恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-2
イーストハリウッドのバーモント通りにある小児病院の一室で、アガサはドラコと一緒にドクターが診断結果を知らせに来るのを待っていた。
モーレックは病院に着いてから魂が抜けたようになり、今はアガサの抱っこ紐の中で、虚ろな目をしている。
その日、午前中は機嫌の良かったモーレックが、午後のお昼寝から目覚めて、アガサたちが病院に行く準備を始めだすと、急に不機嫌になってグズり始めた。
アガサのザ・ビートルの後部座席のチャイルドシートに寝かせられると、モーレックはいよいよ本格的に癇癪を起こして金切声で泣き喚き、その泣き方があまりに酷いので、病院に向かう途中に何度か車を停めなければならないほどだった。
「一体、どうしてそんなに泣くんだ。頭がおかしくなりそうだ!」
運転をしているドラコもイライラしはじめるし、アガサは不安になるしで、病院にたどり着くまでは本当に地獄のようだった。
モーレックはアガサが抱いてあやしても、いやいやと首を振って、顔を真っ赤にしてアガサの胸にしがみつき、ゴジラのような狂暴な叫び声を上げた。
ヒルハースト・アベニューで三度目に車をとめたときには、巡回中のロサンゼルス警官が心配してアガサ達のいる方へ腰に手を当てながら近づいて来たほどだ。
「大丈夫ですか、奥さん?」
「私たち、この先の小児病院に3時に予約を入れているんです。この子、病院に行くのがすごくイヤみたいで。家を出てからずっとこの調子なんです」
身分証と母子手帳を見せる様に言ってきそうな雰囲気だったが、警官たちはモーレックの狂暴な喚き声に恐れをなし、一定以上の距離から近づいて来ようとはしなかった。
「これはひど、いや、元気な赤ちゃんですね! 具合が悪いのかもしれませんから、早く行ってあげてください」
「はい、お騒がせしてすみません、どうも……」
なんだかアガサは警官にも見放されたような気がして、泣きそうになりながら再びモーレックをチャイルドシートに寝かせた。
だが、それほど泣いていたモーレックが、ひとたび病院に足を踏み入れると、突然、不気味なくらい静かになった。
診察の間も、モーレックは全てにおいてやる気をなくしたように、無関心と無反応を貫いた。
物をつかむ反応を診るテストでは、どんなおもちゃを差し出されても興味を示さず、ドクターの声に反応することもなく、目を合わせることさえしなかった。
つかまり立ちや伝い歩きを診るテストでは、アガサがモーレックを床の上に座らせると、そのまま横向きに倒れてしまって、少しも動こうとしない。
「どうしたのモーレック。ハイハイができるでしょう? こっちに来て、ここにつかまって立つところを、ママに見せて」
アガサがそう呼びかけても、身じろぎ一つしない。
言語の理解や精神の発達を診るために、ドクターとアガサが交互にモーレックに話しかけ、なんとか気を引こうとしたが、やはり目も合わないし、いつもはとてもよく喋るのに、診察の間は、モーレックは一音も声を発しなかった。
家ではよく喋るし、よくベビーサークルから抜け出して、動き回るんです、とアガサは説明したが、どうやらドクターは信じなかったようだ。
その証拠に、血液検査と、脳のMRI検査を緊急で行う必要があると言ってきた。
もちろん、必要な検査はしてもらいたかったので、アガサは承諾した。
採血のときに腕に針を刺されたが、モーレックは泣くことも嫌がることもしなかった。無反応なうえに無表情なので、これには看護師も動揺を露わにした。
普通の赤ん坊なら大泣きするらしい。
MRI検査では、大きな音が鳴るので普通なら赤ん坊を撮影するためには軽い麻酔処置を行なわなければならないのに、モーレックは微動だにしなかった。撮影が終わる頃には、検査を担当したスタッフが顔を強張らせて、心配そうにモーレックを返してきた。
病院に来てからのモーレックが、ゴリヤノヴォの孤児院で出会った頃の様子と同じだったので、アガサは誰よりも動揺し、心配した。
古城にやって来てから調子が良くなってきたと思っていたのに、無理に病院に連れてきたせいで、何か良くないことが、きっとモーレックの体の中で起こったに違いない、とアガサは思った。
「この子、検査のあいだ、全然泣かなかったのよ」
「へえ、偉いじゃないか」
「看護師さんたちが、普通じゃないって噂しているのが聞こえたわ」
「ここに来る途中で一生分泣いたから、もう泣くのに飽きただけだよ。そんなに深刻にとらえるなよ」
「でも、……」
アガサがまだ何か言いかけたとき、ドクターが二人の待つ診察室に入って来た。
アガサは深く息を吸い込んで、無意識にドラコの手を掴んだ。
思った通り、ドクターは深刻な表情をしていた。
「身体的な発育の遅れは、致命的ではありません。身長も体重も、一歳児の平均よりも10パーセント程度少ないですが、血液検査の結果は良好です。食事に気を付ければ、これから十分に回復していけるでしょう」
「うちの子に、問題はないんでしょうか?」
アガサが震える声で核心を問うと、ドクターはパソコンのモニターにMRI画像を映し出した。
