恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-10
その夜、アガサは本当にモーレックを連れて、子ども部屋のバスルームに入って行った。
浴槽に張られたお湯にはたっぷりと泡が浮き、その中をアヒルや、ゼンマイ式の船のオモチャが楽しそうに漂っていた。
風呂上がりにモーレックに着せる肌着と、オムツ、それに水分補給用のリンゴジュースを余念なく準備すると、アガサはドラコをバスルームから追い出してドアを閉めた。
「おいおい、本当に自分たちだけ楽しむつもりかよ……」
がっかりして呟きが漏れる。
マリオの面倒を任されたドラコは、のけ者にされた気分で子ども部屋のモーレックの小さなベッドに腰を下ろし、そのまま上半身を倒した。
小さな赤ん坊のマリオは先に沐浴を終えて、すでに就寝前のミルクをたっぷり与えられた後なので、今はモーレックのベッドの隣のベビーベッドで眠っている。ドラコは他にやることもなく、バスルームのドアの向こうから聞こえてくる楽しそうな声に耳を傾けた。
シャワーの流れる音がして、モーレックが何か言ったが、アガサがそれに対して優しく話しかけている。やがてモーレックがきゃっきゃと笑いはじめ、動かないようにママから注意されているが、やがて今度はアガサの方からモーレックに何かを仕掛けたようで、モーレックがきゃあー! っと笑いの悲鳴を上げた。つられてアガサも笑い、二人の幸せそうな笑い声がいつまでも、いつまでも続いた。
「風呂に入って体を洗うだけなのに、いったい何がそんなに楽しいんだ……?」
ベッドの上でドラコは上半身を起こし、今すぐにでも乱入してやろうかとバスルームのドアを見つめた。
そこでシャワーの音が止んだ。多分、二人で浴槽に入ったのだろう。急に静かになった。
耳を澄ましてみれば、どうやらモーレックがアヒルの数を数えているようだ。
「5羽のアヒルがお出かけ~」、と、アガサが歌い始めた。
数え歌のようだったが、はじめは5羽いたアヒルの子が、お出かけをするたびに1羽ずつ減っていく歌だった。
「怖すぎるだろ……」
不安に眉を顰めるドラコをよそに、アガサの歌声はどんどん悲しくなっていき、アヒルの子どもたちはついに最後には1羽も戻ってこなくなった。
バスルームにはアガサの歌声のほかは音がなくなり、モーレックが耳をそばだてて歌のストーリーに聴き入っている様子がドラコにも容易に想像できた。
「寂しいママがお出かけ~、丘を越えて遠くへ~、まーまが呼んでかあかあかあ、……5羽みんな戻って来た!」
曲はいきなり明るくテンポを上げて、5羽のアヒルの子とママがまたみんなでお出かけをしていくというエンドを迎えた。きっとモーレックも安心したと思うが、人知れず耳をすましていたドラコもほっとした。
水を切って立ち上がる音がして、洗面所の脱衣エリアに二人が出てくる気配がした。
ドアが開くと、二人の体から漂う石鹸の香りがドラコの鼻をくすぐった。
バスローブ姿で、濡れた髪をアップに纏めたアガサが、タオルにすっぽりくるんだモーレックを抱いて出てきた。
いかんともしがたい衝動を圧しとどめて、ドラコは彼女からモーレックを預かり、タオルで全身を拭いてやると、保湿クリームを全身に塗って、オムツや肌着を着せつけていった。モーレックは次に何をされるのかを心得ていて、手を上げたり、自分で体の向きを変えたりして、とても協力的だった。
風呂上がりのルーチンを終えると、モーレックはママから差し出されたストロー付きのボトルを受け取って、リンゴジュースを美味しそうに飲んだ。
その様子を眺めながら、ドラコは興味本位でアガサに聞いてみた。
「さっきの歌のアヒルの子たちは、どうして1羽ずつ帰ってこなくなったんだ?」
「ああ、それはね」
濡れた髪をタオルで拭きながら、アガサが教えてくれる。
「モーレックが1羽ずつ捕まえていたからよ。5羽ぜんぶを独り占めにしてしまって、最後にママが悲しそうにすると、全部を返してくれたからハッピーエンドでまだお出かけすることができたわけ。あれは子どもの情緒を育むための、数え歌なのよ。よくできているでしょう」
なるほど、おもちゃを独り占めにしたいが、ストーリーの中でママが悲しんでいることがわかると、それを手放すことを学ぶのか。
おまけに数え歌にもなっている。よくできているな、と、ドラコも思った。
◇
モーレックを寝かしつけると、アガサとドラコは子ども部屋から静かに出た。
バスローブ姿のアガサの手を不意につかんで、ドラコが言った。
「近いうちに君にプロポーズをするよ」
と。
アガサは子育てで疲れ切っていたので、そう言われたときには頭が眠気でボーっとしていて、半分は夢なのかもしれないと思った。
「食べ物や飲み物の中に指輪を隠すのはやめてね。できれば、普通に手渡ししてほしいわ」
「わかった」
「できれば、指輪を渡した後に、優しくキスをして」
「もちろん」
「それから、愛の詩も詠んで欲しい……」
「それはちょっと」
「え、詠んでくれないの? 情熱的な愛の詩を期待しているんだけれど」
「本気で言ってるのか? 恥ずかしいよ」
「冗談よ」
アガサはクスリと笑って、ドラコを優しくハグした。
「でも詠んでくれたら嬉しいけど」
「わかったよ、考えておく」
「大好きよ、ドラコ。おやすみなさい」
「……おやすみ」
ドラコはまだ濡れているアガサの髪の中にキスを落とした。カモミールの優しい香りが鼻孔をくすぐり、そのまま彼女を放したくなくなるが、すぐに腕を解く。
アガサは、小さな欠伸をしながらふらふらと自分の部屋の方へ歩き去って行った。
子ども部屋は二人の部屋のちょうど中間にあって、ドラコはゆっくりと反対側の廊下に、自分の部屋の方へ進んだ。
それなりに場数を踏んで男女の色恋には慣れているはずなのに、どうしてかアガサを相手にすると、ドラコの心は震えた。おそらくは純潔のために男とは一度も肉体関係を持ったことがないだろうアガサの方が、愛情を表現するということに関してはドラコよりもずっと慣れていて、自然体だった。
――大好きよ、ドラコ。
ドラコは人知れず熱い吐息を漏らした。
きっと今夜は彼女のことが頭から離れず、もう何度目かの眠れない夜を過ごすことになるだろう。
彼女を腕に抱いて眠る夜が、ドラコには待ち遠しくて仕方がなかった。
◇
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