恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-13


 逸る気持ちで、ドラコはエントランスに車を停めて表玄関から古城に入った。アガサにプロポーズをするために。
 すぐにキッチンの方からアガサと子どもたちが騒がしく揉めている声が聞こえてきて、モーレックが転がりそうな勢いで一階の広場に逃げ出してきた。食事が終わったばかりと見えて、何か黄色いもので前掛けをべったりと汚しているので、「その悪がきを捕まえて!」、と怒鳴るアガサの声は聞こえたが、反射的にドラコは思わず避けた。

 片腕に泣きわめくマリオを抱えたアガサが、怖い顔で後を追って来る。

「今日という今日は本当に頭にきた」
 アガサが顔を真っ赤にして怒っている。

「いったい、何をしてあんなにママを怒らせたんだ……?」

 階段を四つん這いで上って二階への逃走を試みているモーレックを、ドラコは後ろから慎重に抱き上げて哀れみ深くキッチンに連れ戻した。スーツに汚れがつかないように体から離して持つと、哀れな逃走者はまだ逃げられる余地があるかのように足をバタつかせて抵抗した。

 キッチンに入ると、事態は深刻だった。
 ベビーチェアの上のテーブルがひっくり返されて、その上に載っていたと思われる食事がすべて椅子や床の上に散らばっていた。誰かがゲロをぶちまけた様な惨状だ。

「この子、ベビーチェアから自力で抜け出すことを覚えたの。おかげで今夜のままのあむあむは台無しになったわ」
 アガサがモーレックを睨むと、モーレックも負けじと言い返した。
「まま、まりお ばっかり。もれにあむあむ いてくれない!」
「今日は仕方がないのよ、モーレック、マリオは朝から熱っぽくて、ずーっとグズっているんだもの」
「もれも ねつ……」
 と言って、モーレックがうわーん、と、堰を切ったように泣き始めた。

 アガサは、申し訳ない気持ちになった。
「そうよね、モーレックもお熱があるのよね」
 実際にはなかったが。

 アガサはまだ泣いているマリオをベビーベッドに置くと、ドラコからモーレックを受け取って床に置き、なだめながら汚れた前掛けと上着を脱がした。それからモーレックを抱っこして背中をさすってあやした。モーレックは多分、他の同年代の赤ん坊よりも知能が高く、大人たちの会話をよく理解しているし、よく喋る。だがそれでも、まだ1歳3か月の子どもに、お兄ちゃんだからと言って我慢させるのには限界があったのだ。

 今夜は離乳トレーニングを諦めて、ミルクにしようとアガサは決めた。
「ミルクにする?」
 ママの首にしがみ付いたまま、モーレックがコクンとした。

 散らかったテーブルやベビーチェアの片づけはすべて後回しにして、アガサは哺乳瓶にたっぷりのミルクを作り、それをモーレックに飲ませた。
 そうやって片腕にモーレックを抱きながら、ドラコの夕飯を皿によそってテーブルに出す。
 代わりにドラコがマリオを抱っこしてあやしてくれたので、ようやくキッチンに静けさが取り戻された。

 シンクには汚れものがたまっているし、次から次にでる子どもたちの洗濯物もはかどっていない。
 食後の片づけをし、汚れたテーブルと床を掃除して、マリオを沐浴させて、モーレックと一緒にお風呂に入る。
 風呂から上がると、子どもたちに水分補給をさせ、最近は眠る前に絵本を読んでいる。モーレックはこの時間をとても楽しみにしているようだった。
 いつもなら絵本を読み終わる頃におとなしく眠りにつくモーレックが、その夜はママにしがみついて離れなかった。アガサはモーレックに添い寝をして、そのまま子ども用のベッドで一緒に眠りについた。

 ベビーベッドではマリオが寝ている。数時間後にはまたミルクとオムツ替えだ。
 少しでも眠ってママの体力を復活させなくては。アガサはくたくたに疲れていた。


 小さな赤ん坊がいるとママは大忙しだ。

 すっかりプロポーズのタイミングを失ったドラコは、自室に戻り、彼自身も疲れてベッドに座り込んだ。
 その手には、受け取って来たばかりの婚約指輪が入ったケースが握られている。

 シャワーを浴びて、ベッドに入り、今夜はどう見てもタイミングが悪いから、プロポーズは翌日に持ち越そうと考えた。
 でも、ドラコはどうしても眠れなかった。

 時計の針は、間もなく午前3時をさそうとしていた。そろそろ、マリオがミルクを求めて泣き出す時間だ。
 ドラコはそっと起き出して、子ども部屋に向かった。

 モーレックのベッドで寝ているアガサを起こさないように、静かに部屋に入ると、ちょうどマリオが鼻を鳴らし始めたところだった。ミルクの前にいつも、オムツを換えてもらいたがってマリオは泣く。
 ドラコはベビーベッドの上でマリオのオムツを換えた。
 それから新生児用のミルクを作って、その夜は一声も泣かせずにマリオにミルクを与えた。
 赤ん坊が眠りにつくまで根気よくあやし、優しく囁きかけて、マリオが眠ってしまうと、ドラコは小さなマリオを抱えたままモーレックのベッドに一緒に入った。ミルクと、カモミールと、清潔な洗濯物、それに、太陽の芳ばしさの混ざった匂いがした。
 とても愛しい匂いだ。

 小さな子ども用のベッドに、アガサ、モーレック、マリオ、ドラコが入るととてもぎゅうぎゅうになったが、その狭いスペースに身を寄せて、4人は本当の家族のように眠った。





 明け方に名前を呼ばれて、アガサは目を覚ました。
 まだ辺りは真っ暗で、目の前にはドラコの顔があった。二人の間には、モーレックとマリオがいる。

 子どもたちを起こさないように、ドラコは小さな声で囁いた。

「アガサ、俺と、――結婚してください」

 ああ、これは夢だな、とアガサは思った。子育てで疲れすぎていて、強烈な眠気にアガサはまた目を閉じて囁いた。

「喜んで」

 と。

 夢の中で、ドラコは身を乗り出してきて、彼女の唇に優しくキスをした。
 そして彼女の手をとると、指に触れて、何かをしたようだったが、アガサは心地のいい眠りの中にいたので何をされたのかは気にしなかった。

 眠っているアガサの耳元で、ドラコは言った。
――俺は永遠に君の親友で、夫だ。君と、この手のかかる子どもたちを、俺が絶対に守るから。と。

 そう言ってまたキスをされたので、
「愛の詩は?」
 と、アガサは夢見心地で問いかけた。
「今はまだ、どんな言葉も嘘くさく感じて無理なんだ。だから、」
 ドラコは三度めのキスをアガサに落とした。
 温かで、柔らかな唇がアガサに触れて、彼女の唇を優しく食む。ドラコにキスをされてアガサが微笑み返したのは、その夜が初めてだった。

 ドラコがアガサの手に触れ、指を絡めて、握りしめた。
 その温かくて、強い手を、アガサも握り返した。
 それから二人は子どもたちを間に挟んだまま、手を繋いで朝まで眠った。





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