタリア語が苦手なら、英語で話してくれて構わないよ」
 と。
「いえ、大丈夫よ」
 と、アガサが応えると、横からドラコが口を出してきた。
「君のイタリア語は、とても幼稚っぽく聞こえる。言葉を覚えたばかりの女の子が話してる、って感じだから、英語の方がいい」
「嘘、そんなにひどい?」
 確かに、アガサはイタリア語はあまり上手くなかったので、恥ずかしくなって赤面した。だが、この機会にイタリア語を学びたいと思っていたので、妥協はしたくなかった。
 すると、レオナルドがクスクスと笑って言った。

「僕は、とても可愛いと思う。特にアジア系の女の子が不慣れなイタリア語でそんなふうに話すと、男心をことさらにくすぐるね。多分、ドラコはそれがイヤなんだよ。ただの、焼きもちさ」 
 
 ドラコに睨まれて、レオナルドが途端に閉口して、窓の外に視線を反らした。

「そうなの?」
 と、アガサは英語でドラコに聞いた。
 ドラコはその質問には応えず、代わりに、「どこでイタリア語を習ったんだ?」、とアガサに聞いてきた。

「昔、イタリア人の男の子と付き合っていたことがあるの。その時にちょっとだけ教えてもらったのよ」
 アガサにとっては何らやましさのない事実だったが、ドラコはすごく驚いた顔をした。
 そして、旅の間中はずっと表情が乏しかったくせに、突然、責めるような眼差しをアガサに向けてきた。

「そんなの、今まで一度も聞いてないぞ。付き合っていたって、いつ?」
「子どもの頃よ。中学生のとき」

 子どもの頃だって……? ドラコは眉を顰めて訝しむようにアガサを見つめた。
 ドラコが初体験を済ませたのはその頃だった。だから、子どもの頃に付き合っていたと聞いても嫉妬せずにはいられなかったのだ。

「そいつとは、どこまで【関係】を進めたの」
「関係と言われても、子どもの付き合いだもの。プラトニックなお付き合いよ」
「キスはした?」
「ほっぺにね」
「他には」
「それだけよ、あとは手を繋いで、一緒に図書館に行ったくらい。それが私たちのデートコースだったの」
 懐かしむようにサラリと言われて、ドラコはそれ以上は何も聞かなかったが、心中は穏やかではなかった。
 そして秘かに、近いうちにアガサを連れて図書館にデートに行こうと考えた。――手を繋いで。

 その時、これまでは意識したこともなかったことだが、ドラコは自分が嫉妬深い質の男なのだということに気づいて、小さくため息をついた。

「いつか俺の前に、アガサが昔付き合っていた男がひょっこり現れて、俺を動揺させる前に、そういうのはあらかじめ報せておいてくれ。さもなければ、ついうっかり手がすべってそいつを絞め殺すかも」
 実際、ドラコがガブリエルを絞め殺しそうになったのをアガサは目撃していた。
 だから、アガサはドラコを落ち着かせるように彼の膝を叩いて、真剣に言った。
「この件については、今度ゆっくり話し合いましょう。でもね……」
 と、そこまで口にしたとき、ついにモーレックが「まま、だっこ」、と言ってアガサにしがみ付いた。

「ちょっと、マリオをお願いできる」
 言うよりも先に、ドラコがアガサの抱っこ紐を解くのを手伝ってくれ、眠っているマリオを受け取った。
 かわりにアガサがモーレックを膝にのせ、背中をさすってあやした。きっと、眠かったのだ。モーレックはママに抱っこされるとすぐに安心して眠ってしまった。

「私がどんなに男性にモテなくて、そのうえ純粋で、身持ちが硬いか、あなたは私と暮らしてみてよく知っているはずでしょう。だから嫉妬をする心配なんて全然ないのよ」
 と、静かな車内でアガサは言った。

 ドラコは注意深くアガサの言葉に耳を傾けていたが、何か言い返したくなるのをこらえているような、もどかしそうな表情をした。
 
 ドラコは安心できなかったのだ。
 純粋で身持ちが硬いのは間違いないが、そのくせ彼女は世間知らずで無防備だから。
 それに、男にモテないというのは、アガサの勘違いだ、とドラコは思った。だが、ドラコはそれをアガサに教えるつもりはない。

 知り合った最初の頃にこそ、ドラコはアガサを地味で凹凸の少ない、ムカつくお節介な女だと思ったが、当時の印象とは今は全く異なる。むしろ、今はなるべく地味な恰好をしていてくれ、と思うほどだ。なるべく、他の男の目につかないように。
 少しでも彼女と関わり合いになれば、アガサの優しさや愛情深さが、どれほど人を惹きつけ、安らぎを与えるかに気づく。
 こんなに真面目で、頑張っている女性に、もし一途に愛されて求められたなら、どんなに幸せだろうか。そう思っている男は、きっとドラコだけではないはずだ。

