恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-8


 心地よい温もりは、明け方の赤ん坊の泣き声に呼ばれて離れていった。
 ドラコはソファーの上で寝返りを打って、ついさっきまでそこにあったアガサの温もりを抱きしめた。

 お湯を沸かしてミルクを作るために、アガサは赤ん坊を連れてキッチンに出ていった。
 彼女の声や、家事をしている音が聞こえると安心して、ドラコはまた眠りに落ちていった。
 猫のモーニングがドラコの足元に飛び乗ってきて、そこで丸くなった。好きにさせておいてやると、今度は背中をつつかれた。
 再び寝返りをうって目を開けると、モーレックがいた。

「起きたのか。ママは、キッチンだよ」
 そう伝えてみたものの、モーレックはドラコが寝ているソファーによじ登ろうとしてくるので、抱き上げて、一緒に毛布の中に入れてやる。
 モーレックはさもそれが目的であったかのように、ドラコの腕の中にすっぽりとおさまって横になると、小さな手でドラコのシャツを掴んで、「ぱぱ」、と言って目を閉じた。
 不意に愛おしさがこみあげてきて、目頭が熱くなる。
 ドラコはモーレックを優しく抱きしめた。
 小さな体が、アガサと同じように温かかった。腕の中で寝息をたてはじめたモーレックからは、アガサと同じ匂いがした。





 朝7時にもう一度、赤ん坊にミルクを与えてから、アガサはモーレックを連れて出かけていった。新生児用のミルクとオムツを買うためだ。
 古城のリビングに、まだ名もない赤ん坊と二人きりで残されたドラコはふと、――彼女がいて良かったと思った。
 嵐の夜も、ニースでの仕事のときも、そして昨晩も、アガサがいたから乗り越えることができた。

 ドラコにはこれまで、怖いものなどなかった。

 ニューヨークの薄汚れた路地でたまたま拾われた命が、上手く利用されて、今の自分があるから、こんな世界に生きていれば傷つくことも死ぬこともあるだろうし、奪った分だけ、失うこともあると覚悟しているつもりだった。

 だが、そんなドラコにも一つだけ大切なものがあって、この世界から足を洗いたいと言ったマリオのことだけは、守りたいと思っていた。最愛の人との平和な暮らしを夢見た、兄弟のような親友、……バカでキザな男のことを。
 もっと、気にかけてやればよかった。
 どうして、気づいてやれなかったんだろう。
 今更になって後悔がこみ上げてくる。

 アガサと出会ってから、ドラコは自分が弱くなってしまったように感じている。
 今は、何もかもが怖い。
 朝に一人で目覚めることも、誰かが死ぬことも、今のこの、古城での暮らしが失われることも。
 今は仲間を裏切ってまでアナトリアとその子どもを守ったマリオの気持ちが、ドラコには分かるような気がする。
 もし、アガサとモーレックに同じように危険が及んだら、きっとドラコも、何を犠牲にしても彼女たちを守ろうとするだろう。

 ドラコは、消えかけた暖炉の火の前に座って、兄弟のように思っている親友に語り掛けた。

――マリオ、お前に、アガサを紹介できたらよかったのに。
 アナトリアとアガサは、きっと良い親友になっただろう。
 アガサがどんなカクテルの注文をするかを見て、お前と一緒に笑いたかったよ。

――最後にお前と飲んだウォッカ・マティーニは旨かった。
 いつか永遠の先でまた会えたら、そのときは今度は俺がオリンピックを作ってやる。――待ち焦がれた再会。
 そうやって酒を飲みながら、互いの妻や子どもたちのことを自慢し合うのは、きっと楽しいだろうな。

 暖炉の中から火種となる欠片を取り出して、ドラコは古い灰を掻きだした。
 新しい薪をくべて、火種を戻す。
 ほどなくして、暖炉の中の炎が息を吹き返し、赤く鼓動し始めた。
 温かい。

 この地上では、火と煙は天に昇っていく。きっとその先に、天国という場所はあるんだろう。

 赤ん坊が泣き始めたので、ドラコは立ち上がってベビーベッドに近づいた。
 ミルクの時間にはまだ早いから、オムツだろうか。
 前開きのカバーオールと肌着を開いて見てみるが、違うようだ。
 どうしたものかと考えたあげく、柔らかな体を抱き上げてみる。重心が胸よりも頭のほうにあるらしく、首がまだ座っていないので、バランスを崩して落としてしまいそうになる。
 慎重に。

 なんとか胸に抱いてみても、赤ん坊は泣き止まなかった。
 それどころか、顔を真っ赤にして、怒ったように、どんどん声を張り上げていく。
 どうして泣いているのかが分からない。
 ドラコは急に無力感に襲われて、赤ん坊を放りだしたくなった。
 自分の子どもすらまだつくったことがないのに、こんな得たいの知れない肉の塊を育てられるはずがない、と、恐怖が胸に込み上げてくる。

「頼むから泣き止んでくれ……」
 赤ん坊の悲壮な叫びが、ドラコをたまらなく不安にさせた。
「どうしたらいいんだ……」
 結局どうすることもできずに途方にくれて、ドラコはアガサが帰ってくるのを、ただ待つことしかできなかった。
 彼女はすぐに帰ってくると言ったが、ドラコには、その時間が耐えがたいほど長く感じられた。





