恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-4


 ウエストサイドのフリーウェイを北上して、サンフランシスコを抜けると、ドラコの運転するストラダーレはサクラメント市街に入った。
 そこからさらに30キロほど北上したローズビルという街に、マリオの家はあった。
 
 ストラダーレを路上に駐車して、ドラコはその家をゆっくりと観察した。
 玄関前のポーチの外灯と、庭からの間接照明でライトアップされたその家は、バンガロー風の平屋の一軒家で、外壁は薄い水色だ。ドラコにはその色が、なんだかキザなマリオのイメージとはかけ離れて、可愛らしすぎる様に見えたが、近づくとかすかにペンキの臭いがしたから、もしかすると子どものために最近、塗り直したのかもしれない、と考えたりした。だとすると、マリオの子どもは男の子だろうか。そんなことを思いめぐらしてしまうのは、アガサやモーレックと暮らすうちに、赤ん坊のいる生活がドラコにも沁みついてしまったせいかもしれない。

 広い庭には日除けの木々が植えられ、通りからの視界を適度に遮っている。
 大きくはないが、住みやすそうな家だな、とドラコは思った。

 玄関のベルを鳴らすと、すぐにマリオ自身がドアを開いて、ドラコを迎え入れた。
「よお、兄弟。久しぶりだな」
 マリオは温かい手でドラコを引き寄せると、胸をあてて、挨拶のためのハグをした。
 思ったより元気そうなので、ドラコは内心で安堵する。

 マリオの背後に、まだ生まれたばかりの赤ん坊を抱いた女が立っていた。
「紹介するよ。妻の、アナトリアだ」
「はじめまして、あなたのことは、いつもマリオから聞いています。お会いできて光栄ですわ」
 アナトリアは、ダークブロンドの長い髪をゆるやかに背中に流した美しい女性で、ドラコと目が合うと、どこか幼さの残る可愛らしい笑みを浮かべた。
 なるほど、マリオが恋に落ちたのも無理はない、と、ドラコは得心した。
 英語は不慣れなのか、アナトリアの言葉には強いイタリア訛りがあることにドラコは気づいた。

「もしそのほうが良ければ、俺はイタリア語でも構わないよ」
 と、ドラコは言った。
「ほら、いったろ」
 と、マリオがイタリア語でアナトリアに笑いかけると、頬を赤らめてはにかみながら、アナトリアもイタリア語で話し始めた。
「ごめんなさい、この人と結婚してから英語を頑張っているんですけど、どうしても甘えてしまって」
「イタリアの、どこ出身?」
「あ、シチリア島です」
 一瞬、アナトリアがほんの少しだけ答えに窮したように、ドラコには見えた。
「へえ、シチリア島か」
 最古のイタリアンマフィア、ノストラ―ド・ファミリーの本拠地があるところだな、とドラコは何気なく思った。
「アナトリアはこれから息子を寝かしつけに入るところなんだ。ドラコ、俺たちは、キッチンで飲もうじゃないか」
 マリオが引っ張るので、ドラコはアナトリアとは忙しなくおやすみの挨拶を交わしただけで、すぐに広いキッチンに案内された。
 そこにも外壁と同じ、淡い水色のタイルが壁一面に貼られていた。

「この色は、彼女の趣味なのか?」
「そうだよ」
 と、答えたマリオが、不本意なようなので、ドラコは面白くなって茶化す。
「可愛い」
「うるさい」

 キッチンの一角にあるセラーの扉を開いて、マリオはウォッカとドライベルモットを取り出した。
「マティーニを作るけど、お前も飲むか?」
 マリオは昔から、ジンではなくウォッカをベースにして作るマティーニを好んだ。しかも、ステアではなくシェイクで作る。そうすることで、本来のマティーニよりもまろやかで、キンキンに冷えた味わいを楽しむことができる。
 カクテルにはそれぞれに意味がある。
 社交の場では、相手がどんな酒を注文するかで、秘密のメッセージの交換をすることもある。

 ニースでの最後の夜に、仲間たちと飲んだカクテルにも意味があった。
 アーベイや、ラット、エマはいつも分かりやすい注文をする。ニコライはカクテル言葉で遊ぶつもりはなく、ただひたすらに好きな酒を飲み続けるタイプだ。アガサは、全く意味を理解していないどころか、ともすれば相手に誤解を与えるような、危うい注文の仕方をする。

 そして、今夜マリオが飲もうとしているのはウォッカを使ったマティーニだ。――選択、という意味がある。
 ドラコはなんとなく、マリオが重大な決断を迫られていて、今夜何らかの答えを出すつもりなのだということを察する。