 ドラコはアームレストに肘をかけて頬杖をつき、黙って窓の外に視線を移した。


 そんな二人の一連のやりとりを、レオナルドは物珍しそうに、真剣に見つめていた。





 白いリムジンは滑らかに走り続け、イタリアのピエモンテ州トリノ郊外のクーネオという街に入ると、市街地を抜けてなだからな丘陵を上って行った。
 アルプス山脈の裾野に広がる丘に、規則正しく並ぶブドウの木々が美しい幾何学模様を描いている。畑では農夫たちがブドウの収穫を行なっているところだった。

 車窓からその様子を眺めながら、そういえば、もうすぐドラコの誕生日であることをアガサは思い出した。
 5月の彼女の誕生日のときには、フランス料理でお祝いをしてもらったので、何か素敵な誕生日プレゼントを贈りたい。果たして何がいいだろうか……。

 そんな物思いに沈んでいると、ロールスロイスファントムは門をくぐって螺旋の急な坂道を上り切り、白壁と赤瓦の大きな屋敷の前で停車した。
 縦格子の入った細長の窓がいくつもある、伝統的なイタリア建築の優美なその邸こそ、アルテミッズファミリーのドン、フェデリコの住まいだった。

「到着したばかりのところ悪いんですが、ボス、みんなお待ちかねです。すぐに来てください」
 車を降りるとすぐに、証券マンを思わせるカッチリとしたスーツを着こなした青年がドラコの元へやってきた。
「ジョーイ、久しぶりだな」

 ジョーイと呼ばれたその抜け目のなさそうな青年は、ドラコと短いハグをするとアガサをちらりと見て、途端に顔をクシャっとさせて微笑んだ。

「あなたにお目にかかれるのを楽しみにしていました。後でゆっくり、ご挨拶をさせてください」
「後で俺も行くから、先に部屋でゆっくり休んでいて」
 と、ドラコはアガサに囁くと、マリオをレオナルドの腕に預けて、ジョーイとともに邸の中に入って行った。

 赤ん坊を抱き慣れていないと見えて、マリオを抱いたレオナルドの体が強張り、不安を感じたマリオが泣き出した。

「まいったな……。アガサはこちらへ。ゲストルームに案内するよ。必要なものはすべてそちらに揃えたつもりだけど、何か足りないものがあれば今日中に買い足しに行くから教えてくれ」

 アガサはレオナルドに連れられて邸の中に入った。一緒に車に乗って来た他の二人の男たちが、アガサと子どもたちの荷物を運んでくれる。
 ホールは板張りだが、建物の内壁のほとんどが漆喰塗りの石壁で、木製のイタリア製の家具はどれも光るほどに磨き上げられていた。
 調度品はどれも、豪華に飾り立てるよりも実用的な住みやすさを考えて配置されているようだった。上品でいて、機能的。アガサはそれを見ただけで、この邸の主に好感を持った。

 案内されたゲストルームは、階段を上った二階にあった。
 大きなバルコニーつきの日当たりの良い大部屋で、天蓋つきの四柱のベッドはアガサ一人で寝るにはどう見ても大きすぎた。
 部屋には巨大なバスルームがあり、ベビーベッドや、沐浴のためのベビーバスのほか、オモチャや紙オムツまで、必要な物は何でも備えられていた。

「こんなによくしてもらえるなんて、ちょっと意外だわ。あまり、歓迎されていないと思ったから」
「そうだね。確かに、君と、子どもたちは歓迎されていない。だけど、俺たちのドン、フェデリコはいい人なんだ。必要な物は与えるし、ましてや金で買えるものは出し惜しみしない」
「フェデリコさんには、いつお目にかかれるかしら。何はともあれ、ご挨拶をしたいんだけど」
「ドンはいま不在にしているんだ。マリオの裏切りのせいで、あちこちで被害が出ているから、事態の収拾と、部下たちの安全を確保するために世界中を飛び回っている。しばらくは戻らないと思うよ。ちなみに、ドンが不在の間は、ここの仕切りはドラコに一任されている」

 レオナルドは、続けてアガサに言った。

「食事は一日に三回、僕がここに運ぶから、君たちはこの部屋から外に出ないでくれ」
「どうして?」
「君たちをよく思わない連中もいるからね。ならず者たちがうろつく邸で、不要な危険にさらされたくはないだろう?」
「それなら、私たちはどこかホテルに移っても構わないわ」
「ノストラ―ドが血眼になってその赤ん坊を探している。このイタリアで、ここより安全な場所は他にないよ。勝手に外に出ないこと、わかったね」
「わかったわ」

 それから、何か用があればいつでも、ドアの外にいる見張りに声をかけるように言うと、レオナルドは部屋から出て行った。

 アガサたちの部屋の外には、常に二人の男が見張りに立つことになった。
 外からくる敵から守るためだと思いたかったが、アガサにはどうしても、彼らの目的はアガサたちを外に逃がさないことだと思えて仕方がなかった。





次のページ 第6話2