恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-3
モーレックが1歳になって、数カ月がたったある朝、ドラコはいつになく深刻な面持ちで新聞に目を通していた。
――組織の中に裏切者が居る。粛清せよ。
新聞の紙面には、各支部の幹部にだけ伝わる暗号が記されていた。
アルテミッズ・ファミリーの内部情報が他の組織に漏れているという、信じがたい報せが。
世界中に拠点を構えるファミリーの組員たちの情報は、秘匿されている。
だから組員同士は互いの個人情報を知ることはない。名前、表向きの職業、どこに住んでいるのか。
例外として、年に一度の総会合に参加する幹部――各支部のボスは、互いに顔を合わせ、組織を牽引するために必要な情報を交換することがあるが、それでも、無暗に互いの個人情報を明かさないのがアルテミッズ・ファミリーの暗黙のルールとなっている。
モスクワに行ったときも、ドラコはニコライの家の場所を知らなかったし、ルイスがタクシー運転手という表向きの職業を持っていることも、初めて知った。
当然ながら、ドラコがアガサの古城に住んでいることを知るのも、ごく限られたメンバーだ。
彼らの日常生活については、あえて言う必要がなく、また聞く必要もないことだった。そうやってファミリーは、互いに仲間を守り、自分自身を守っているのだ。
ちなみに、ここだけの話だが……。
ベガスの学会で、アガサがドラコのことを電気の修理屋だと紹介したので、彼は彼女の嘘を本当にするために【ちょっとした】電力ビジネスに手を広げるようになった。そのビジネスが思いのほか上々に運び、今やドラコの手によって、カリフォルニア州の全電力網は、アルテミッズ・ファミリーの手中にあるが、それを知っている者は少ない。
話はそれたが、ファミリーの中には、一般人を妻子に持ち、表向きには善良な市民として暮らしている者もいるのだ。
もし本当に裏切者がいて、アルテミッズ・ファミリーの組員情報を外部に漏らしているとすれば、その情報をもとにファミリーは必ず敵に狙われる。家族が標的にされるかもしれない。
それはアガサとモーレックと古城に暮らすドラコにとっても、見過ごせない重大な問題だった。
ドラコはソファーのリビングに深く腰掛けながら、考えを巡らせた。
ロサンゼルス支部の部下たちの顔を一人一人、順に思い浮かべてみるが、こっちに来てから不安要素はすでに排除した後だったので、怪しい動きをしている者に心当たりはなかった。
アルテミッズ・ファミリーへの忠誠は、ドンであるフェデリコへの忠誠であり、それはすなわち、仲間への忠誠でもある。
なぜなら、フェデリコはファミリーの末端の組員の一人にいたるまでを等しく我が子のように大切に考えているからだ。だからこそ、
――裏切りは決して許されない。
二度はない。仲間を敵に売り渡すような奴は、見つけられ次第、確実に処刑されるだろう。
その時、キッチンで電話が鳴った。
モーレックに朝食を与えていたアガサが、電話に出て、誰かと話しているのがドラコの耳にも聞こえてくる。
モーレックは、あと数カ月でミルクを卒業しなければならないらしく、アガサは近頃、様々な柔らかい固形食をモーレックに試しているのだが、当のモーレックは気乗りしないらしく、反抗的な姿勢を貫いているので、ママは大変そうである。
そのアガサが、電話を保留にしてリビングにやってきた。
「ドラコ、電話がきてる。マリオっていう男の人から」
ドラコは耳を疑った。
マリオは、ドラコと同じニューヨークのストリート出身の、ドラコにとっては兄弟のような昔馴染みだ。元アルテミッズ・ファミリーのロサンゼルス支部でボスの座を与えられていたマリオは、堅気の女と結婚したのをきっかけに、ファミリーとは完全に縁を切った。一時期はそれをよく思わない仲間たちから命を狙われ、ドラコが助けたこともあった。そのときにギャングと撃ち合いになって、ドラコはアガサと知り合ったのだ。あの、嵐の夜に。
マリオは今はサクラメントの郊外に移って平和に暮らしているはずだが……。
キッチンで受話器をとり、懐かしさよりも先に疑念が立つ。
『どうやってここを知った?』
『相変わらず、不愛想だね』
聞き慣れたマリオの声だった。
『言え』
『そう怒るなって。俺は、今は役所勤めなものでね。いろいろな書類に目を通すことができるんだよ。で、お前の名前を見つけた。驚いたよ、書類上の婚姻関係を結んだ女性がいると知ったときには。ドラコ、いつかお前もそういう相手を見つけるんじゃないかと俺は思っていたが、実際にそうなってみると信じがたくて……直接、話したくなったんだ』
なるほど、かつてロサンゼルス支部でボスを張っていたマリオなら、それくらいのことを調べられたとしても不思議はない。
だがドラコは引っかかった。マリオは普段から饒舌だが、無駄口をたたくような男ではなかった。なのにその時、ドラコにはマリオが何故か本題に入ることを躊躇っているように感じられた。
『それで、要件はなんだ』
『そんなに警戒しなくてもいいだろう、まあ、【正しい】が』
キッチンでは、食事を終えたモーレックが服を脱がせられて、オムツ一張になっている。食べ物をこぼして盛大に汚すので、食事の後はいつも丸着替えだ。
「なんて悪い子なの、モーレック! あなたがわざとやっていることは、ママはもうお見通しなんですからね」
ベビーチェアから床に降ろされたモーレックは、よたよたとした足取りで、だが、意外にも素早く、キャッキャと笑いながら広間の方に走り出ていった。
「こら、待ちなさい!」