「一杯だけもらおう」
「一杯だけ?」
「お前の話を聞いたら、すぐに帰るからな」
「片道700キロの道を、今夜帰るのか? うちに泊って行けばいいのに」
 ドラコは首を横に振った。アガサが夕飯を作って、待ってくれている気がした。
 そんなドラコの様子を観察してニヤニヤしながら、マリオはシェイカーに二人分のウォッカとドライマティーニ、砕いた氷を入れて、慣れた手つきで振り始めた。
 色気さえあるその仕草を黙って見つめながら、カクテルの作り方を最初に教えてくれたのはマリオだったな、とドラコは思い返す。
 マリオが作ってくれる酒はいつも最高に美味しかった。
 自分でも旨い酒を飲みたいと思い、そのうちドラコもカクテルを作るようになったのだが、マリオの方は最初から、女にモテるためにカクテルを作っている節がある。コイツはただのキザな女たらしだ、とドラコは思う。

 二つのハイステイグラスに注がれた、その一つを、マリオがドラコに押し出してきた。
 それぞれのグラスを手に、杯を掲げて、二人で同じ酒を楽しむ。
 やっぱり、この男が作る酒は旨いな、と、ドラコは思った。

「それで、何か話があるんじゃないのか」
「その前に、久しぶりに会ったんだ。お前の話を聞かせてくれよ、ドラコ」
 キッチンの中で立ったまま、二人は話し始めた。
「ニューヨークをジョーイに引き継いで、俺がロサンゼルスの面倒をみてるよ」
「ロスはバカばっかりで大変だろう」
「本当にそれな。全部お前のせいだからな」
「それで、今一緒に暮らしている女性とはどうなんだ。養子まで引き取ったらしいけど、彼女を本当に愛しているのか?」
 ドラコはグラスの底に沈むオリーブに視線を落として、素直に頷きたい気持ちを押さえた。まだ、愛しているという言葉は、軽はずみに使ってはいけない気がした。

 視線を落として言葉を失ったドラコの姿を、マリオはジッと見つめた。
 ドラコに注がれるマリオの視線はとても優しいが、同時に鋭くもある。どうしても見抜きたい真実を、ドラコの中に求める様に。
 それこそが、今夜マリオがドラコに求めている答えでもあった。

「朝、目覚めると」
 と、ドラコが静かに口を開いた。
「彼女にまた会えることが嬉しくて、急いでベッドから出るんだ。でも、おやすみを言って夜またベッドに入る頃には、明日も今日と同じ幸せが続くだろうかと、急に怖くなるんだ。俺は汚れた、悪い人間だから、彼女に相応しい男になれたと確信できるまでは、愛しているという言葉はまだ言えない」
 マリオが真っすぐに、嬉しそうにドラコを見つめていた。
「彼女に恋をしているんだな」
 茶化したのではなく、とても優しい、励ますような言い方だった。
「そんな目で見るなよ」
「アガサ、といったな。今朝、電話で話したけど、彼女はドラコのことを愛していると思うか?」
 マリオに問われて、ドラコは無意識に首元のネクタイに指で触れた。
 もちろんその仕草に、マリオもすぐに気が付く。
――愛されているのだろうか。

「アガサからは、今までに感じたことのない愛情を感じる。彼女は俺のことを大切に思ってくれていると思う。でも、男として求められていると感じたことは一度もないんだ」
「アナトリアも、最初はお堅い女だったよ」
「お前もキスをして殴られたのか?」
「ないけど。あるのか?」
「初めてキスをしたとき、聖書でぶん殴られて土に還されそうになったよ」
「それ、まじで言ってる……?」
 ドラコが当時の状況を簡単に説明すると、マリオは腹を抱えてケラケラと笑い始めた。
「それはお前のキスが下手だったんじゃないのか」
 マリオの言葉にドラコはムッとする。
「……もう帰りたい。早く要件を言えよ」
「怒るなって。あと一つだけ聞かせてくれ、これが最後だから」
「なんだよ。お察しの通り、彼女とは【まだ】寝てない」
 聞いてもいないのにドラコが不貞腐れたようにそう打ち明けるので、マリオはまた笑いの発作に襲われそうになって歯を食いしばった。
 これ以上ドラコを怒らせると本当に帰ってしまいそうなので、マリオは必死に笑いを呑み込んだ。

「そうじゃなくてさ、俺が聞きたいのは、どうして彼女と結婚しないのか、ってことなんだ。婚姻契約を結べたなら、同時に婚姻届けを出すこともできたはずだろ。なんで、それを出さなかった?」
「ニコライも同じことを言ったよ」
「ああ、あのロシアの変態か」
「アガサは、婚姻契約書にサインするときでさえ涙ぐみながら、しぶしぶって感じだったんだ。彼女がまだ俺との結婚に覚悟をもてていないことは分かっていたし、俺も、本当の結婚は、ちゃんとプロポーズをして、彼女がそれを承諾してからにしたいと思った。だから、とりあえず養子縁組に必要な体裁だけを整えたんだ。単純な話さ」
「じゃあ、彼女にプロポーズするんだな」
「もちろん」
 今度は躊躇うことなくドラコがそう答えたので、マリオはついに決心した。
 急に、マリオの表情が変わったことに、ドラコも気づいた。

「ドラコ、どうかよく聞いてくれ。今から、とても大事な話をする。――俺の一生のお願いだ」
 そう言って、マリオはとても悲しい目をした。





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