 両手いっぱいの荷物とモーレックを抱えたアガサが帰って来たのはそれから一時間後のことだった。
 
 金切声をあげている赤ん坊を胸に、憔悴しきった様子のドラコがキッチンにやってきて、助けを求める様にアガサの名前を呼んだ。
「オムツは換えたし、ミルクを与えても飲まないんだ、もうずっと、この調子で泣き続けている」
「とにかく、そこに座って」

 アガサはドラコをスツールに座らせると、買ってきた荷物をキッチンカウンターの上に置き、眠っているモーレックをキッチンのベビーベッドにそっと横たえた。置いた瞬間にモーレックが目を覚ましてグズりそうになるが、優しく声をかけて、額にキスをして毛布でくるむ。モーレックはすぐに脱力してまた眠りの中に入っていった。

 それからアガサはドラコの腕の中で赤ん坊を縦にして、彼の肩に赤ん坊の頭をもたせかけた。ドラコの手を掴んで、右手を赤ん坊の頭に、左手で赤ん坊のお尻を支える様にもっていってやる。途端に、赤ん坊の泣き声が少し柔らかくなった。
「ただ不安で、安心させてもらいたくて泣いていることもあるのよ。そんなときはこうやって体をピッタリとくっつけてあげて、大丈夫だって言ってあげるの」
 アガサはドラコの背後から腕を回して赤ん坊を一緒に抱き、小さな背中を優しくさすって、赤ん坊の顔にそっとキスをした。
 ほどなくして、あれだけ泣いていた赤ん坊が泣き止んだ。
 泣き疲れて痙攣し、今はドラコの肩の上で安心したように、小さな声を漏らしはじめた。


 少なくともアガサは、ドラコが泣いている赤ん坊の顔に枕を押し当てなかったことを大きな成長だと捉えた。
 だから、疲れ切った様子のドラコの背中をたたき、「よく頑張ったわね、パパ」、と褒めて彼の頬にもキスをした。

「こんな小さな赤ん坊を育てるのは、俺には無理だ」
 と、絶望したようにドラコが呟いた。
「無理なものですか。きっとできるわよ」
 買って来たばかりの新生児用の粉ミルクを、同じく買って来たばかりの新生児用の哺乳瓶に入れて、アガサがお湯を沸かし始めた。
「赤子の手を捻るのとはわけが違う。育むのは、ずっと難しい」
「モーレックのパパになってくれるんじゃなかったの」
「そうだよ。一人だけで精一杯だ」
「私たちの間には4人の子どもがいるはずでしょ」
 と、アガサが呑気に言った。
「冗談はよしてくれ……」
 ベガスでは笑い話だったが、あれが実際になればとても恐ろしいことだと気づき、ドラコは身震いする。
「親友の子を見捨てるの」
「この子は、ノストラ―ドとアルテミッズの争いの火種になる子だ……」
 そう言って、ドラコはマリオとアナトリアが命を落とすことになった経緯を、アガサに話して聞かせた。
 アガサは黙ってそれを聞いていて、ドラコが話を終えると静かにこう言った。
「それなら、私たちがこの子を守らないと」

 その瞬間、ドラコの頭の中に、マリオが嬉しそうに微笑む姿が思い浮かんだ。

――頼んだぞ、ドラコ。一生のお願いだ。

 無茶を言いやがって。
 あのバカ野郎が。

 けれどドラコは、アガサと一緒ならその無茶をやり遂げられるような気がした。

「もし俺がプロポーズしたら、正式に夫婦になって、この子たちを一生俺たちの子として育てる覚悟はあるか?」
 ミルクを作り終えたアガサが、ドラコの隣に座って答えた。
「うん。どんなプロポーズをしてくれるかによる」
 と。
 それを聞いた瞬間、ドラコの内に何か温かいものが満ちた感じがした。

 アガサに促されて、ドラコは赤ん坊を横向きに抱き直すと、差し出された哺乳瓶を受け取って、赤ん坊の口に吸い口の先を近づけた。
 指先でトントンと口の周りに触れてやると、赤ん坊は口を開いて、すぐにミルクに吸い付いた。
 しばらく二人で、ミルクを飲んでいる赤ん坊を見つめながら、
「可愛いわね」
 と、アガサが言うと、
「そうか? 皺くちゃで猿みたいだ」
 と、ドラコが言った。
 アガサはつい、一言説教をしてやりたくなるが、やめた。赤ん坊に注がれているドラコの眼差しが、とても優しいものであることに気づいたからだ。

「そういえば、この赤ちゃんの名前はなんていうの?」
 と、アガサが聞いた。
 ドラコは少し考えてから、アガサに答えた。

――マリオだ
 と。
 
「いい名前ね」
 アガサは本当に、それはいい名前だと思った。ドラコにとってそれは、親友への愛と、約束の証明でもあるのだろう。
 モーレックを愛するのと同じように、マリオのこともきっと愛せるはずだ。
 マリオとアナトリアから受け継いだ命を、何があっても、絶対に守って見せる。

 ドラコの腕の中で一生懸命にミルクに吸い付いている小さな赤ん坊を見つめて、アガサの胸にも愛しさが込み上げていた。





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