恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-9
マリオが古城にやってきてから数日後、モーレックは赤ちゃん返りをしてママを追いかけまわすようになった。せっかく頑張りはじめていた離乳トレーニングは後退し、マリオと同じようにミルクを飲みたいと言って、アガサを困らせた。
「あなたはもうお兄ちゃんなのよ、モーレック。歯だって生えてる」
ママにそう言われると、モーレックは口を横一文字に固く閉じて、首を横に振った。
「ミルクよりもずーっとおいしいママのあむあむを食べたくないの? ポテトとお魚と、ほら、かぼちゃのスープ」
「だーっこ!」
「モーレック……」
そんなやりとりをしているうちに、今度はキッチンのベビーベッドでマリオが泣き出すものだから、ママは大忙しだ。
このタイミングでアガサがマリオを抱っこしてしまうとモーレックがぶち切れてギャン泣きするので、ドラコが助っ人に入る。
ドラコはベビーチェアからモーレックを軽々抱き上げると、すっかり大きくなってきた赤ん坊を横向きに抱きかかえてあやしてやりながら、「パパが今から特別に大切な話をしてやるからよく聞くんだ、モーレック」、と言った。それからモーレックの耳元に口を寄せて、ドラコは何かを話しはじめたようだったが、アガサには聞こえなかった。
モーレックがパパの話に聴き入っているようなので、アガサはその隙にマリオに向かい、オムツを換えてミルクを与えた。
マリオはマリオでよく泣く赤ん坊なので、本当に手がかかった。アガサはもうずっと寝不足だ。
「わかったのか?」、と聞くドラコに、モーレックは無言で頷き、「いい子だ」、と褒められて額にキスをされると、またベビーチェアに戻された。
パパにスプーンを握らされると、モーレックは真面目腐った顔で、かぼちゃのスープを上手にすくって口に運んだ。1歳2か月で6歳児用の知恵の輪のおもちゃを制覇してしまう知能のモーレックは、やればできる子なのだ。言葉をよく理解したし、スプーンやフォークを使って食事をすることもちゃんとできた。最近は、簡単な字も読めるようになってきている。
今となっては、1歳児検診のときの医者の診断は誤っていたとしか言いようがない。ドラコが言ったように、脳の血流を自らコントロールして情緒的反応を殺したとまでは、アガサは思っていなかったが、ある種の仮病を装うくらいのことは、モーレックならばしかねない。
「すごいわ、モーレック。偉いわね。美味しい?」
「うん」
そうは答えたものの、ただ無心に口に運んでいる感じで、本当に美味しそうには見えなかった。
「この子になんて言って聞かせたの?」
同じテーブルで食事をしているドラコに聞いてみるが、「男同士の秘密の話だ」、と言って教えてくれなかった。
果たして何を言ったのやら。
「いい子ね、モーレック」
食事が終わる頃にまた眠りについたマリオをベッドに戻して、アガサはモーレックの口についた食べこぼしを拭いてやった。
それから大きなミルク瓶に少しだけ野菜ジュースを入れて、「いらっしゃい」、と言ってモーレックを抱き上げ、マリオにしたのと同じように哺乳瓶で飲ませた。
「そうやって甘やかすから、いつまでも親離れしないんだぞ」
と、ドラコが苦言を呈するが、アガサは難なくそれを払いのける。
「いいのよ、まだまだ親離れしなくて。まだ1歳になったばかりなんだから、うーんと甘やかすつもり」
そう言ったアガサが、とろけるような優しい目でモーレックを見つめているので、ドラコはそれ以上は何も言わないことにする。
だが、その後にアガサが言った言葉には耳を疑った。
「もうお兄ちゃんになったから、沐浴は卒業して、今日からママと一緒にお風呂に入る?」
……、え?
モーレックは哺乳瓶を咥えながら、当然のように「うん」、とママに返している。
なんだそれ、羨ましすぎるだろ、と思いながら、はやる気持ちを抑えてドラコも聞いてみる。
「俺も一緒に入っていい?」
はやる気持ちは全然抑えられなかった。
モーレックがちらりとドラコに視線を向け、そしてまたすぐにママを見上げた。
「あなたまで赤ちゃん返りしたの、ドラコ」
アガサは本気にしていないようだ。
「いつも沐浴は二人で入れているし、前にモスクワでモーレックとシャワーに入ったときは、大泣きさせていたじゃないか。助けが必要なはずだ」
「大丈夫よ、心配いらない。浴槽に浮かべるオモチャを準備しているし、モーレックはもうお兄ちゃんになったから、あの時みたいにシャワーを怖がったりしないものね。ママがちゃーんと、目に入らないように抱っこして、頭を洗ってあげるからね」
なんだそれ、羨ましすぎるだろ。本日二回目が発動した。
「俺も一緒に入りたい」
やや拗ねた声色になるドラコに、アガサが眉を寄せて顔を向けてくる。
「もしかして、本気で言ってる?」
「そうだよ」
「あなたはダメ」
ピシャリと拒絶された。
「なんでモーレックはいいのに、俺はダメなの」
「わかるでしょう?」
「わからないよ」
鉄面皮でいつも理屈っぽい喋り方をするアガサが、不意に頬を赤らめた。
「恥ずかしいからよ……」
ドラコの胸の鼓動が跳ねた。
「俺に、裸を見られるのが恥ずかしいの? それって、俺のことを男として、」
意識しているからだよな。
だがアガサは遮って、またいつもの調子で理屈っぽく聖書の話を持ち出してきた。
「エデンの園で禁断の果実を口にして以来、裸を見られるのを恥ずかしいと思うのは神が人類に与えた羞恥心で……」
「モスクワで裸を見せあった仲じゃないか」
と、ドラコが遮り返す。
低体温症を起こしているモーレックを温めるために、アガサが咄嗟に上半身を裸にしたときのことを言っているのだ。あのときは非常事態だったから、アガサは事情が違うことを説明しようとするが、ドラコはさらに目を閉じて声高に続けた。
「こうして目を閉じると、いつでもあの時の君の裸を見ることができる」
と。
最初に思い浮かべるのは、あの胸の柔らかな膨らみ。
吸い付きたいほど綺麗で、きめ細やかな肌は、おそらくまだどんな男にも触れられたことがない。そう想像したあとにあの、腰のくびれを見たら、理性が揺るがされ、思わず欲望のまま奪いたくなってしまう、あのときの衝動も。
事実、ドラコは本当にリアルにそれを思い出すことができた。
「ちょ、何を考えてるの? 目を開けなさい」
「無理、いま、いいところだから」
「ドラコ、ふざけないで! モーレックが変な目で見てる」
目を開けると、アガサが真っ赤な顔をしてこちらを睨んでいた。
怒ると本当に怖い顔をする女だが、今日は恥ずかしがっているのが本当に、
――可愛い。
◇
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