こちらの騒々しさが伝わったのか、電話の向こうでマリオがクスクスと笑っている。
『久しぶりにお前に会いたいよ、ドラコ。実は、うちにも子どもが生まれたんだ。よければこの子のために、――お前に名前をつけてもらいたい』
ドラコは眉をしかめた。
少なくとも、ドラコのよく知るマリオは、そんなことを言う奴ではなかったはずだ。マリオは、大切なことは何でも自分で決めたがる男だった。
ファミリーを命がけで抜けてまで添い遂げた女との間に生まれた子どもに、マリオ自身が名前をつけないのは、とても不自然だ。
『何があった?』
『うちに来てくれないか。久しぶりに一緒に飲もう』
ドラコには、そう言ったマリオの声が悲し気に濡れているように聞こえた。
『どこに行けばいい?』
『今夜8時に。サクラメントの自宅の住所は、今メールで送ったよ』
ズボンのポケットの中で携帯電話が震えて、見ると、差出人不明の相手からサクラメントの住所が届いていた。
『わかった』
電話を切ろうとしたドラコに、マリオが最後に言った。
『ドラコ、スピードを出しすぎるんじゃないぞ。メンテナンスを怠るな』
ドラコは受話器を置いた。
――警戒しろ。武装して来い。
電話を切る前にマリオが隠語で伝えてきたことからも、何か良くないことが起きているのは明らかだった。
◇
ロサンゼルスからサクラメントまでは700キロ以上あるので、ドラコは夕方の早い時間にジョルジオ・アルマーニのスーツに着替えてキッチンに降りてきた。その肩には、まだ結んでいないネクタイが掛けられている。
モーレックをベビーチェアに座らせておもちゃで遊ばせながら、アガサは夕飯の準備をしていた。
モーレックが今遊んでいるのは、6歳児用のプラスチック製の知恵の輪だが、これを渡すとまだ1歳2か月のモーレックは1時間くらいはずっと集中して取り組んでいる。
「今夜は遅くなる」
「そう。夕飯を作っておくから、帰ってきたら好きに食べてね」
「アガサ、ネクタイを結んでくれ」
そう言ってドラコが近づいて来たので、アガサは意外な顔をして振り返る。ドラコがそんなことを頼んでくるのは初めてだ。
だが、ドラコの様子が朝から何やら深刻なことには気づいていたし、またジョルジオ・アルマーニのスーツをビシッと決めていることから察して、アガサはあえて何も言わずに、ドラコの肩からネクタイを手に取った。
「ウィンザー・ノットしかできないわよ」
「それでいい」
シャツの襟を上げてドラコの首にネクタイを回し、かつて父親に教えてもらった結び方で、アガサは手早くネクタイを締めてやった。
「きつくない?」
「うん」
シャツの襟を元に戻して、全体のバランスを整えてやる。ネクタイの起源は、妻が戦争に行く夫の無事を祈って、下着の端を破って夫の首に巻きつけたことが始まりだというのを、何かで読んだことがある。
「気を付けてね」
アガサはそう言って、また夕飯の準備に戻ろうとしたが、ドラコは不満そうな顔をする。
「それだけ……?」
「なにが?」
「キスしてくれないんだ」
「どうして私があなたにキスすると思ったの」
「流れ的に、それが普通かなって思ったんだけど。俺、今夜死ぬかも」
「だからネクタイを結んであげたでしょう」
ドラコが大きな溜息をついて、ふてくされる。
「そういうところ、本当に……」
「はいはい、もうわかったから」
アガサは両手を広げ、ドラコをハグした。すぐに、ドラコも彼女の背中に腕を回す。そうやってしばらく抱き合ったまま、ドラコがぽつりと零した。
「俺がアガサと初めて会った、あの嵐の夜に、昔馴染みを逃がしたと言ったの、覚えてる」
「うん。今朝、電話をかけてきた人が、そうなんでしょう」
「今夜、久しぶりに会いたいと言ってきたんだ」
「そうなの。大切な友人なら、それは会いに行かなきゃね。もし彼が助けを求めているなら、尚のこと」
アガサはドラコを強く抱きしめて、自分の肩に顔を垂れているドラコにキスをした。
そのとき、アガサの唇が偶然にドラコの耳に触れたので、くすぐったかったのか、ドラコが少し笑った。
「耳へキスするのが、男を誘惑する意味になるのを知ってるんだよな」
ドラコがより一層力をこめて、ギュッとアガサを抱きしめてきたので、アガサはぎょっとする。
「え、嘘でしょ、私、そんなつもりじゃ、違う、知らなかった! ちょ、放して、って」
「カクテルの頼み方もそうだが、本当に、アガサは世間知らずで困る……。帰ってきたらちゃんと相手をしてやるから、おとなしくしているんだぞ」
ドラコはそう言ってアガサを放すと、ベビーチェアから面白そうに二人を見あげているモーレックに近づいて、実った桃のようなモーレックの頬にキスをして、「ママを頼む」、と言った。それからドラコはそのままキッチンから裏庭に出ていった。
ほどなくしてストラダーレの重厚なエンジン音が古城から遠ざかっていってしまっても、アガサの心臓はまだドキドキしていた。
「キスする場所に意味があるなんて、知らないわよ。あの人、勘違いしてないといいけど。モーレックは知ってた?」
あう! と言って、モーレックが頷いた。
アガサは溜息をつく。
見ると、モーレックの手の中にあったプラスチックの知恵の輪が解かれて、ベビーチェアのテーブルの上に散らばっている。
「もう解いちゃったの?」
これまでは一時間くらいはもっていたのに、6歳児用の知恵の輪は、モーレックにはもう簡単になってしまったようだ。
次はどんなおもちゃを買ってあげようか。
アガサは別の意味で、また溜息をついた。
◇
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