「脳の発達に異常が認められました。ここです」
医者が、脳の前側の部分を指さした。
「前頭前皮質が極めて薄く、前頭前野への血流がほとんど認められません。これらの領域は、日常生活や社会生活に重要な思考や判断、精神活動を司ります」
「つまり……」
「モーレックくんは、高次脳機能障害を患っている可能性が極めて高いです」
「どんな治療ができますか」
アガサが聞くと、医者は目を伏せた。
「確立された治療法はありません。成熟した大人に認められる外傷性の機能障害であれば、リハビリ療法や精神療法によって、失われた機能の回復を期待することができますが、未発達時の場合はそもそも回復させる機能がないのです。正直に申し上げますと、この状態でここまで生きてこられたのは、奇跡と言ってもいいでしょう。生きることに必要なあらゆる感情的欲求が欠如している状態です。日常御生活に必要不可欠な判断力や、認知機能も失っているので、このまま成長したとしても、モーレックくんが社会に適応して一人で生きていくことは困難でしょう。生涯、福祉的なサポートが必要となります」
――色も、音も、温度もない世界。そんな孤独な世界を一人で彷徨っている。
アガサは、モスクワの軍事病院で言われたことを思い出した。
「我々の経験では、このような子は、残念ながら成人まで生きられたケースはほぼ見ていません。今後できることがあるとすれば、モーレックくんがなるべく生きやすいように、ご両親が愛情深く接してあげることが、唯一の対症療法となるでしょう」
診察室を出た頃には夕方の6時を過ぎて、院内の廊下はシーンと静まり返っていた。
ドクターの前では気を張っていたアガサも、廊下に出てモーレックと、ドラコの3人だけになると、一気に緊張の糸が解けて、涙が溢れてきた。
――可哀そうに。私の可愛いモーレック。
アガサは抱っこ紐の中のモーレックを強く抱きしめて、声を押し殺して泣いた。
そんなアガサを頭からすっぽり包み込むように、ドラコが抱きしめる。
「医者の言うことなんか真に受けるなよ。モーレックのことは、俺たちの方がよく知っているんだ。この子は何も問題ないさ」
「でも……」
「大丈夫だよ、アガサ」
ドラコはアガサが泣き止むまで、ずっと彼女を抱きしめ続けて、彼女の背中を優しくさすった。
「モスクワと、ロスの、二つの病院で同じ診断が出たのよ。今度はMRIまで撮って……」
「前頭前皮質はこれから成長することも十分にあり得るし、前頭前野に血流がないことも、障害のせいかどうかわからない。――訓練すれば、脳の血流はコントロールすることくらいできる。俺だって、できるぞ」
アガサはドラコの腕の中で顔を上げた。疑っているようだ。
「嘘じゃないって。極限状態を乗り切るために必要なことなんだ。アルテミッズファミリーでも戦闘要員はみんなやってる」
「でも、モーレックは赤ちゃんなのよ?」
「通常は、瞑想や呼吸法、極限まで肉体を追い込むトレーニングの繰り返しで得られる技能だが、中には、生まれながらに脳をコントロールできる怪物もいると聞いたことがある。きっとモーレックは病院に連れてこられたのが不満で、意図的にその極限状態に入ったのさ」
「モーレックが怪物なわけないでしょう」
「アガサ、車の中であの恐ろしい泣き声を聞いたばかりだろ。俺たち二人とも、あともう少しで、脳が溶けて耳から流れ出るところだった」
そんなことあるわけない、と思いながらも、アガサはこのときのドラコの呑気な態度には救われる思いがした。
「すっかり遅くなっちゃった。もう、家に帰らなくちゃ。モーレック、家に帰るわよ」
アガサが涙を拭いてそう言うと、抱っこ紐の中でモーレックが顔を上げた。
その目には輝きが戻り、泣きそうな顔をして、本当に家に帰るの? ということを聞くように、アガサに喋りかけてくる。
「そうよ、家に帰るのよ」
尚も、モーレックが何かを問いかけてくる。何度も、何度も、確認するように。
「病院はもうおしまい。まさか、ここに置いて行かれると思ったの? そんなわけないでしょう、モーレック」
すると今度は、何か文句を言っているふうに、喉をならし、口を尖らせる。いつものモーレックに戻っている。
アガサはまた涙を滲ませてモーレックを抱きしめた。
「ああ、モーレック、バカね。あなたをどこにもやったりしないわよ。これからはママとずーっと一緒だって、いつも言っているじゃない」
アガサが小さな額にキスをすると、そうだったの、僕てっきり、と、言っているように、モーレックはもごもごと音を漏らした。
そんな二人のやりとりを隣で聞いていたドラコが、
「ママを泣かせて、悪い奴だ」
と、言った。
帰りに、病院の向かいにあるスーパーで夕飯の買出しと、モーレックのおもちゃを買った。
再び後部座席のチャイルドシートに収められたモーレックは、窓の外を流れる景色を不思議そうに眺めて、おとなしくしていた。
ハリウッド通りで、真っ赤なフェラーリが並走して通り過ぎていったときには、「だー!」と言って指をさし、きゃっきゃと喜んだ。
行きとは大違いで、帰りの車中があまりに平穏なので、ドラコは皮肉をこめて呟いた。
「大人になるのが、空恐ろしい赤ん坊だよ、本当に」
◇
次のページ 第5話3